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千人伝(五十六人目~六十人目)

五十六人目 落下

おとした、と読む。何かを落としたような気がするが地面や床を見れば何も落ちていない、ということが稀にある。あれは下に落ちる寸前に落下により拾われてしまっているのである。鍵や指輪や小銭や若き日の夢や、大事なものもつまらないものも分け隔てなく落下は拾い上げる。持ち主の元に返したことはない。

五十七人目 ナメクジミミズ

雨上がりに大量に発生するナメクジの上に塩を振りかけて放置しておくと、跡だけ残してナメクジは消えてしまう。そこに死んだナメクジを慕い寄り添うようにミミズが転がり、そのまま干からびていることがある。そのような状態が点々とあり、人の形に見えるようになると、その上に寝転がる人間が現れる。それがナメクジミミズである。息も絶え絶えであるが、酒をかけると息を吹き返す。

五十八人目 虎勝

虎勝はチーム名に虎のつくプロ野球チームの熱心なファンであったが、酷い連敗から始まったあるシーズンで正気を失った。その後チームが遅い初勝利を果たしても、勝率が上がり始めても、奇跡的にそのシーズンで優勝を果たしても、虎勝の目から見たそのチームは負け続けていた。
周囲の人間がいくら言い聞かせても、「そうか、君の世界では勝ったのか」と返した。虎勝が正気を取り戻すことはなかった。

五十九人目 三回

三回は「もうここには何度も来た」というような顔をして生まれた。言葉を話すようになると「三回目だ、三回目」と繰り返した。両親はその言葉を聞き流していたが、三回が大きくなっても三回の口癖は変わらなかった。
彼が言うには一回目は売れない小説家として過ごし、二回目は売れないまま亡くなった小説家を売り込もうとして人生を費やしたらしい。三回目は小説から離れ、測量技師として生き、国中を飛び回る日々を過ごした。人生について語る時はいつでも「三回目だ」と言う三回だったが、初めて行く土地では常に「初めてだ、ここは初めてだ」と言いながら感動していた。

六十人目 麁食

そしょくと読む。単語の意味としては粗食と同じである。麁食は困窮のため食料を買わなくなり、水だけで生きていたが水もなくなり、砂に手を出したがトラックによって運ばれてしまった。
砂が枯渇したら紙を食べた。紙がなくなったら埃を食べた。埃が全て清掃されてしまえば己の爪や髪を食べた。
髪は至るところに落ちていた。人により味の違いもあり、髪食に一家言持つようになったが、誰も彼の言葉を聞いてくれるものはいなかった。髪を長くすればいつでもガムのように髪の毛を噛み続けることが出来ると気が付いたが、そのような生活で歯は全て失われてしまっていたので、歯茎の間に出来た穴に髪の毛は吸い込まれるばかりとなった。


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