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【短編】書かない小説家 二月二十二日【小説】

2023/02/22

 昼前に目が覚めた。
 回らない頭をそのままに、むくり、と起き上がって彷徨う亡霊の如く台所へ向かう。
 水を一杯、喉を鳴らしながら飲み乾すと、いつもの如く、煙草に手を伸ばす。

 煙草中毒の人間が死後、煙草を吸えないことに苛立って亡霊となり化けてでて、我慢が出きず線香を咥え自ら成仏する話など書いたら面白いだろうか、と考えるほどに脳みそはまだ寝ている。
 しかし、このようなアイデアが出てくるほどには、こういった時の方が調子が良いのも事実である。
 と、いうわけで、またまた亡霊のごとく、煙草とコップを手にパソコンのところへ戻っていくのだ。

 つけっぱなしの年季の入ったパソコンは、ういんういん、と音を立てすぐに起動した。
 マウスをくるくる、かちっ、とな。
 よし、やるぞ。
 と、いうときだ。

 ピンポーン、と、ベルが鳴る。

 セールスお断り。
 私は今、やる気が溢れているのだ。

 立て続けにもう一度、ピンポーンと、ベルが鳴る。

 ……まあ二回くらい押す人もいるよなあ。

 さらに、ピンポーン、と、ベルが鳴る。

 なんだというのだ。
 しつこいやつだ。
 さぞ性格の悪い輩なのだろう。

 さらにさらに、ピンポーン、と、ベルが鳴る。

 ここまでくると、もはやその顔を拝んでやろう、と立ち上がり、のっしのっしと玄関に向かって歩いていた。
 今の私は鬼も裸足で逃げ出すような形相をしているだろう。

 ごほん、と、咳払いをひとつ。
 鍵を開け、ドアノブを回す。
 すると、途端に反対側から勢いよく開けられ、おっと、とつんのめってしまった。
 危ないではないか、と、顔を上げるとそこには、買い物袋を持った、般若の形相の女性が一人。

「一回で出なさい!」

 これは参った。
 今日は水曜日だったか。
 面食らった私をよそに、さっさと玄関に入り靴を脱ぎ、私を押しのけ中に入る、この女性。
 何を隠そう、別居中の妻である。

 別居中、といっても仲が悪いわけではない。
 私の陰気な偏屈といったら、世の中探しても類稀に見るものであり、この妻に言わせれば、そのしつこさとじめじめ感は風呂場のカビのようなもの、とのことで、一緒に暮らしていては生活が脅かされるレベル。
 対して、何の因果かそんな私と一緒になった妻は、対照的に陽気で快活。
 生活習慣の反りが全くもって擦り合うことはなかった。
 特に、私が執筆モードに入ると、先に挙げた通りの状態で、仏頂面でひどく人を遠ざけるものだから性質が悪い。
 おまけに、このモードに入ると、ひょんなことで機嫌を損ねる私は、妻にとっては扱い辛いことこの上なく、二人でいようものならギスギスして執筆は元よりケンカが絶えないという有様。
 と、いうことで、仕事場としてこのオンボロマンションのオンボロな一室を借りたはいいが、今度は私がここに引き篭もるようになって、本宅で悠々自適に暮らす妻が週に一度、水曜日に顔を見にくる、といった有様だ。

「またこんなに散らかして! 病気になりますよ!」

 玄関で未だ渋い顔をしている私をそのままに、持ってきたゴミ袋に次々とその辺のものを入れる妻。
 学生時代に、こちらが寝ているというのに掃除をしに入ってくる母を思い出し、さらに渋い顔になる。

 騒がしい。

「どうせ、わたしが来ることなんて忘れていたんでしょう!」

 いや、まあ、そうだが。
 それにしても、私は今、書こうとしていたのだ。
 そんな言い方をしなくてもいいではないか。
 なんとも眉間に皺の寄るような言い方をするな。

「図星を突かれたからって、そんな顔しないでください!」

 なんだというのだ。
 がちゃんがちゃん、と酒瓶を拾っては袋に入れて歩く妻に何も言えない。
 そんなに乱暴に入れては、瓶が割れて大変なことにならないのだろうか。
 ヘンゼルとグレーテルの如く、道々の白い石を拾っていくように酒瓶とゴミを集める、と表現したら大体の人に怒られそうだな。
 そのまま和室の方へ消えていく。
 やっとの思いで動き出した私は台所へ行って煙草に火を着けた。

 まあ、忘れていた私が悪い。
 こうして来てくれて、世話を見て貰っているわけだ。
 そう思い直そうとしながら、どこか釈然としない自分の悪いところを呑み込もうと、大きく煙を吸い込む。
 すると、

「ちょっと! 洗濯物、色モノとそうでないものくらいは分けてくださいな!」

 いつの間にやら洗濯物を畳み始めていた妻からの叱責が飛ぶ。

 母親か。
 そうも言いたくなるが、面目ないのは私なのだ。
 ぐぬぬ、と、声も出せずに項垂れる。

 テキパキとモノを片付け、台所にやってくると、どうせ何も食べてないんでしょう、と勝手知ったるなんとやら、でお湯を沸かし、椀と箸を用意し始めた。
 その間にも

「ああ、煙草臭いったらありゃあしない」

 と減らぬ小言に追いやられ、私はそそくさと台所から退散する。

 落ち着く暇もあったもんじゃあない。
 突然の強襲に我が城は一瞬で陥落。
 占領の後に捕虜となった気分だ。

 ほどなくして準備されたのは、味噌汁と漬物、それに家で握ってきたであろう、握り飯。
 立派なご馳走だった。
 簡素なダイニングテーブルにそれらを並べ、私が座ると、いつの間に淹れたのか茶まで出される。
 さて、と、妻が座ったところで、二人向かい合って、いただきます、と手を合わせる。

 インスタントではあるが、なめこの味噌汁が五臓六腑に染み渡る。
 握り飯の具は、私が好きな鮭。
 こういうところが抜け目ない、とは表現として間違っているかもしれないが、しっかりした妻で、私はそれにやられたのだろう。

 そういえば、と思いだす。
 おもむろに立ち上がる私に妻は目もくれないが、それもいつものことなので気にせず冷蔵庫へ向かう。

 お、あった、あった。
 取り出したるは白いパック。
 最近よくある、水の入っていないタイプの小さい豆腐の容器をさらに半分に薄くしたようなパックだ。

「なに、それ?」
「最近、ハマっとるんだ」

 醤油と山葵を一緒に妻の前に置く。
 不思議そうに容器のビニール蓋を開ける妻は、くんくん、と怪訝な顔で匂いを嗅ぎ始めた。
 それがなにやら動物のようで、思わず顔が綻んでしまう。

「豆乳?」
「豆乳と食べるお刺身湯葉、という商品だ」

 食ってみろ、と言うと、恐る恐ると言った感じで口にする。

「あ」
「うまいだろ?」

 一口食べ、気に入ったのか、醤油を垂らして、もう一口、といく妻。
 私もそれを貰い、食べる。

 ほんのりとした甘み。
 まろやかな口当たり。
 そして香りたつ、豆の風味。
 なんとも言えぬ至福の美味さ。

 しかし、妻よ。
 そう無言でぱくぱくと食べるな。
 なにか感想はないのか。

「ふにふにしてて美味しい」

 それが小説家の妻の感想か!
 お前ときたら、まったく……まあ、いい。
 よっぽど気に入ったのだろう。
 残り少なくなった湯葉を、ちまちまと箸で摘む姿はなんとも愛らしい。

 見れば、いつの間にやら皺は増え、ほっそりとした指には年季が刻まれている。
 それでも、艶々の髪で、薄くではあるがしっかりと化粧までして、身綺麗にしている。
 服には毛玉ひとつ、皺ひとつなく、きりりとしたその目は若い時より幾分柔らかい。

 お互いに歳をとったものだ。

「いつも、すまん」

 思わず口から溢れる。

「何言ってるんですか。好きでしているんですよ」

 そう返す妻は、はんなりと笑っていた。

「ところで、これ、もうないんですか?」

 食べ切った空の容器を見せてくる。
 そうか、そうか!
 やはり、好きな人に好きな物を気に入ってもらえるというのはいいものだ。
 私は声をあげて笑うと、まだまだあるぞ、と冷蔵庫から続いて三パック取り出した。
 そして、戸棚から少しいい日本酒とお猪口を取り出す。
 それを見て妻は、仕方がない人、とでも言いたげに呆れ顔をする。

「まあまあ、一献」

 と、注いでやれば、にこりと笑顔になり、飲み乾す妻。

 平日の昼間から、愛しい人と酒を呑む。
 こんな日があってもいいではないか。
 いやはや、楽しくなってきた。
 こんな素敵な日を、仕事をして過ごすなど勿体無い。
 だから、今日は何も書かない!

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