ささやかで厳かな復活宣言 - Resurrection
ここ数か月間、いえ、この数年間のnoteの執筆の歩みが現在の自分とはかなり遊離していることを感じ、過去に作成したマガジンや散文詩の大半をごっそり削除しました。
思えば過去ログ的な散文詩等は、特定の読者に向けたメッセージのような意味合いがありました。その「特定の読者」の方々とは物別れの末に今は全く交信も途絶え、それぞれが別の世界に生きています。
ならばその人たちに向けて発した過去のメッセージもむしろ残しておかない方が良いと言う考えに至り、読み返してみて作品として成立していない多くの作品(エッセイ含む)をこの手で削除しました。
こういう時、昔の仕事にしていた「ライブハウス」時代を思い出します。
一つ一つの仕事がその日のライブハウスの売り上げに直結しており、作品性や将来性とは何等関係のない作業とクオリティーと高度な接客スキルが求められました。
全てが明日の自分に繋がってはいなくて、「お疲れ様~」と言う言葉と共に溶けてしまう魔法のようにその日一日が終わって行きます。
心地好い眠り等得られる日は少なく、その原因を夫に明確に指摘されるまでの私は全てが瞬時瞬時の事情に似付かわしくカスタムされた、「仮の私」でした。
きっと人間関係も同様だったのでしょう。
結果として私は過去の、どの職歴から得た全ての友人と喧嘩別れとなり、その私なりの心情を相手の方々には余り明確に伝えて来ませんでした。仮に熱心に説明したところで、先方が私の話を素直に受け容れられるような純粋な動機で私と接していなかい以上、「貴女何様ですか?」と言われてお仕舞いだからです。
noteのFFの繋がりも、今このタイミングで同時に見直しているところです。
どうしても生活サイクル上の理由で、私の方が日々得られる情報量が圧倒的に多いのです。その為、多くの場合は私の方が相手や先方の記事を見つける‥ と言う負のサイクルに陥ります。
そして私が先方のnote記事に「ハート」を押した場合、その御礼やお返しとして先方からのハートが届きます。それ以上でも以下でもなく、ただただ新着記事が上がった時に、多くの読者やフォロワーが私の記事を読むことなく「ハート」だけを押して立ち去っていることがある時はっきりと分かったので、この数か月間私のnoteの記事に一度もハート及びコメントを頂けなかった「FF」関係の大半を、フォロー解除しました。
私の価値観に興味がないから先方からのコメントが付かないわけで、本来「お声がけ」のない人間関係等、あって無いに等しいと私は思っています。
何でもいいのですよ、コメントなんて(笑)。
双方が毎日相手に興味を持つことが重要であり、それがSNSの関わり方のベースだと私は思っています。
ただ繋がっているだけの関わりならば、いっそ無い方がお互いの為だと思いますから。
でも、いざ人間関係を断ち切ることにも、なかなか勇気が要るでしょう。ならばその勇気は私の側で発動して、そっと関わりを絶ち切ることの方が傷も浅くて済みます。
それが私の善意の表し方だと思って下さい。
それでもどうしても私の書くものと関わっていたいと言うことでしたら、何かしらの形でその思いは是非表して頂かないと私には分かりません。
惰性ではなく、熱く誠実に、熱心に人との関わりを考えたいと今は切実に感じ、願っています。
今までと違うことは、私が芸術家の肩書きの伏線として「音楽評論家」と「霊質学者」を足したことです。
一つにはこれで多くの音楽家に対する緻密なジャッジメントが出来る立場を得ること、そしてそれが私 Didier Merah の本当の姿、真の内面や蓄積して来たものを余すところなく発信するパイプラインになるであろうと踏んだからです。
「貴女何様ですか?」と言う言葉をこれまで多くのかつての知人にかなりの回数投げ掛けられて来ましたが、同じ言葉を返せる強敵にはこれまで私は出会ってはいません。
恩師 三善晃氏を除き‥。
強い人間には強い生き方、強い表現スタイルを身に付け、それを周囲に認識させる必要があります。いわば音楽評論はその為の、戦う武器とでも言えば良いのかもしれません。
実際私は今、静かな戦いを続けていますから。
或る人にこう言われました。
「コメントが欲しいなら、そっちから出向いて来い。」と。
つまり私がコメントを投稿したら、その御礼行為としてコメントの一つや二つ返してやるよと言う、これはそういう意味だと解釈しました。
そのくせそういう言葉を放つ人に限って、どこの誰だか分からないようご自分を完全に不思議系のハンドルネームで匿ってネットに暗躍しています。
今後はそういう人には、極力私からの直のコメントやメッセージ等は送らないことに決めました。
それこそ冒頭にも書いたように、その日の逐一の言動に将来性を見い出せないからです。
私の言う「将来性」とは、いつかどこかで会った時にそっと握手の出来る距離で居ることを指します。その為には先ず双方の社会的立場や実名、職場、連絡先等を把握しておく必要が生じる筈。
それを端折ることが前提の人間関係等、実際にはあって無いに等しいのです。
先日或る方が体調不良を理由にnoteから長期的に離れる‥ と言うことがあり、心配になった私は先方に「サポート機能」を駆使してメッセージを送り、そこに私のSNSのアカウントを書き添えておいたのですが、後から分かったことですが先方にとってそれらが不要なものだったと。
このご時世、SNSはライフラインであり、インフラと言っても過言ではありません。どう好意的に見積もっても、SNSはnoteだけしか使用していない‥ 等と言うことはあり得ないのです。
でもそれに似たことを仰る人は、結構多いのが現状です。
そういう相手に向かって「実」を求める私が、きっと間違っているのでしょう。私がそれを止めれば済む話なので、そういうリアクションを私に返して来た方々へはそれなりに、距離を開けておくことが望ましいと自分自身への自戒の念をあらたに高めました。
込み上げる怒りは尽きないのですが、それを私は今後「音楽評論」に向けてみることに決めました。⇩
又、noteはあくまでサブ、及び有料記事を販売する為の設備として割り切ることにして、メインはあくまでオフィシャル・ブログ「Didier Merah Blog」と考え、ここnoteはその伏線として、人の多いSNSからの人流を作る為のパイプラインとして認識しようと思います。
パイプラインは多いに越したことはないですから(笑)。
Twitterもこれまでとは少し方針を変えて、ガチツイに徹して行こうと思います。勿論時々は気晴らしツイートも書きますが、基本は「ガチ路線」で。
そうしないと、寄って来る人たち(フォロワー含む)の熱量が軽減され、いい加減、遊び半分とか気晴らしでTwitterを利用している人ばかりを引き寄せることにもなりかねないので、それは避けたいと思っています。
そう言えば昔々、兎に角物凄く注文の多いイタリア料理店の店主に滾々とお説教をされたことがあったのですが、今にして思えば当時の私は料理とかランチをナメてかかっていたと思います。
それがきっと、店主とすれば許せなかったのでしょう。もっともっと平伏して接するべきでした。
さて今回あえなくフォローを外させて頂いた方へも、私なりに悩み抜いた結果の結論です。
再び繋がる時には是非、以前よりももっと熱く私に興味を持って関わって下さい。そして上に書いた「イタリア料理店 店主」のような気難しい私ですから、恐れおののきながら接して頂けたら尚、ありがたいです🤗
諸々よろしくお願い致します。
記事を気に入って下さった暁には是非、サポートで応援して下さい。 皆様からのエネルギーは全て、創作活動の為に使わせて頂きます💑