来世を望むなんて、おかしな話じゃないか?
自分と同じ日陰者の人生で鬱病の人のnoteが目についてチラっと覗いた。
最後に書かれた文字、「来世は〇〇に産まれたい」
よく耳にする言葉。
自分はこの「来世は〇〇に産まれたい」という言葉に、疑問を感じてしまう。
死にたいと望むのに、来世に期待できるほど、君はこの世界に希望を抱いているのかい?
金持ちだろうが、何かしらの分野で突飛した才能を持った天才だろうが、 とてつもない美人・イケメンだろうが、誰からも愛される可愛い動物であろうが、全てを持っていたとしても。
私は来世なんて微塵も欲しいなんて思わないよ。
生きている限り、”生きている” 事実に縛られ続けるんだ。
どれだけ全てを持っていて最高に恵まれた環境であったとしても、生きる事実から縛れる不自由がある限り、来世なんていうものは必要ない。
死んだ先にある「無」
無こそが新の自由。
私が本当の意味で欲しいものは、無による自由。
変な宗教みたいだって? そう言われちゃったら返す言葉もない。
こんなことを言える場所なんて、noteくらいのものなんだろうね。
「何言ってんの?コイツ。痛いやつだな」と思われてお終いだろうな。
別に共感されたくて書いてる訳でもないけど。
ただの日記帳だしね。
金持ちだったり、美人イケメンだったり全てを持った人生なら、生きていたいと思うのが普通だもんね。
別に普通から外れた考えを持っている自分に酔ってるわけではないし、普通の人達を見下すなんてもっての他。
だって「無」であることの自由の次に私が欲しいものはその「普通」なんだもの。
「普通」に生きられたら、どれほど良かっただろうか。
「普通の」人間と同じようにコミュニケーションを取り、家族の仲は良くて、友達を作り、恋人を作り、結婚する。
そして「普通の」人達と同じように、精神を長期間病み続けることもなく、深く物事を考えすぎることもなく、自殺なんて当然考えることもなく、フツーに生きて、最期を迎える。
普通の日常こそ本当の幸せ、みたいな陳腐な言葉を使うのは忍びないけど、私からすればその言葉はその通りだと思う。
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