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千人伝(六十一人目~六十五人目)

六十一人目 彼我差

ひがさは日傘から生まれた。
夏が近づき日差しが強くなると誰も彼もが日傘を差し始める。
一昔前と違い、日傘なしでは人は紫外線に殺されてしまうからだ。
誰も彼もがマスクをつけ、日傘を差す。彼我の差が縮まる。誰が誰だか分からなくなる。彼が我で我が彼でも構わないようになる。
そんな人混みの中に彼我差は紛れ込んで蠢いている。
百人の人混みがよく数えたら百一人になっている時がある。
彼我差は生まれて、またすぐに消えていく。

六十二人目 手蝶

てちょう、と読む。
蝶の真似をして飛んでいる手の平のことである。
手の平だけに見えるがよく見ればその中に顔も内臓も手足もあり、一応人なのである。
蝶には見向きもされず、同種の人にも気味悪く思われて避けられるが、手蝶同士が出会うと硬くその手を結び合う。握手であると同時に交尾でもある。
最後に発見された手蝶は高く飛べるようになった代わりに人の言葉を失っていたと言われている。

六十三人目 イモム氏

イモム氏はサナギの皮を破って出てきた芋虫である。
成長の順番を間違えたことで蝶にも蛾にもなれなかったため仕方なく人となった。
芋虫であるから手足はない。ただし顔だけはこの世のものとは思えないほど美形である。子どもに踏み潰されないようにという天の配慮であるらしい。
そのせいか人に飼われて結婚まで果たした。政界まで進出し首相にまでなった。
だが本人はもう一度サナギの中に帰りたがっていたそうだ。

六十四人目 古活字

ふるかつじ、は年老いた活字が人になったものである。
苦手なものは付箋である。気軽に貼って気軽に剥がされると、付箋に体の一部を持っていかれてしまうからだ。
どこにでもシールを貼りたがる子どもの攻撃は致命傷にもなり得る。
それでなくても日々少しずつ文字は読めなくなっていく。
古活字は子どもの頃の記憶をほとんど失ってしまった。
だがかつての彼の読者が覚えてくれている時がある。

六十五人目 木蛭

木蛭は否定された俗説が人になったものである。
かつて有名な小説の中で「大量の蛭が木から落ちてくる」という描写があったために、蛭は木の上で生活し、人の首元に落ちて血を吸うと信じられていた。
しかし実際は乾燥に弱い蛭は木の上になど住めず、地面から這い上がって人の血を吸っていた蛭に気付いた瞬間が、上から葉や木の実や雨粒が落ちてきたのと同じだった、ということから勘違いされていたのである。
そんなわけで木蛭はひたすら木の上でじっとしている。落ちるわけにもいかず、吹いてくる風や眠気と戦い続けている。


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