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全人類はパセリのような人間を目指してみてもいい思う。人間関係は「好かれる」ように?それとも「嫌われない」ように?

私生活の事情で暫くnoteから離れていたら、文章が思い浮かばないスランプ状態に陥ってしまいました。 1か月以上空けてごめん、僕・・・。

パセる方もパセらない方もこんばんは。皆さん、パセリ知ってますよね?料理に乗っかってるアレです。誰も(普通は)食べはしないけれどちょっと雰囲気を出してくれるアレです。

いきなりですが僕はパセリになりたいと思っています(?!)。パセリのような人間になりたいと思っています。

さて、パセリのような人間とは一体どういうことなのでしょうか?    

読み手の皆さんは恐らくまだ理解が追い付いてなさそうですが、気にせず僕のペースのまま、以下からそれが何たるか、そして人間関係をうまくやっていく方法について語ります。いきます

パセリとは・・・?

パセリとは、セリ科の一種の二年草。世界で最もメジャーなハーブの一つで、日本では主に葉を料理の付け合わせや飾りとして用いる

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👆これはですね、パセリじゃなくてニンジンです

ポイントは付け合わせ・飾りという部分。直接食べるのが主流でないから、まず縁の下の力持ち以上にはなりにくい。パセリが置いてある場所に何も無かったとしても、気にはなるかもしれないが特に困りはしない。合っても無くてもいい。地味な草。

しかし何の因果か、僕はそこに価値を見出してしまったのである。

有っても無くてもいいけれど、あるとちょっと嬉しい。飾り付けや見栄えの為にパセリがあってくれると、痒い所に手が届く。誰も必要としないならとっくのとうに無くなっているはず。

このことから人は無意識の内にパセリを心のどこかで求めていると言っても過言ではない。多くの料理が人知れず、パセリの恩恵を受けているように。

置き換えてみると

居ても居なくてもどちらでもいいけれど、居てくれると何かプラスの気分になる。華ではないが何か誰かの為になる。光るところがある・・・

クラスのリーダー的存在では無いんだけれど、お調子者が欠席して、いつもよりちょっと静かな教室を想像してみてもらいたい。

「今日はアイツが居ないからつまらない」・・・こんな感情になったことはないだろうか?

本記事が目指すのはそこ。誰かに「居てほしい」と思われるような存在になることである。

無くても(居ても)マイナスにならず、むしろ有ると(居ると)プラスになり、空いた隙間に良い具合にハマる、健気なヤツ

これが僕の考えるパセリ人間である。誰もが授業中に一度は空想を試みたであろう、影の人気者のような存在と立ち位置。いい歳しても僕は未だにそれに憧れて止まない。

「好かれる事をする」ことと「嫌われる事をしない」ことの違いとは

一見すると矛盾しているかのように見えるこちらの2つだが、そうではない。

誰かと待ち合わせをしているとしよう。特別な事情無く、約束通りの時間に到着していなければ、相手に嫌な思いをさせてしまうだろう。

では反対に、時間通りに到着していれば相手から褒められるのだろうか?

・・・そうではない。何故なら時間通りの集合は当たり前だからだ(と言いつつ僕は時間をきっちり守れるタイプではないので非常にプレッシャーである)。

目の前のテーブルに誰かの財布が置いてあったとしよう。それを盗めば、当然怒られてしまうだろう。

では反対に、盗まなければ相手から褒められるのだろうか?

・・・そうではない。「私の財布を盗まないでいてくれてありがとう」なんてわざわざ頭を下げるような、万物に礼をして回るような聖人君子は、僕の常識が正しければ、まずいない。何故なら人の物は盗まないのが当たり前だからだ。ひとのものを とったら どろぼう。


と、こんな風に、嫌われる行動の反対が必ずしも好かれる行動でない場合は見渡すとしばしばあったりする。

さて、もし既にあなたがこの事実を知っているのなら野暮な物言いになってしまうのだが、実は人は完璧ではない。皆何かしらの失敗や弱みを持っているのは当たり前だ。

つまり、人間関係においては「減点方式」が軸となっている部分がある、と考える。

先の例で言えば遅刻をしたり、物を盗んだりするような人は、他者から 「あの人は自分にとって良くない人だ」というように意識面の部分でそれ相応の制裁を受け、人間関係における篩から落とされていく、ということになる。

良い事よりも悪い事の方が印象に残りやすいとよく言われるように、「嫌われることをする人」の存在によって相対的に「好かれる人」が現れてくる、と書く方が正しいかもしれない。

冒頭に述べた「パセリ人間」から連想されるイメージとはちょっと離れてますが、汚く言うとこれ・・・他人のミス待ちをしようってことですね。ゲスいな。

無理しなくていいのが「パセリ人間」

 世の中には、人のために何かすることを厭わない、献身や博愛の実践者(かっこいい)とでも呼べるような、優しい人間がいる。

そうした人々はまさに「好かれる才能」を持っていると言うこともできる。

しかし、世のため人のため・・・というのは皆が皆できることではない。

今回提案する「パセリ人間」の主張は、そんな好かれるための努力を放棄しちゃってもいいんだ、という逆転の発想なのだ。

何も人を笑顔にさせる必要はない。不必要に落胆させなければ良い、というだけのことなのだ。

己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」ーーこれは、かつての古代中国の思想家・孔子が遺した言葉である。

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👆これはですね、孔子じゃなくて・・・?

これ、要は「じぶんがされてイヤなことは、ほかのひとにもしちゃダメだよ!」という至極真っ当なものである。簡単だ。殴られたら痛いんだから、人の事を殴らなければいい。言われたら悲しいから、人に酷い事を言わなければいい。自ずから「パセリ人間」は達成されていく。

そうするうちにやがて気付く。知らず知らずのうち、自分がまるで料理の足りない部分をカバーする健気なパセリのような存在になっていることに。説明できない居心地の良さを帯び、周りの人が無意識の内に貴方に良いイメージを抱いていることに。


はい、久しぶりに書いたら文章の毛並みがおかしくなりました!それっぽく書いてますが半分ネタ記事です。

ダメ人間が偉そうなこと書いて本当にすみませんでした。つかパセリパセリうるせーよ!肉食わせろ!

以上です。

パセリ人間になるために大事なことを一つ伝え忘れていた。「好かれることをする」「嫌われない事をしない」・・・意味合いこそ異なるが、両者とも相手の気持ちを汲み取る能力が必要不可欠だ。なぜかって?   人生で耳にタコができるくらい、説教臭くこんな様な言葉を言われてこなかっただろうか?        「自分がされて嫌でないことでも、相手は嫌に思うかもしれない」・・・。














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