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千人伝(七十六人目~八十人目)

七十六人目 歯車

歯車は視界の端でキシキシと音を立てている。
他の人には見えないが歯車も人である。
歳とともにガタが来てあちこち動きが悪くなるし、一部壊れて二度と戻らない箇所もある。
人であるから油を塗ったところで意味はない。
だから泥ばかり塗りたくり、より一層視界の端でガタガタと言い始める。

七十七人目 ピントウ

ピントウは早朝や真夜中に人の家のインターフォンを鳴らして回る迷惑な人である。住民は寝ていたり、強く警戒をしたりで、既に逃げ出してしまったピントウの背中を見ることは叶わない。
夢の中に聞こえてくる、ピントウの鳴らした音は現実か夢か分からなくなってしまう。
目が覚めて隣に知らない人がいたら、寝ぼけたままドアを開けてしまったために、入り込んできたピントウであるから、叩き出して構わない。

七十八人目 無冒頭

無冒頭はいつまでも書き出さない作家志望者であった。
「まだ書くべき時期ではない」
「こんな世の中では書くべきこともない」
「構想していたのと同じ内容を誰それが発表してしまった」
そんなわけで一行も書き出さないのだ。
ある年は「この梅雨が明けたら小説を書く」と宣言した。
しかし梅雨が明けたら「原稿用紙が湿ったので書けない」と言って筆を折った。

七十九人目 毬水

まりみず、は幼いころは水たまりで泳げたと言い張った。
雨上がりの道に出来る水たまりに飛び込んで泳いでいたのだと。
池ではなかったのか、夢ではなかったのか、と周囲の人は毬水を説得したが、いや水たまりであったと。確かに泳いだのだ、と毬水は言い張った。
ある時河童が毬水を訪ねてきて、「あの時は私が泳がせたのだ」と告白した。
少女を見初めた河童が水たまりを深くし、また広くして毬水を泳がせたのだった。
河童はそれだけ言うと川へと帰っていき、毬水は二度と幼い頃の話をしなくなった。

八十人目 人生病

伝染病の一種であったが突然変異により人となった。彼は人生というものを他人に教えて回った。人は何かを成さねばならないとか、誰かのために生きねばならないとか、無為に過ごしては駄目だとか、そんなことを吹聴していき、伝染させた。
そのせいで多くの人々は一生懸命生きている。何故そのような過ごし方をしなければいけないのか分からない少数派だけが、病と無縁に生きている。人生病は人に病を移しすぎたために、自分自身が分からなくなり、何かをしている最中でも、常に何かをしなければならない、と考え続けている。


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