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SDGsとやらを子どもたちへの伝える場合の論法って極端っぽくないですか

ボクは過去にもいくつか書いているのだけど、SDGsとやらに懐疑的だし、自分がこの活動に乗っかりたいとも思えていません。これが今回の記事における根底だと思ってください。

いや、別にそれを好んで大事にしたい人たちはしていけばいいと思いますし、それを否定するつもりは一切ありません。

持続可能な社会を構築することは目指すべきでしょうし、地球に生きる1人の人間として生きながらえることができない環境になってしまうことは避けていった方がいいとは思います。

思いますが、それを子どもたちに伝えることが非常にムヅカシイ…。

正直、環境が破壊されるだとか、海洋汚染がどうだとかって説明を子どもたちと一緒に書籍や映像などを通して見ていても、エンターテインメント的に煽りを加えているようにしか受け取れません。

なんというか、中庸じゃないんですよね。今回はそんなことについてカタカタと思いついたことを一筆書き的に書いていきます。ただ、極端な事例をどこかから引用してくることはしませんので、みなさんが触れた何かしらのメディアで扱っているSDGsって話題について想起してもらえると幸いです。

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

環境を大事にすると生活コストは高くなる

冒頭で紹介したボクのnoteの中で、3番目に紹介しているnoteでSDGsって使っているのは日本だけだよって話を書いています。諸外国ではSDG Indexだったり、投資方面ではESGって方面で同じような内容で議論されていたり。

まぁ、ESGもきれいごとを表現しているだけなのではないか、グリーンウォッシュなんじゃないのって形で取り沙汰されるような事態になってきていますから、なんとなく中庸な趨勢としては中庸になっていくのかなぁ...なっていくといいなぁ…とか思っています。

そもそも、環境に配慮したり脱炭素的な環境を整備することって、企業側からするとバカみたいにコストが高くなる話で、それに伴って必然的に購入する商品価格も引き上げられます。当然ですよね。

たとえば、脱炭素の動きに合わせて製造業をすべて炭素を排出するような工程や資源を通して造られているものを、そうではないものに変換するとしたら、どれだけの設備投資が必要になるか。

環境にやさしい製品を生み出すためにかかったコストを回収しなければ、企業は倒産してしまいます。慈善事業で運営するのではなく、企業というのは営利を出すために存在しているわけですから当然でしょう。

安易にSDGs的な動きをとって満足する人たちはやっていればいいでしょうが、マイクロプラスチックを中心とした海洋ゴミの排出量が多いのは中国やインドネシア、フィリピンだし(出典はこちら)、石炭需要は中国を中心としたアジア諸国で抜群なわけです。

しかし、ボクたちが入手している製品がどこでつくられているのか、着ている服のタグをみれば、そういった国々で製造されていることがわかります。

だからSDGsと声高に叫ぶことを諦めろ、なんていうつもりはありませんが、現在、ボクらが得ている生活は環境のためを思っているのではなく、人間が相応に生活しやすい状況を生み出すために仕方のないことだと言えるでしょう。

そういった身近にゴロゴロと転がっている話を把握することから始めてもいいんじゃないのってことなのです。

断定的に物事を述べてしまうことの危うさ

各種メディアでもそうですが、断定的に物事を述べてしまうことってスゴく危ういなぁ…と感じています。

わからなくはありません。

環境を大事にしないと人間が生きていけない世界になるとか、海の生き物たちが生きていけなくなるし流氷が溶けて海水面が上昇し土地が水没するとか表現するとわかりやすいですから。

でも、それってあまりにも科学的な視点ではないですよね。

別に科学的に思考することや論理的に思考することが大事すぎて死ぬマンではないのですが、断定的に物事を述べてしまうことって可能性を捨て切ってしまうことになるので危うい態度だと思うのです。

環境汚染問題などはボクが子どもの頃から、もしかしたらそれ以前から言われているのかもしれませんが、少なくともずーっと言われ続けてきたものだと認識しています。

一貫して言われてきたのが「このままいけば人間は地球に住めなくなります」です。

いや、それ、どれだけの悪条件を重ねに重ねた上での結果なのか。もうちょっとマシな条件だった場合はどうなのか。楽観的な条件の場合は?とか。いろいろと考察できるはずなのに、さまざまな"尺"のせいで断定した表現になってしまっているようにしか思えません。

まるで原発の再稼働に向けられる感情的な批判を交わすための「完全に安全化否か」議論と似ているように思えて仕方がないのです。100%安全なんてないなんてことは丁寧に考えればわかるはずですが、感情的な人たちには断定しないと理解してもらえないから言い切るしかないのでしょう。

でも、それって進歩を止めてしまうことになるってのは、電気料金が爆上がりしたことによってトーンダウンしているように見えます。

SDGs的なものに関しても同様で、言い切り型で出してしまえばわかりやすくはなるでしょうが、それは果たして「適切な表現」なのかってことは再考してもいいんじゃないでしょうかね。

正義の真逆も正義であることを認知したい

それらの背景にあるのって、環境を大事にしようとする人たちは「いい人」で、その人たちには正義があるとする態度だろうことがわかります。

でもさ、そんなのわかんないじゃん。

環境を大事にしようとしている人たちの反対側に「悪」がいるのかっていうと、悪じゃないんですよね。そこにいる人たちもそこにいる人たちなりの正義があってやっているだけだったりします。

生活のため、生きるため。

そうやって必死に生きることを目指しているだけなのに、それを指さしながら「環境に悪いからやめろ」ってキレイな洋服を着ながら否定することって、果たして正義なんですかね。

あまりにも断定的にSDGsとやらが持て囃されており、どうにも小学生たちが授業等で受け取っている情報が偏っているような気がしてなりません。

いや、そう言った情報を受け取り、自分自身の行動を変容させ、何か行動を起こし、それを継続することはすばらしいことだと思いますし、ぜひがんばってもらいたいです。

ただ、一面的で断片的なものを、まるで全面的なものであるかのように伝えてしまった大人の側に問題があるだろうとは思いますし、そう考えれば考えるほど、子どもたちへの伝え方がムヅカシイなぁ…って。

そんなことを繰り返している次第でございますです。

おわりに

バーっと書き殴ってきたので、なんだか落ち着きませんでしたが、要約するとこうです。

自然を地球が何者にも邪魔をされずに生み出したものだと定義するなら、人間も自然の一部で、その人間が生み出した人工物もまた、自然と言えるのではないか。

人工物を生み出す過程を何十年、何百年と人間は工夫し改良してきたわけですから、まずはその改変に期待していればいいのであって、個人でどうこうできる問題とそうではないことを切り分けて考えてもいいんじゃないですか。

そんなことを考えている捻くれ者でございました。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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