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生まれた順番うんぬん

 いわゆる「長男」に対する認識って、東京のような都会ではいざ知らず、田舎でも根強く残っているのでしょうか。ぼくの友人は関東圏の日本の中で大手企業と呼ばれる企業の研究職に付いてたりするのですが、彼は「長男だから」と何年後かはわかりませんが、確実に山の中に帰らなければならない、なんて縛りがあります。

 それも、ぼくたちの親世代が生きているうちの話だと思うのですが、そもそもこういう話題ってなんで始まったんんだっけ?なんて思ったので少しだけ調べてみたら、中世代の武家社会で跡取りや財産相続をさせる風習が、一般庶民の中でも同じく風習が起こっていまに至るのだと理解するに至りました。

 それって無理やりに果たさなければならない決まりでもなんでもない話だよな、なんて思いますよね。今回は、そんな与太話と、それに関連した「長男への接し方」について。

 「長男=跡取り」なんて認識について、ぼくの住んでいた田舎町ではどうだったかなぁ、なんて思い返してみると、たしかに名残はあった。けど、時代は変わってきてるし、今の小学生未満の子どもたちの親世代、ぼくのような30代やもっと若い20代の親世代はそれほど気にしていないんじゃないかなぁ、なんて思うのですが、どうでしょうね。

 その当人たちに直接聞いたわけでもないからわかりませんが、少なくともぼくの認識として、どうってことのない家族の問題なのにもかかわらず、他人がズケズケと「長男だから」と口にしてしまうような姿勢を許せようもなかった感情を抱いていました

 ぼくは小さい頃から無条件に「長男だから」という理由で、父親が創業した「そば屋を継ぐもの」として判断して話しかけられており、ドラクエの勇者じゃないんだからやめてほしいと切に願ってばかりでした。

 ぼくの顔を見たり、ぼくが親父の店の長男だとわかった瞬間から、態度を豹変とは言わないまでも、なんだか知ってるような顔をしてくる大人たちを信用したいとは思っていませんでした。

 ぼく自身の個人格を見ず、ただ生まれだけを持って勝手に評価して接してくる人間を誰が信用・信頼できましょう。そんな風に話しかけてくる大人たちの表情を、ぼくは次第に見えなくなり、目と口だけがある生きているのか死んでいるのかわからないような人間として見るようになっていて、いつしか、それが当然だと考えるようにもなりました。

 生活を共にする子どもたちに対し、ぼくは一切、当時の大人たちが抱いていたような「普通(常識)の認識」は持ち得ていませんし、我が家の外で、しかも勝手にうまれた風習ですから、家庭内に持ち込みたいと思えるほどの魅力がなければ受け入れるわけもありません。

 そんな訳で、我が家では家を継ぐとか継がないとか、(全く期待できない)遺産相続だとか、そんな生き残ったものたちが面倒に感じる分配を決める上での価値基準として、生まれたのが早いからとか遅いからと言った理由で差別をするつもりは一切ありません。

 ただ、接する上での気遣いは必要だと痛感しています。

 次男や三男に対して大きめの声を出してしまったり、強い語気を使ってしまった際に、我が家の長男は「まだ小さいから」とか「まだできないことが多くて」とか「教えてあげれてなくて」なんて言いながら、二言目には「ごめんね」なんて添えてきます。

 その言い方はものすごく丁寧で、ぼくや妻が瞬間的に忘れてしまってるような認識、今でいえば、まだ「小さいからできる範囲が狭い」なんて視点を再確認させてくれるような物言い。

 「なんていいやつなんだ、お前は」とついつい言ってしまうのですが、それぐらいに気を使ってくれるやさしいやつ。

 それなだけに、ぼくも妻も彼に対して甘えから、求めるレベルが高くなっています。彼が冷静に、きちんと物事を理解し、文脈も読み取って行動してくれたらスゴく楽になるのに......なんて、大人だとしてもできないような質を求めてしまう機会が、彼に対してだけ少なからずあります。

 ただただ、褒められたいだけだったり、認識されたいがために、話しかけてきたのに、タイミングが悪く、次男が三男に対して手を上げてしまったのを咎めている最中に声をかけてきてくれたが為に、ついでに「ちょっと待ってて」と怒られてしまったり......

 こうやって書いてみれば明らかにとばっちりでしかないので、反省することこの上ありません。長男くんに対し、ひとしきりに謝りたい気持ちでいっぱいなのですが、そんな風に、ものすごくハイコンテクスト(わかりやすく言えば「以心伝心」の世界)を求めてしまうのです。

 確実に、彼に対して甘えているのだと理解できます。理解できますし、現実として明らかにそうなのは間違いありません。だからこそ、反省し、彼に対する接し方について、感情的にならず、冷静に接していこうと心に誓い次第。

 それと同時に、彼は彼が次男や三男に対してそうであるように、自宅内に同じような年代の擁護してくれる存在がいません。次男や三男が、彼のことを擁護できるわけはありませんから、彼が責められている姿を庇いながらも、大人の余裕を引き出そうとしてくれる頼もしい存在はいないのです。

 プレゼンでも、音楽の発表会でも、漫才でも、落語でもなんでも構いません。人前で発表をする機会を想像してみてください。一番手は「場の基準」になってしまいますよね。

 良くも悪くも一番手が基準となりながら、発表の場は進行していきますから、一番手はある意味では貧乏くじを引いているとも言えますし、我が家でいう長男は、まさに貧乏くじを引いてる張本人かもしれません。

 そう考えると、ぼくが幼少期から青年期にかけて抱いていた、無責任な他人達への不信感を誘発するような行動や言動を、ぼく自身が無意識のうちにやっていたのではないか、そんな風に思えるのです。

 長男くんには大変申し訳ない態度をとってしまっていたのだなぁ、と深く深く深く反省するとともに、今後の態度についても、冷静さを保ちながら接していけるような研鑽を重ねないといけないな、と。

 世の中の第一子と共に生活をするみなさん、その子を基準にしてしまうのは、当人にとっても、それ以外の子にとっても良い影響はなさそうですから、気をつけましょう!

 今日もお読みいただき、ありがとうございます。やっぱり、長男には人格的な面で、すでに親父越えを果たしているように強く感じます。

ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo

#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #前向きな空気の溢れるエリア にすべく活動中。

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