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3・11に寄せて(10年の月日が想い起こさせること)

今年も当たり前のように、3・11がやってきた。
地震には慣れていた。毎年、多少は揺れていたから。他の都道府県に比べれば地震は多く、慣れていたつもりだった。
しかし、『あの時』は違っていた。私は仙台駅の横に架かる陸橋の上で、渋滞の列に参加していた。
揺れは、緊急地震速報とほぼ同時だった。「橋の上だし揺れの大きいのも当然。」と思っていた。
・・・・が、長い。揺れが長い。そして大きい。
仙台駅からは、バキバキバキ・・とものすごい音がした。「・・・?これはやばいかも。」
おそらく誰もがそう思うでしょう。橋を降りてきて花京院側に下ってくると、人々は道路や歩道で右往左往していた。おそらくあの光景が正しい右往左往だったのだろう。
歩道橋の天板は道路に落下して、人々はざわついていた。
JALホテルはまるで根元から折れるようにゆっくりと揺れていた。スローモーションのように映った。
自分がこの後どうなるのか?今どうなっているのか?何が起こったのかさっぱり理解できなかった。ただハッキリ分かるのは、これはただ事ではないと言う事だけ。

この後、当時従事していた保守点検の仕事上、ユーザー先を巡回するのだが、カーラジオから聞こえてくるのは信じられない内容ばかり。雪は断続的に降っては止み、降っては止み、人々はまるで火事で焼き出されたかのように、黙々と行列を成して、淡々と歩いて家路に急ぐ。その光景を車内から見て「私もとうとう被災者になってしまった」などと思ってしまった。
その時はまだ事の大きさが分かっていなかった。不謹慎だった。
そんな事、落ち着いて現実を直視していれば、出る筈の無い想いだった。

『その日』は、あっという間に過ぎた。暗くなって明かりもつかない中、利府側から多賀城方面に向かっていた。途中で消防団の方に止められて、「ここからは車では無理。ボートがないと。」と制止された。まだJRの踏切も超えてないのに・・・。(絶句)

無我夢中だった。その後4月の大きな余震が来て、周りの人が心折れていくのを見ても、何とも思わなくなっていた。
前を向いていかなくっちゃ。
思えばただそれだけ。それしか考えなかった。自分が、周りの人々が、特段可哀そうだとは思わなかった。同情も、くすぐったかった。前を向けば良い。呪文のようにそう思ってきた。

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私は、今この瞬間まで、自分自身であまり回顧などしないタイプだと思っていた。
もう10年、まだ10年・・・
私も、友人も、そして多くの人が人生を修正せざるを得ない大きな大きな出来事だった。
そう言う事が起こる事は知っていた。
身近で起こるとは思わなかった。
人は強くて弱い。人はそう言いながら、打ちひしがれながら歩むことを止めない生き物なのだろう。
下手な回顧などするタイプではないのですが、非情な人間で色々な想いがなかったわけでもないのですが、この機会に言わずにはいられない。
(未だに連絡の取れない石巻の親戚に対しても)

震災で亡くなられた方、行方不明の方をはじめ被害に遭った様々な方々に
心から哀悼の意を表したいと思います。

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