Notes of a Dirty Old Man
~~昨日からの続きです
そう、
創業なんだからいきなり創めたことですが、
私は何の知識も無いのですから、父は世慣れておるのでしょうが、
私は学校を中途にして、70年安保に掛かってて学校も仕舞ってたようだし。
親父にとっては都合の良い話し。
学校を出てもしょうが無い、なんて良く言ってた。
仕事を憶えるために二年程の丁稚奉公、青砥に居た時は夕方から、
新小岩の駅前の洋裁学校に通わせて貰ってたっけ。
大宮まで帰って母親の採寸をしてブラウスとスカートを作ったんだ。
ちょうど年末年始前で、先生がお餅を食い過ぎてはダメって、
何度も言ってましたっけ。
私の他は女性で、自分のものを作るんだから。
出来上がってまた大宮に持って行き来てもらった時のことを憶えてる。
聞いたつもりはしてたけれど、父親は、
高校の頃に既に役所を辞めてヘッドハンティングされて青森の津軽地方に、
責任者として単身赴任し、
オーディオに詳しい方はご存じかな nakamiti の工場を、今は無いけれど、
三か所ほど立ち上げておりましたから、別居をしておりました。
私との二人での起業には反対だったようで、
離婚は時間の問題だったよう。
何かの折に戸籍謄本を取り寄せ見れば、
私が十八になっての養子縁組も意味も無くなり埒も無く寂しいばかり。
弟はどっかに行って仕舞ってて、その時は事情は知りませんでしたし、
いつも薄暗い部屋に母親が一人だったとの思い出だけ。
直に私も仕事にかまけて帰らなかったし、杉並の方の工場に移って、
足が遠くなって仕舞い、それっきりです。
もう亡くなったんでしょうね。
そう、研修はそこそこでしたが、二つの工場とも若い方が多く、
おばちゃん方とは縁も無く、本当はそれが一番に必要だったと、
後で気付いても遅いこと。
労働省の職業安定行政が長い人間なのに私の適性を見誤る、
そんなバカなって言いたくなるけれど、
自分んが決めたことにがむしゃらに進む人間が父親だったと諦める。
どちらにしても私に手伝わせるのが間違いのもと。
女性との関係の少ない私の.、若い頃のおばちゃん方との軋轢が、
精神の不安定の大本なのでしょう。
埒も無い話しに忙殺された、と思うけれど、自分の不徳と思い決め、
もちろん自分を持たない質が一番悪いのだけれどね。
そうそう、
奥さんのことだった。こんなことがありました。
一応は管理職でそこそこの給料も貰ってて、
ただめちゃくちゃ忙しかったから、気が回らなかったのだけれど、
夫婦仲も普通だったと思うし、
長男も大きくなって四五歳になって仕舞っていた。
少し計算をすれば分かる世間一般でのこと。
三歳くらいの年の差で子供を作るはず。
じゃ、二歳の頃には頑張らないと、と思い至る。
何だろう、金に困ってる訳じゃ無し。
最初の子供の後は何か避妊法をしていると聞いていたけれど。
奥さんに聞けば、
あなたのお父さんと合わないから、とのこと。
何かが壊れた気がした。父親の無茶は知ってたけれどね。
~~またまた続きます。
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