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短編連作小説『書かない小説家』

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【あらすじ】 春の陽気が気を散らし、夏の暑さが思考を妨げ、秋の景色が心を奪い、冬の雪がやる気を削ぐ。 うまい飯とうまい酒。小さな幸せと大きな悲しみ。 毎日、なんだかんだあるもん… もっと読む
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記事一覧

【小説】書かない小説家 三月四日その3【完結】

【小説】書かない小説家 三月四日その3【完結】

 
「妻へのプレゼントでいつも悩むんです。
 私はサプライズのようなものが下手で……いつも欲しいと言われたものを一緒に買いに行く始末で」

 彼は続けて言うが、私の頭にあるのは忘れていた結婚記念日のこと。

 まずい。

 非常にまずい。

 どうしたものか。
 彼の相談にも乗ってやりたいことは確かであるが、最早これは私の問題でもある。

 考えろ。
 頭を回すのだ。
 小説のことなど一旦忘れろ。

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【小説】書かない小説家 三月四日その2【最終回】

【小説】書かない小説家 三月四日その2【最終回】

 カランコロン。
 独特のドアベルの音。
 煙草とコーヒーが染み込んだような壁と長い年月を感じさせる焦茶の重厚な扉。
 どこか懐かしい、喫茶店。

 そこには行き場を失った同志達。
 どれもこれもみな、やっと一息つけたとばかりに呆けている。
 まあ、私もそのうちの一人になるのだ。

 と、思っていたが、どうにも席が空いていない。
 店員は忙しなく働いていて、なんとなく声を掛けるのは躊躇らってしまっ

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【小説】書かない小説家 三月四日その1【最終回】

【小説】書かない小説家 三月四日その1【最終回】

 いつも通りの、天井。
 ぱっちりと目が覚めた。
 人が寝て、その姿勢のまま目を覚まし、最初に見るものが天井、というのは人生に何回あるだろうか。
 大抵の場合、夢現なまま、のそのそと動きだしたり、時計を見たり。
 最近であればスマートフォンを見たりだろうか。
 兎にも角にも、稀有な体験であろう。
 覚えていないだけかもしれないが。

 しかし、これだけの良い目覚め、というのはいつ振りだろう。
 そ

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【短編】書かない小説家 三月三日【小説】

【短編】書かない小説家 三月三日【小説】

2023/03/03

 行き詰まっていた。

 書くぞ、とは意気込んでみたものの、なんだかどうにもしっくりこない。
 何か、ぱっ、としたテーマが降りてこないかと頭を捻るも出てくるものはありふれた、何処にでもある、誰にでも思いつくようなものばかりだ。
 ひらめきを書き留めたノートを開いてみるも、全くと言っていいほど何も浮かばない。
 なんなら、なんでこんなフレーズをメモしたんだ、と思うほど、自分の

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【短編】書かない小説家 三月二日【小説】

【短編】書かない小説家 三月二日【小説】

2023/03/02

 一本の電話で目が覚めた。
 けたたましく鳴る電話に、しかめ面をしながら、画面を見ると、そこには『担当』の二文字。
 ああ、なんだ、君か。
 それにしても、珍しい。
 いつもは急ぎでもない限り、全てメールで済ます男だ。
 それが、私の性に合っていて、とても助かっている。
 電話をよこすにしても、私が確実に起きている時間帯を見計らってかけてくる。
 まあ、そのようなことはよっ

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【短編】書かない小説家 三月一日【小説】

【短編】書かない小説家 三月一日【小説】

2023/03/01

 すっきりと目が覚めた。
 どれ、とひとつ伸びをしてみる。
 パキパキッ、と、小気味いい音をあげる身体。
 指、手首、腕、肩、足首、膝、腰、最後に首。
 順番に、隅から隅まで、しっかりとストレッチして解していく。

 うむ、すっきり。

 スマートフォンで時刻を確認すると、なんとまだ午前十時ではないか。
 いつもは眠くなったら寝て、目が覚めたときに起きるという生活をしている

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【短編】書かない小説家 二月二十八日【小説】

【短編】書かない小説家 二月二十八日【小説】

2023/02/28

 書いた。
 ばんばか書いた。
 がりがりと書いた。

 その部屋に響くのはキーボードの音。
 きりりとした苦味が香るコーヒーと、人工甘味料特有のだだ甘い香り、ぷん、と立ち込めるエナジードリンク。
 それらを気分で交互に口にして、ただひたすらに。

 脳みそがごぉんごぉんと唸って、心がぎしぎしと軋む。
 身体が、ぱちぱちと焚き火に晒されて火照った、と思いきや、氷水を被って、

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【短編】書かない小説家 二月二十四日【小説】

【短編】書かない小説家 二月二十四日【小説】

2023/02/24

 本日は、所用で出掛けていた。
 
 朝から、降ったり止んだりとはっきりしない天気で、また洗濯物が溜まってしまうなあ、とぼんやり考えながら一服しているときに、担当者からのメールが届いたのである。
 なんでも、他の作家との顔合わせのためにこちらの近くまで来るので、お茶でもということだった。
 
 私としては、今日でならない理由は特にないので、素直に天気がよろしくないのでまた次

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【短編】書かない小説家 二月二十三日【小説】

【短編】書かない小説家 二月二十三日【小説】

2023/02/23

 本当に、なんとなく、だった。
 それをこれほど後悔しようとは。

 布団の中からでも億劫な天気であることがわかるほどに、どんよりとした湿度を感じさせる空気。
 気怠い身体に、鞭を打って、いつも通り台所へ行き、煙草に火をつける。
 心無しかしっとりとしている煙草の葉は、外の様子を表しているようだ。

 意を決して、というにはだらだらと気怠げに和室の戸を開け網入りガラス越しの

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【短編】書かない小説家 二月二十二日【小説】

【短編】書かない小説家 二月二十二日【小説】

2023/02/22

 昼前に目が覚めた。
 回らない頭をそのままに、むくり、と起き上がって彷徨う亡霊の如く台所へ向かう。
 水を一杯、喉を鳴らしながら飲み乾すと、いつもの如く、煙草に手を伸ばす。

 煙草中毒の人間が死後、煙草を吸えないことに苛立って亡霊となり化けてでて、我慢が出きず線香を咥え自ら成仏する話など書いたら面白いだろうか、と考えるほどに脳みそはまだ寝ている。
 しかし、このようなア

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【短編】書かない小説家 二月二十一日【小説】

【短編】書かない小説家 二月二十一日【小説】

2023/02/21
 今朝はしっかりと目が覚めた。
 昨日はしこたま呑んで寝たはずだが、まだまだ身体は若いのかもしれない。
 そんなあり得ない妄想をしながら、煙草に火を着ける。

 相変わらず散乱している台所。
 物が多い、というのは心地良い。

 空けっぱなしの和室の戸。
 その先には昨日、そのままにした洗濯物。
 さて、どうしたものか。
 と、言ったところでやってくれる人がいるわけでもない。

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【短編】書かない小説家 二月二十日【小説】

【短編】書かない小説家 二月二十日【小説】

2023/02/20

目が覚めると、なにやら部屋が暖かい。
少しずつ三寒四温に近づいていく季節の流れは、歳を重ねるごとに早くなっていく。

駅にほど近い2DKは寝食と仕事に明け暮れるための我が居城。
築五十年は経つというオンボロは、鉄筋コンクリートでしっかりとそびえ立つものの、その日に寄って、寒くて暑い。
洋室の小さな窓を本棚で埋めてしまってから、我が家に日光が入るのは隣の和室、一部屋のみ。

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