とんでもハネムーン記(後編)
1.思い出の人物たち
私たちの念が通じた。
何と、全日程満室御礼。ということは、この部屋に最終日まで泊まれることになったのだ。
(神様、帰りの水上飛行機、大丈夫ですよね?)
そんな中で、たくさんの人々に出会った。印象的な方たちを思い出しながら書くことにする。
-----ルームキーパーのおじちゃん-----
私たちの部屋を毎日メイキングしてくれたのは、インド人っぽい、もうまさにガンジーの生まれ変わりか、もしくは本人だったと思うほどのおじちゃんだった。
初日にベッドを花で彩ってくれたのも彼であり、毎日きれいに部屋を掃除し、整えてくれた。
ガイドブックで読んだ通り、心遣いを感じたところには、チップを置いておくことにした。
きっと彼は、数回我慢したのだろう。
何日目かの朝、しっかりと私にこう言った。
「ここにな、あんたらの前に1人で2ヶ月泊まったロシアの女医さんなんかチップ〇〇ルフィア(モルディブ通貨)置いとったんやで?
お前たち、やっっっっっすいやっっっすいな!?どうなってるん?!」
……そうやんなーー!!
わかる!わかります!その気持ち!
これこそがあなた方の生活の源であるもの。
誠に申し訳ない。
そのロシア人女医さんのチップの額など私たちに払える訳がない。なので、ああなって、こうなって、とんでもないことが起きて、私たちは今ここにいるんだ。と説明した。
「ふーん」
という感じだった。
信じてちょうだいな。財布に詰め込んだスーパーのクーポンとか見せたら良かったんかな。
その女医さんの額のチップを置いたら、私たちもう今日からこの島のおまんま食えない。
しかし、ガンジーおじちゃんはそんな風にぼやきながら、毎日初めて来た日みたいにメイキングしてくれたのだった。
嬉しかった、本当にありがとう!
-----サンデイ-----
この男の子はSUNDAYと言った。
スタッフは本名なのかニックネームなのか、簡単な名札を胸につけていたが、この日曜日な彼が、私たちの知る島内のスタッフでダントツにラフで陽気だった。
とにかくいつでも踊っているかのように歩いている。
そしてなぜかどこにでもいる。
どこで会っても声をかけてくれるし、テンションが高い。私たちも見つけては
「よー!サンデーイ!」
と話しかける仲になった。
ちょっとしたボードゲームなどが置いてある共用コテージがあったのだが、そこで会っても、
「ちょ、遊ぼうや!!!」
と誘ってきたりする。
言葉もあんまり通じないのに、むちゃくちゃ絡みやすかった。
今書きながらふと思ったんだが、サンデイ、君、仕事してた?(笑)
いやいや、こうして観光客を楽しませること自体が仕事だったに違いない!!!!!
あきらかに他のスタッフと比べたら、いつも遊んでる風に見えたけど!!そう見えただけ!!!きっとそう!!
サンデイ、君の爆発的な笑顔は今でも思い出せるよ。
-----ダイビングに同乗した人々-----
アクティビティの中に、ダイビングもあった。
朝早い出発だったにも関わらず、たくさんの人が集合場所に集まっていた。船が出る前にトイレに行き、席に戻ると私のいた場所に男性が座っている。
「ハァイ!」
と軽く挨拶をしたが、どうやらフランスから一人旅で来ているらしかった。何かと話しかけていたため、旦那に何を言われたか聞いたのだが、
「いっこもわからへん。」
という事だった。
どうコミュニケーションとっていたんだ。
レストランでもそうだが、言葉が話せないのにずっと話しかけられる旦那が不思議である。
そのフランス人は船でもちょいちょい旦那に話しかけていたように思うが、飄々として、とても不思議な人だった。
まさか…、君も旦那を…。というのは考え過ぎか。
その後も中国人ファミリーのオカンが、行ってはいけないと言われた方に泳ぎ、流されてしまって船で迎えに行くなど、アクシデントがあったが、無事にダイビングポイントにたどり着いた。
みんなでスタッフについてゆっくりと泳ぐのだが、ある瞬間数メートル下に大きな海ガメがいるよ!!と教えてくれた。
確かに私たちの下を泳いでいく海ガメ!
感激して旦那に伝えたのだが、
「この水中メガネ、ずっと水入ってくんねん!!どこやねん!カメ!!」
全く水中が見えない水中メガネをスタッフに手渡された旦那は、その日何も見えなかったに等しい。
10年以上経った今でも時々口にするほど悔しい思いをしたらしい。ダイビングも何だか今思うとドタバタしていたなぁ。
-----Aさん-----
彼女は当時、この島唯一の日本人スタッフ。
5つほど年上だったのだが、伊達公子選手のようなハツラツとした印象で、第一印象から馬が合うような気がしてならなかった。
予約制のアクティビティの中に、「漁民の島巡り」があった。
現地の人たちの生活は見たすぎる、絶対行こう!
そう話していた私たちは早い段階で予約していたのだが、
前日Aさんに会うと、
「明日行くの?私も行くわ!」
と言って、自分の仕事に組み込んでくれた。
話によると、同行したいと思っているのにここへ来る日本人は滅多に行かないとのことだった。
漁民の島はかなり小さく、娯楽と言えば喫茶店ぐらいのものだそうで、どの家の前にもカラフルなネットで作られた椅子が並び、おおよそはそこに座ってのんびりするのだそうだ。
喫茶店で、確か飲み物を飲んだと思うのだが、最後に出てきたのが「噛みタバコ」。
ガムでも何でもない、なんとも不思議な味のする拾った草みたいな嗜好品をAさんにも勧められ、旦那とウワァ…と言いながら噛んだ。
島の多くの人が食後に楽しむとのことだった。
そして、その島唯一の売店へ。
可愛いアクセサリーやお土産ものがたくさん並んでいた。
ピアスをいくつか買ったのだが、Aさんが言っていた通り、強度らしき強度が無い。
帰国後、一回着けたらキャッチ部分と飾りの部分が簡単に離れ離れになった。(笑)
色々な所に同行してもらったAさんに、私たちは最終日にチップと手紙と当時島では手に入らない、メンソールのたばこをセットにして手渡した。
クールなAさんが涙ぐんでいたように見えた。
私たちが島を離れる日、最後に会計があるのだが、Aさんは会計スタッフのパソコンの後ろに張り付いて何やら指を差して話し込んでいる。
聞くと、島で使用した全てのものがリストとして出る為、英語が読めない客が領収書の内容を見逃してしまう事が分かっているスタッフが時々ちょろまかしてしまうのだそう。
彼女が見張っていてくれなかったら、払う金額が変わっていたのだろう。
何年経った今でも、時々思い出す気さくでカッコいい女性、Aさん。
連絡先交換しておけばよかったなぁ…。
大変お世話になりました。どこかで会ったら、私は貴女だと気づけるような気がしています!
最後、見送りの時に言われた
「また明日!」
まさか涙の別れがある旅なんて思いもしなかった。
-----マーレのコーディネーター-----
楽しかった島を出て、首都のマーレへ戻った。
帰国する飛行機まで、観光できることになっていた。
その数時間、ひとりの青年が案内してくれることになったのだが、名前を忘れてしまったのでBくんとしよう。
サンデイに比べると10分の1ぐらいしか喋らない物静かなBくんだったが、とても優しく丁寧な印象だった。
ちょっとお土産見たいんだけど、と伝えて、僕いいところ知ってるんだ!とわざわざフェリーで渡った島まで連れて行ってくれた。
そのお土産屋につくと、スタッフはBくんの友達のようだった。
「見ておいでよ!僕ここで待ってるわ。」
と椅子に座って談笑し始めたので、旦那と色々見てまわって、ジャンベが欲しいが荷物になるな、などと話していた。
すると、少し距離のある所にいた大男が、私たちの選んでいるところをニコニコしながら見ている。
しばらくすると近づいてきて、ディベヒ語で何か言った。
「どうするー?でもボラれるんちゃん?高いか安いかもわからんな。」
と夫婦で話すと、
「高くないよ!お土産屋の中でも、ここ一番安い。」
とむちゃくちゃ流暢な日本語で突然答えてきた。
喋れるやん。
ペラペラやん。
むちゃくちゃ話聞いてたやん。
ボラれるとか…お願いやから意味知らんといて欲しい。と思った。
何だかんだで、さほど荷物にならないジャンベを買った。一緒に選んでくれた優しい大男にも挨拶をした。
まぁ、空港に同じサイズでだいぶ安いジャンベあったけどな。
ボラれたやん。
ボラれるの意味知ってて焦ってくれたらよかったのに。
Bくんとグルだった、なんてことも今やいい思い出である。
その後も、ハエが集りまくっている市場を歩いたり、地面に並べられ、にいちゃんが足で動かしている魚屋を見たりして楽しんでいた。
するといきなりBくんが、
「俺、ミサの時間やから、ちょ行ってくるわ!その辺歩いといて!」
と言って、私たちが返事をするまでもなく教会へ行ってしまった。
呆然である。
置いてけぼりやないの。
しかし、それはそれで、
私たちは今、異文化のただ中にいる!!!
と実感できた。
一体どうやって私たちと合流するのかも決める事なく行ってしまうBくんは、至ってナチュラルだったからだ。
あまり遠くにも行けないし、結局私たちはそこで彼が戻るのを待った。
しばらくして、また至ってナチュラルに合流したBくんと話しながらフェリーへ戻った。
その島には奥さんと子どももいるらしく、
「仕事途中で帰りたくなるやろ?」
と聞くと、
「当たり前やん。」
みたいな返事をしていた。
この島の人からしたら、日本のオンタイムな働き方は到底理解できないだろうなぁ、と感じた。
-----タクシードライバー-----
マーレをあとにし、私たちは再びシンガポールでのトランジットを迎えていた。
もう、この時点でズレた時間を取り戻しにかかっているため、眠気がMAXであった。今でも思い出せるぐらい、残り数時間の旅を惜しんで色々と回りたい気持ちよりも、とにかく一回眠りたかった。
私たちはほんの数時間だけ仮眠を取り、その残りの時間で観光をしようと決めた。
しかし………
一体どこで眠れるんだ。
ベンチで寝入ったとして、起きて手荷物が無くなってしまっても困る。
調べると、トランジットホテルというものが存在するらしく、私たちはそこへ向かう事にした。
しかし、この町のどこにそれがあるかもわからなかったため、とりあえず、ものは試しとタクシーを拾ってみることにした。
ものは試しとはまさに試し。
そのタクシードライバーは、
ボッサボサの白髪頭で、歯も足りていない感じのおじいちゃんだった。
私の英語もたいがいだと思うが、シンガポールの訛りがすごいのか、歯が無いから発音できないのか、トランジットホテルが通じているのかどうか、おじいちゃんが何を喋っているかもわからないまま、タクシーは発進してしまった。
私たちの不安をよそに、おじいちゃんドライバーは、金額も上乗せ交渉することなく、しっかりとトランジットホテルに連れて行ってくれた!!
感謝、感激、激眠気。
旅の終わりに、歯を入れられるほどのチップを渡せなかったのが残念だが、おじいちゃん、本当にありがとう!!!!
私たちは部屋に入るなり、モーニングコールだけ忘れないようにお願いし、泥のように寝入った。
-----足裏マッサージ師-----
モーニングコールで起き、いくらか復活した私たちはタクシーで来た距離を、散策して戻る事にした。
なかなかの距離があったので、空港までのバス停近くに来た頃には足がパンパンになり、もう街を楽しめなくなってきた。
近くのビルに入ると、【足裏マッサージ】とある。
人生は経験なり。
私たちは初の足裏マッサージを体験することにした。
それはもう、想像を絶する痛み。
隣で旦那も悶絶している。
「ストップ!!!ストーーップ!!!」
も通じているのか、いないのか、彼女たちは笑っていた。
痛みのあまり、頭をはたいてしまうかと思った。
しかし、驚く事に、その後飛行機へ乗るまでの足取りが嘘のように軽くなったのは事実。
シンガポールの足裏マッサージ師はゴッドハンドだった。
2.あとがき
こうして書いてみると、旦那の仕事の関係で5泊7日という移動も込みの日程に、パンパンに予定を詰め込んだなと思う。
10年以上経っても、まだまだ頭の中で思い出せる楽しい旅だった。
ちなみに、運を使い切った私たちは、帰国して車で家に戻る途中、Uターン禁止と知らずに曲がってしまい、しっかり切符を切られてしまっている。
とんでもハネムーン記。これにて。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
---おわり---
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