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Archives 現象学から道元へ 「修証一等」 未踏の地に向かって



かなり基底的な哲学の問いだと思うが、ベルクソンとフッサール・ハイデガー・メルロポンティ(私見ではドゥルーズも入る)といった「現象学派」を本質的に分かつものは何か?  そもそもそれは存在するのか?


上記リンクから転載
「ドゥルーズのフランシス・ベーコン論における感覚、情動、神経系統といった用語との関連で言えば、ドゥルーズによる前掲書をはじめとする現象学の劣位化は慎重に受け止め吟味する必要がある。

いずれにせよ、ドゥルーズが自らと差別化したかったのはなんといっても現象学だろう。」

通常この私に現れた現象は公共的な科学の言語に還元して記述されるが現象学はそれを脱還元=解除する。その操作が現象学的還元と呼ばれる。しかし現象学は記憶・私の持続・時間(何らかのバージョン化を経たものを含む時制または時間の相)を論の前提にしていることは科学と同じである。

だが現象学の学としての構造分析の骨組みまたは前提として「意識の志向性」は不可欠でありこの点においてやはり通常の科学とは異なる。つまり現象とはこの私の意識の志向性の相関者として原初的に与えられたものである。したがって「現象とは何か」という事後的な本質規定の問いから出発することは、その何らかの本質規定の枠組みを探究の前提にする限り現象自体を何らかの科学に還元してしまわざるを得ないということになる。つまりこの循環的な構造は現象学自身の存立根拠に向かうことになる。

この循環には終わりがないように見える。現象学的地平においてあらゆる問題が残存する。本当に哲学的な問いはようやくこれ以降に始まる。カント『純粋理性批判』特にその演繹論(純粋悟性概念=カテゴリーの演繹)・図式論・原則の分析論はまさにこの循環構造に対峙してその根拠の探究として開始されたものである。

ここで見方を転ずると意識の志向性自体を還元できるかという問いが浮上する。例えば道元は、この還元をその都度の修行の過程(学びの過程ともいえる)において試みることで私と空 (śūnyatā) の不可分な関係性を探究したといえる。彼が繰り返し語る「修証一等」(修行と悟りは一体不可分)はまさにその事態を表現する。その意味で探究されるべき課題とは、私と空の関係性である。

「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに
修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。
」       『正法眼蔵』「弁道話」

この探究課題は、さらに言い換えれば私と空と「非思量」の関係性ということになる。これにより問題が二体問題から三体問題になる。この点に関して、道元は「不思量底を思量するには、かならず非思量を用いるなり。非思量に誰あり、誰我を保任す」(『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻)と語っていた。「誰か=非思量」が、この私を支え保っている限りこの<私>は除去不可能であるだろう。

道元の指示はいまだ考えられたことのない未踏の地を探究しなさいということだ。以上をまとめれば、「修証一等」の究極的な含意は、この<私>の独在性において働く「世界超越的な力」と《私=我々》の超越論的構成において働く「世界構成的な力」は同じ<現実性>の力の二つの効果であり、独在性の世界超越的な力と超越論的構成の世界構成的な力は不断に他方へと反転しない限りそれ自体としての力を働かせることができないということである。


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