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宇佐見りん評論--無垢であるということ--

 僕が最近、いいなぁと思う作家に、自分自身も大好きな中上健次を尊敬してやまないという宇佐見りんさんという人がいて、彼女の書く作品、いうまでもなく最高なんだけど、この頃、読んだ雑誌に書いているエッセイや、ネットに載ってるインタビューは本当に美学の極致だなぁって感じている。

 とどのつまり、彼女のテーマの一つは、中上健次がいかに素晴らしい人間で、罪がなかったかということだと思う。

 これから書くことは、かなり飛躍を含むし、それぞれの話の中に通底する美学があると僕が信じているものの列挙にはなるし、美学や美のモデルを信じるということは、論理というせせこましい網の中に収まるようなスケールでは絶対にないからそのように書かざるを得ない。

 紀元前一千年前にイスラエルに生きていたといわれる、『旧約聖書 詩篇』のモデルにもなったダビデという男、元は羊飼いの男だったそうだが、ある日、街で暴れ狂っているゴリアテという巨漢を投石機を使って目をつぶし、剣で首を切ることによって、武勲を立て、国の王となる。

 ダビデの詩篇には、ヤハウェという神を信じているということや、耐え難い苦難にあった時、正義の盾で敵対するものを追い詰める時間がいつくるのか、という嘆きや、昼も夜も律法を愛するものに幸いあれ、悪党と座をともにする事なき者に栄光あれ、というようなことが書かれているんだけど、話としては、このダビデという男の話も、同じ『旧約聖書』の逸話のアダムとイヴの楽園追放の物語と関連があるから語られているのだろう。

 アダムとイヴは楽園で二人暮らしていたが、ある日、蛇の誘惑によって知恵の実をかじり、自分たちが裸でいることが嫌になったということが原因で楽園から追放される。

 これが人間の罪の始まりとされているが、この話も結局、蛇が自らの苦難を理解する人間が欲しかったというただそれだけなんじゃないだろうかという感じがしている。

 『旧約聖書 詩篇』の舞台になっているイスラエルの人々は、のちに出てくるキリスト教者・パウロの書いた『ローマ人への手紙』でイスラエルの人々は律法を重んじすぎたゆえに義に達しなかったが、ローマ人は祈りのよってこそ義に達したということの説明が書かれている。

 律法は欲望を起こしすぎるからだということだそうだが、その実この本でパウロがいいたかったのは、「物質世界をいかに相対化し、精神世界を高いものにするか」であったそうだ。

 これそのものの意味は深いと思うが、基本的には今の自分の状況や考えが、物質世界に属しているあらゆる事柄、影響や時には脅しによって、勝手に思わされている、自白させられているだけなんだと俯瞰することによって、精神がより崇高になるという含意があるんだろう。

 「ローマ人への手紙」には、確かにまだ精神美の高みに達していない人を俯瞰し、上から助言するようなスタイルをとっている。

 話は古代ギリシャに飛ぶが、悲劇作家・エウリピデス「エレクトラ」、「オレステス」という連作があり、概略を言えば、農村に住まされることになったエレクトラ姫をある日、オレステスという弟が尋ねに行くという話からはじまる。オレステスはエレクトラが貧しい身なりをしていたので、この人を信じていいのかと考え、人間の貴賤についても考える。

 人の貴賤はどのように判断すべきなのかと。金か、身分か、容姿かと。

 結果として、そのことこそいわないが、オレステスは、「魂のみが人の貴賤を判断すべき基準だ」ということに気がついたのであろう、ダンテも『神曲』でそのことを書くけど、オレステスは、エレクトラを信じ、彼女と共謀し、父親を暗殺した上でアジアの奴隷女性を側近にしているクリュタイメストラという母親を殺害する。

 その後、「オレステス」では、母親には女性の奴隷がいたがために、その奴隷たちの呪いによってオレステスは苦しみ、エレクトラは看病をするが、住民から投石を受けることになることを宣告される。

 結果としては、神によって二人の罪は許され、天国へ行くが、アジアの女性奴隷とは、アジアのどこの国の人たちなのかとふと思ってしまう。

 これまた話は飛ぶが、ダンテの『神曲』にも書かれている、彼が飽くなきまでに愛していたベアトリーチェという人は、女性を愛する女性だったそうだ。彼は煉獄で、一体となってはいけない運命の女性に近寄りすぎたことで、ベアトリーチェから罰を受けたこともあったが、そんなダンテは『帝政論』でエレクトラをローマの祖であるとしている。

 ここからが本題の一歩手前、中上健次の話だ。

 中上健次その人は、家族のことをよく作品に書いたし、『岬』では狂った家族のもとに育った和歌山の土建の男・秋幸が姉の言葉によって、家族がいかに狂っているかを知り、腹違いの妹と街であって、セックスするという話を書いている。

 中上健次自身、故郷や家族のことでは相当に辛い思いをしたそうだし、そのことをたまに指摘する人もいるけど、それ以外にも中上健次は故郷や家族が付きまとう忌まわしい過去が自分の考えを襲うことが、一番恐ろしいとエッセイで書いていた。

 ここからは僕の思うことだけど、モデルのにこるんを見ていても坂井泉水を見ていても、あれほどまでにやさしく、罪のない人であるにも関わらず、気持ち悪いおやじからテレビで公然と性犯罪を受ける酷い目にあったり、周囲の人間から否定されたり、不眠症に苛まれたりということがあったし、中上健次は確かに暴力こそ好きな人だったけど、それもほとんど正当防衛や合法的な範囲内だから、まったく罪はなかったと思う。

 今までの話、すべてにつながってくるけど、無罪である人ほど、人はその罪のなさに嫉妬するから、あたかも罪があるように自白させたり、自己誣告をさせたりするし、果ては、恫喝や脅迫を行い、冤罪に追い込むということは現実にもあるし、そういった罪のない人間に嫉妬心から罪があると強引に恫喝する人間や、人間の生きる希望である勇敢さや情熱そのものであるモデルを強引な方法で追い詰める人間こそが悪党なのだろう。

 中上健次も坂井泉水も必死で「自分の辛みをわかってほしい」と呼びかけていたが、周囲は真の意味で、絶対に彼と彼女の罪のなさや勇気を認めることはなかった。

 本題に移ると、宇佐見りんが最近、エッセイで書いているのは、「加害性を拒否することが、倫理だ」、「身体性を獲得することが文章を向上させる」、「周囲にいる人間の感情を知ることで、変われることもある」ということだが、結果として、中上健次がいかに無罪であるか、勇敢であったかを証明するために文学作品を書いてるのかもなぁって思う。

 だってそうだ!

 加害性、観念性、感情を理解しない姿勢というのは嫉妬を呼ぶ可能性があるし、中上健次が問題意識として抱えていたものそのものでもあるのだから。

 精神美の極致に近づくということ。中上健次への理解や許しがその文学の中に込められているのはいうまでもない。

 もっとも、僕は彼の無罪性や勇敢さの証明よりも、中上健次や坂井泉水や中上健次を崇拝する宇佐見りんさんを賛美する作品や、ダンテのように本当に美学を愛した人間のみの魂が共鳴する世界である至高天を描くことに興味があるし、現実でも好きな人間だけ集めて楽しくお酒飲んで、人生や美学への想いを語れたらなって気持ちはある。

 カッチャーリが言ってた、最後の人の批判も結局、敵対する者が代表者の可能性を暴力だと恫喝し続けることによって、疲労させ、果ては彼を欲望の生産と再生産の網でおおうという話もあり、まぁ、仕事頑張れば、疲れるし、欲は出るから、そういうこともあるんだろう。

 永遠はあらゆる可能性が有限になり、まるでその一瞬、歴史が完遂されたかに見える瞬間だと彼は言っているし、その背景には否定や熟考、そしてなんらかの決断と思考の飛躍、それを繰り返すと結果にたどり着くというこの考えの両方が、「最後の人批判」の背景になっているんだろうと思う。

 世のすべては決定していることだ。

 結婚も、恋愛も。

 ダンテはなぜ森に入った時、嫉妬の猛獣を丘で見ただけで雷を落とされ地獄を彷徨うのだろうと思ったことがあった。

 あれもきっと、ベアトリーチェへの絶対崇拝の念の足りなさを悔いてのことだと思うし、実際ダンテは、ベアトリーチェへの恋心を正直にしすぎると、あまりにも敵を作るからという理由で、他の女性への義理の手紙を書いて、ベアトリーチェの不快感を買い、和解できない状態で、彼女が二四歳で亡くなってしまったという、あの一件を悔いてるその証拠である気がしてる。

 いずれにしても、ダンテも宇佐見りんさんも、美学の極致までいった女性・男性への尊敬の念を書くことに賭けたのは事実だ。かくいう僕も中上健次に人生賭けているけど。


                                了

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