優しさに包まれるタイ料理店
今日はエスニック料理が食べたい気分だったので、以前から気になっていたタイ料理屋さんにランチを食べに行くことにしました。
家から徒歩5分の距離にある、今年の3月にオープンしたばかりの新しいお店です。
少し前にインターネットで見つけて以来ずっと気になっていたのですが、タイミングが合わずになかなか訪問できないままでいました。
そのお店は雑居ビルの2階にあり、人がやっとすれ違えるくらいの狭くて薄暗い階段を登ったところに入り口があります。
換気のために開け放たれた入り口の扉には、タイの女性と沢山のタイ料理が描かれたポスターが貼られていて、店内からはエスニック料理特有の発酵調味料や唐辛子の匂いが漂っていました。
私は扉の前に置かれたアルコールスプレーを手に吹きかけてから、お店の中に入っていきます。
するとすぐに「いらっしゃいませ」という明るい声とともに、小柄で優しそうな女性の店員さんが出迎えてくれました。
見るからに本場タイの方だと思われるその店員さんは、
「おひとり様ですね、カウンター席へどうぞ」と流暢な日本語を使って、席に案内してくれました。
まだ早い時間帯だったこともあり、どうやら私が本日最初のお客さんのようです。
窓からは夏の日差しが入りこんでいて、あの狭くて薄暗い階段からは想像できないほど、店内は明るい雰囲気に包まれていました。
20席あるかないかの小さなお店ですが、その明るさのおかげで、不思議と狭くるしく感じるようなことはありませんでした。
私が案内されたカウンター席の向かいはキッチンになっていて、やはりタイの方だと思われる女性のスタッフがリズムよく仕込み作業をしていました。
私は席に着くなり、すぐにアルコールメニューの中からタイのビール、シンハービールを注文します。
待っている間に何を食べようかとフードメニューを眺めていると、すぐにビールが運ばれてきたので、私は一旦メニューから目を離し、まずはグビっといただくことにしました。
「あー、うまい。やっぱり昼間のビールは最高だ」
よく冷えた南国のビールが、夏の火照った体を内側から冷やしてくれます。
タイのビールもなかなか悪くないなぁと思いながら、私は再びフードメニューに目を戻しました。
パッタイやカオマンガイ、マッサマンカレーなど、日本でも馴染みのあるタイ料理もあれば、カオソーイや、カオカームーなど、聞いたこともなければ味の想像もつかないような料理もたくさんありました。
どうやらこのお店は、私が思っていた以上に本格的なタイ料理が楽しめるお店のようです。
私は散々悩んだ挙句に、生春巻きのハーフサイズと、ガパオとグリーンカレーのお得なセットを注文しました。
料理を待っている間、シンハービールを飲みながら異国情緒溢れる料理の匂いを嗅いだり、スピーカーから流れてくるタイのポップミュージックに耳を傾けたりしていると、私はだんだん自分がタイに居るような気分になってきました。
小旅行気分に浸っていると、すぐに生春巻きが運ばれて来ます。
丸くて白いお皿の上には、断面が見えるように筒型にカットされた生春巻きが4つ乗っていて、さらにその上にはスイートチリソースとナッツ、パクチーがあしらわれていました。
ハーフサイズとは言いつつも、なかなのボリュームです。
さっそくおひとついただきます。
「おぉ、美味しい〜」
皮はモッチモチで、中に包まれた野菜はシャッキシャキです。口の中でエビがプリッと弾けると、次の瞬間にはナッツがカリッと砕けました。
まさに食感の四重奏。
計算され尽くした食感のバランスに脱帽です。
私が今まで食べてきた生春巻きはいったいなんだったのか、思わずそう考えてしまうほどにその差は歴然としていました。
これが本場の生春巻きなのかと感心していると、すぐにガパオとグリーンカレーのセットが運ばれてきました。
ひとつのプレートの上に、ハーフサイズのガパオとグリーンカレー、半熟の目玉焼きが乗ったジャスミンライス、それにサラダとスープが付いたボリュームたっぷりなお得なセットです。
本音を言うと、まだビールと生春巻きを楽しんでいたので、もう少しだけ間を置いてからもって来てほしかったのですが、今ここで日本人の私の感覚を押し付けてしまうのは非常にナンセンスなことに思えました。
なにせ、今ここは、タイなのですから。
郷に入っては郷に従えというように、私はすぐにスープを口に含みました。
そして私は再び衝撃を受けます。
「なんだこの優しい味わいは」
しっかりとしたチキンの旨みの中に、陽だまりのように優しい野菜の甘みが口いっぱいに広がります。
申し訳程度に入っている角切りの玉ねぎと人参が、なんとも言えないチープな印象をあたえるのですが、その見た目とは裏腹に、味わいはとても繊細で優しいものでした。
さらに、その澄んだスープの色からは丁寧に出汁が引かれたことが十二分に伝わってきます。
タイ料理というと、もっと辛くて、酸っぱくて、しょっぱくて、尖った味のイメージがあったのですが、それはどうやら私の思い込みだったようです。
グリーンカレーもやはり、同じく繊細で優しい味わいでした。
辛味よりもハーブの爽やかな香りが前面に押し出されていて、中に入っている野菜はとても彩りがよく、鶏肉はホロホロになるまでしっかりと煮込まれていました。
それに対して、ガパオは甘辛く、しっかりとした味付けでした。
単体で食べると少し濃く感じるくらいなのですが、半熟卵の黄身を絡めてジャスミンライスと一緒に食べると、ちょうどよい塩梅になるという、なんとも憎い計算が施されていました。
どちらの料理もハーブや香辛料をとても上手に使っていて、本格感を残しつつも、日本人でも食べやすいように気を遣って作り込まれていることがひしひしと伝わってきました。
私は思わず顔を上げて、カウンターの中を覗き込みました。
するとそこには顔色ひとつ変えずに、先程と同じようにリズムよく淡々と作業をこなす女性スタッフの姿がありました。
「恐るべし味の一級建築士」
私は心の中でそう呟くと、残りの料理を無心で食べ続けました。
はじめはあまりのボリュームに食べ切れるか不安だったのですが、綿密に計算された食感と味付けによって、私はあっという間に全ての料理を胃袋に収めていました。
お腹が満たされた私は、お冷やの代わりに出されたジャスミン茶を飲み、胃袋を落ち着かせると席を立ち会計を済ませました。
帰り際、出迎えてくれた時と同じように小柄な女性のスタッフが、「コップンカー」という言葉と共に、私に素敵な笑顔を向けてくれました。
その笑顔がとても優しくて、私はお腹だけではなく、心までが満たされていくのを感じました。
まさにここは微笑みの国タイ。
人も、料理も、優しさで包まれている素敵なお店でした。
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