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【無料】1958年、若者によるもうひとつの”昂奮と陶酔”コーラスブーム

1958年、若者によるもうひとつの”昂奮と陶酔”コーラスブーム

瀬川昌久と大谷能生の共著『日本ジャズの誕生』などの関連文献によると、実は戦前=1930年代の日本でも、アメリカから輸入されていたミルス・ブラザーズやボズウェル・シスターズのレコードに影響を受ける形で、日本人コーラスグループがいくつか誕生していたという。

中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ『タイガー・ラッグ(原題:Tiger Rag)』

コロムビア・リズム・シスターズ『もしもし亀よ』(作編曲:服部良一)

戦前日本のコーラスグループはジャズのスタンダードナンバーの邦訳カバーはもちろん、日本風のメロディにジャズ風アレンジを加えたオリジナル作品なども歌っていた。
しかし1941年の太平洋戦争勃発後も音楽活動を続けられたアメリカのコーラスグループとは対照的に、日本のコーラスグループは戦時体制が本格化するとメンバーの徴兵、そして当時のコーラスワークの柱でもあったジャズも敵性音楽として規制されたことから、その多くが継続困難となり、解散してしまう。
そして終戦後も彼らが復活するケースはほとんどなかった。

こうして戦争に阻まれ、一度は途切れてしまった日本のコーラスグループ史。しかし終戦から約10年が経過する1950年代半ばになると、その歴史を再び繋ぎ合わせるかのような動きが大衆の渇求から始まる。
すでにブームとなっていたレコード鑑賞・バンド生演奏をウリにするジャズ喫茶に続き、来店客による合唱をウリにした「歌声喫茶」が、東京で次々開店し始めたのだ。

「「青春はふたたび来らず。ぼくたち青年、学生の一つの幸福追求の手段ですよ・・・・」。ここ新宿の一角に、粗末な丸太を組み合せたような造りの喫茶兼酒場”カチューシャ”は”うたごえ"時代が生んだ産物である。(略)そちらの一角には組合青年部といった風の数人が、演劇サークル論をたたかわせており、バーの片隅では、うすあかりに、ひとり深刻そうな顔の背広学生がしきりに鉛筆を走らせている。少しおくれて女性だけの三人連れが来て、一隅をしめる。と突然、二階の張り出しの方から、「リンゴの花ほころび、川面にかすみたち・・・・」と二、三人のうたが響き出す、と、状況が一変する。今までのチグハグ感はどこへやら、力いっぱいの齊唱である。「カチューシャ」は「トロイカ」になり、「灯」になり、「仕事の歌」になる。「我等の仲間」を歌うころには、完全にうちとけた”うたごえ”仲間である」

(『知性』1956年7月号)※原文ママ

まだ現代のようなカラオケビジネスも存在しないこの時代、歌声喫茶が提供する合唱の連帯感は、特に若い世代を惹きつける魅力があった。
そしてこの歌声喫茶で人気の高かったロシア民謡『ともしび』をプロとしてカバーしたのが、慶應義塾大学の男声合唱団出身、男性4人組コーラスグループ・ダークダックスである。

ダークダックス『ともしび(原題:Огонёк)』

「彼らコーラス・グループの歌声は、人々にとってモダンそのものだったのである。痙攣的で官能的なロカビリーとは異なる、しかも湿気をぬぐい去れない日本調歌謡曲とも異なる、もう一つの歌の世界がそこにあった」

(菊地史彦『「日本」の戦後史 【第2章 ザ・ピーナッツの時代】:[1]ザ・ピーナッツ――コーラス・ブームから』論座)

アメリカのミルス・ブラザーズに深い尊敬を抱き、メンバー全員がまだ20代の若者ながらすでに高い完成度を誇っていたダークダックスのハーモニーは、この『ともしび』の歌唱をきっかけに知名度が上がり、直後から彼らはヒットを連発。
そして1958年にはついにNHK紅白歌合戦初出場も決めるのだが、これは前年までソロ歌手しか出場できなかった慣例を打ち破って「紅白にグループ歌手が出場した」史上初のケースでもあった。

そんな盛り上がりの規模を見れば、ダークダックスのブレイクを挟む形で1950年代後半の日本に、有名コーラスグループの結成とデビューが集中しているのもすぐに合点がいく。
後にダークダックスを含めて「三大コーラスグループ」と呼ばれるようになるデューク・エイセスは1955年に、またボニージャックスは1958年に、それぞれ活動を開始していた。
またコーラス人気の高まりを受けて1958年12月に東京で開催されたコンサートイベント「ジャズコーラスの祭典」には、男性コーラスグループだけでなく、女性コーラスグループも複数参加している。
この「ジャズコーラスの祭典」に出演した女性コーラスグループのラインナップで、特に目を惹くのは伊藤シスターズの名前だ。
この時はまだ本名を名乗っていた彼女たちが「ザ・ピーナッツ」と名付けられ、ドゥーワップカバーで全米1位を獲得したあのマクガイア・シスターズを憧れの存在として 、レコードデビューするのは翌年春の話である。

ザ・ピーナッツ『可愛い花』

――そして、戦後日本のコーラスグループ史を語る上で絶対に外せないザ・ピーナッツの名前が出てきたところで、1950年代後半のブームの中心にいたダークダックスやザ・ピーナッツのような若き国産コーラスグループ、そして同時期のもうひとつのブームの中心にいた平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスのような若きロカビリー歌手たちのバイオグラフィを改めて追いかけてみると、ふとこんなことに気づく。
一見まったく違う熱源から生まれていたはずの両者の足跡は、実はこの後から、急激に融合していくのである。

その動きはジャズ喫茶の盛り上がりからロカビリー歌手が、そして歌声喫茶の盛り上がりから国産コーラスグループが、それぞれの分野で大きな成功を収めた直後の1959年に始まっていた。
彼らが出会い、そして時代の伴走者となった場所。
それはテレビである。

参考文献:

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