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千人伝

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様々な人の評伝「千人伝」シリーズのまとめマガジン
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#個人史

千人伝(二百三十一人目〜二百三十五人目)

二百三十一人目 外界 外界は外界を認めなかった。病院で生まれ育ち、外に出たことのなかった外界は、窓から見える外の景色を現実だとは言いたくなかった。ある日、陽の光が眩しいからと、自分の視点より下の窓を紙で塞いだ。本当は外で動く健常な人間の姿を見たくなかったためだった。  外界が外の景色に触れなくなってから、病院に入院する患者は増えた。外では戦争だとか爆撃だとかテロだとかがこれまでにない頻度で起こっているらしかった。病院の中は安全だったので、外界は外に出られない病の持ち主では

千人伝(八十一人目~八十五人目)

八十一人目 鏡原 野原には草が生えている。鏡原には鏡が生えている。 鏡原に生える大小極大極小、ありとあらゆるデザイン、割れた鏡にこれから割れようとする鏡、無限に近い鏡の中で生まれたのが、地名と同じ名を持った鏡原である。 人である鏡原は鏡原に迷い込んで出られなくなった男女から生まれた。鏡原に生える鏡の中には、現物はなくとも食料を映し出す鏡があり、その前に立てば栄養を取れるし、稀に中に入ることの出来る鏡もあった。 ある日合わせ鏡の奥の奥まで入り込んでしまった鏡原の両親は帰ってく

千人伝(七十六人目~八十人目)

七十六人目 歯車 歯車は視界の端でキシキシと音を立てている。 他の人には見えないが歯車も人である。 歳とともにガタが来てあちこち動きが悪くなるし、一部壊れて二度と戻らない箇所もある。 人であるから油を塗ったところで意味はない。 だから泥ばかり塗りたくり、より一層視界の端でガタガタと言い始める。 七十七人目 ピントウ ピントウは早朝や真夜中に人の家のインターフォンを鳴らして回る迷惑な人である。住民は寝ていたり、強く警戒をしたりで、既に逃げ出してしまったピントウの背中を見る

千人伝(七十一人目~七十五人目)

七十一人目 星子 星子は流れ星と流れ星がぶつかった瞬間に交接して生まれた子である。 空から落ちた星子は落ちる星の生物に似せて体を作った。 血液の代わりに極小の星々が体を巡っている。怪我をすればきらきらと星がこぼれて瞬く。眼球の大半はキラキラしているからその前に立つと眩しくて眼を閉じてしまう。 星子は地上を走る流れ星に出会うことはなかったので生涯独身を通した。 流れ星同士の衝突は星子の生まれた時以降一度も起こらなかった。 七十二人目 墨汁肩 肩の窪みをグレノイドと呼ぶ。グ

千人伝(六十六人目~七十人目)

六十六人目 砂川 砂川は砂で出来た川で生まれた。 水の代わりに流れる砂の中では砂魚も泳いでいたし砂貝もいたから当然砂人もいたのだ。 砂で作られた体であるから、さらさらと崩れ落ちるし、水に濡れたら泥となった。 砂人と砂人との交接は文字通り一体化してのものである。交接が終わっても元の体には戻れない。互いに少し混じり合って離れ、砂人の自我はいつもさらさらとこぼれ落ちていく。 六十七人目 寝歌 ねか、はいつも歌いながら眠りについた。 折りたたまれたままの布団で眠り始め、布団を敷

千人伝(六十一人目~六十五人目)

六十一人目 彼我差 ひがさは日傘から生まれた。 夏が近づき日差しが強くなると誰も彼もが日傘を差し始める。 一昔前と違い、日傘なしでは人は紫外線に殺されてしまうからだ。 誰も彼もがマスクをつけ、日傘を差す。彼我の差が縮まる。誰が誰だか分からなくなる。彼が我で我が彼でも構わないようになる。 そんな人混みの中に彼我差は紛れ込んで蠢いている。 百人の人混みがよく数えたら百一人になっている時がある。 彼我差は生まれて、またすぐに消えていく。 六十二人目 手蝶 てちょう、と読む。

千人伝(五十六人目~六十人目)

五十六人目 落下 おとした、と読む。何かを落としたような気がするが地面や床を見れば何も落ちていない、ということが稀にある。あれは下に落ちる寸前に落下により拾われてしまっているのである。鍵や指輪や小銭や若き日の夢や、大事なものもつまらないものも分け隔てなく落下は拾い上げる。持ち主の元に返したことはない。 五十七人目 ナメクジミミズ 雨上がりに大量に発生するナメクジの上に塩を振りかけて放置しておくと、跡だけ残してナメクジは消えてしまう。そこに死んだナメクジを慕い寄り添うよう

千人伝(五十一人目~五十五人目)

五十一人目 丸坂 丸坂は転がっている。丸坂の身体は丸いので転がりながら移動する。下り坂に至れば転がり落ちる。坂が続けば止まれず、勢い余って人や車や獣を蹴散らしてしまう。 上り坂に至れば手足を伸ばして地面を掴む。だがどう足掻いても僅かしか進めず、途中で転がり落ちてしまう。 だから丸坂は生まれて以来どんどん下り続けてしまっている。最終的には穴に落ちていくだろう、と丸坂研究者たちは口を揃えて言う。地の底深くに落ち続けていくだろう、と。 五十二人目 黒木 黒木は山火事の跡に残

千人伝(四十六人目~五十人目)

四十六人目 図景 ずけい、は様々な図形のみで形作られた景色の中に住む。そのような景色の中に普通生物は住み着くことが出来ず、虫もプランクトンも霊もいない。四角と三角と六角形と平行四辺形と三十六角形と……。 図景はそれぞれの角から僅かにこぼれ落ちた角屑を糧にして命を繋いでいる。崩壊寸前の建物の中に偶然生まれるそうした景色の中で生まれ、育つというほど大きくなれないまま図景は息絶えた。時間にして二十秒ほどの命であったが、こうして書き留めておく。 四十七人目 灰衣奈 はいえなと

千人伝(四十一人目~四十五人目)

四十一人目 阿見湖 あみこ、は湖に沈んでいたところを引き上げられた。持ち物からして五十年以上前に沈められた阿見湖であったが、まだ息があり、人工呼吸により蘇った。湖に沈んだ十代当時のままの姿かたちで、その後平凡に生き、恋などもした。 ただし血液は全て湖の水に取って代わられていたため、どこか切ると出てくるのは透明な水だけなので、傍目には怪我などしていないように見えた。 貨物機から落下した一本の万年筆が頭蓋を貫くという不幸な事故により阿見湖は亡くなる。倒れた彼女の周囲に広がる水を

千人伝(三十六人目~四十人目)

三十六人目 濡肌 濡肌は海から生まれたわけでも、雨が人になったわけでもないのに、いつも肌を濡らしていた。時には激流のように肌の上を水が流れていき、うかつに濡肌に触れたものを溺れさせた。 濡肌は砂漠へと旅をしたが、肌が乾くことはなく、むしろ彼女を中心としてオアシスが生まれ、新しい街となり、辺り一帯の砂漠を駆逐してしまった。 その砂漠から生まれた人もいるがそれはまた別の話。 三十七人目 鴫林 しぎばやしと読む。鴫の多く住み着いていた林で生まれた。幼い頃から鳥に囲まれて育つと

千人伝(三十一人目~三十五人目)

三十一人目 夜虹 夜に出た虹に偶然出会えた男女から生まれた子が夜虹である。これまで一人しか確認されていないので、固有名詞もそのままとなった。 夜虹の瞳には七色が宿る。虹の配色そのままの瞳は、深く覗き込まなければその色を見ることは出来ない。夜でも輝くくらいの美しさを持つ者にしか、その瞳を覗き込むことは出来ない。 だから夜虹は一度も瞳を覗き込まれることのないまま、生涯を閉じた。 三十二人目 破城 破城は戦に敗れ、火を放たれ、焼け落ちた城に取り残されていた孤児である。戦に勝利

千人伝(二十六人目~三十人目)

二十六人目 原座 原座はある劇団の座長であったが、資金繰りが出来なくなり、やむなく劇団を解散した。団員はそれぞれ個々で活躍し、キャリアを上り詰めていったが、原座だけはいつまでも「元・座長」でしかなく、誰にも誘われず、何にも出演することもなかった。 原座は人を集めることを諦め、幽霊たちと共に過ごすようになった。曰く付きの物件やら心霊スポットやらを巡り、怪談ものを演りたいと誘えば、いくらでも幽霊をスカウトすることが出来た。演劇に興味を持つ死者は意外と多いのだ。 原座は両親を

千人伝(二十一人目~二十五人目)

二十一人目 塗江 塗江はかつて母親だったが、塗り絵を欲しがる娘に絵筆と塗り絵を与え過ぎたため、財を失った。破れかぶれに自分自身を塗り絵として差し出したために、人と塗り絵の半分ずつの存在となった。娘は塗江が身を差し出した頃には塗り絵に飽き始めており、実際に母の顔を塗ったことは一度もなかった。 塗江は幼稚園などによく呼ばれたが、喜ばれるより気味悪がられる方が多かった。それでも全国津々浦々に呼ばれ続け、いつからか人ではなく妖怪として認識され始めた。まだ戸籍もあり税金も収めている