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カント『純粋理性批判』「量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」後半

※下記は、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1』「第5章 カント『純粋理性批判』のデッドライン Ⅱ 内包量のアポリアのもう一つの地帯/Zone――「魂の常住不変性に関するメンデルスゾーンの証明に対する論駁」から諸地帯Zonesへ」の「附論 量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」の後半である。 
 なお、<超越論的自由>については、この後の「Ⅲ 諸地帯Zones――デッドライン/死線の横断」において、「そこにおいて風間問題が生成する現実性の<次元/場>」という問題系においてさらに掘り下げる。


以下「量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」後半

 白井仁人氏は、『量子力学の諸解釈 : パラドクスをいかにして解消するか』(2022年 白井仁人著 森北出版)において、上記「観測問題」の解釈に新たな光を投げかけたと言われる「量子ベイズ主義」について以下のように述べている。

「量子ベイズ主義は、波動関数から計算した確率はベイズ確率であり、量子系そのものがもつ性質ではないと主張する。その確率はわれわれがもつ信念の度合いなのだ。波動関数は信念の度合いという心的な状態を反映している。よって、波動関数の変化で表される諸現象は心の中の信念の度合いの変化ということになる。」(前掲書 141頁 強調は筆者による)
 ここにも内包量の経験の成立可能性と時間という純粋直観の接続というアポリア的問題がそのまま露呈している。つまり、観測という行為が、それ自身としては現象の本質を記述する言語形式に過ぎないシュレディンガー方程式すなわち波動関数には記述不可能な/語り得ない<次元/場>を現実に捉えているという究極の謎は依然として解かれていない。この「信念の度合い」のベイズ更新は、計算結果/確率としては不連続的に推移するが、主観的な度合いとしては連続的な内包量の推移としてカント的には「実在性の図式」の産物である。そこにアポリアが潜んでいる。
 白井氏は明確に実在主義の立場なので、専ら主観性レベルの立場として解釈される量子ベイズ主義の解説においても その「信念の度合い」が一方向的に決まるベイズ更新の基盤に関して「自然は支配されている」と書いている。なお、白井氏は自著すなわち前提書を哲学書と位置付けている。白井氏は、量子ベイズ主義の立場を「なぜか知らないが、同時確率が成り立たない確率、干渉する確率に自然は支配されているのだ。その背後に何があるのかなんてわれわれにはわからないが、今後もデータが得られるたびにベイズ更新され、より正しい確率へと近づいていく(中略)シュレディンガー方程式を信念の度合いに関する法則だと見なしてよいのだろうか。もしエネルギー保存則や運動量保存則も信念の度合いに関する法則だというのであれば、時間対称性や空間対称性も信念の度合いと関係することになってしまう。それはすなわち、われわれの周囲にあるこの空間や時間の対称性が信念の度合いと関係してしまうことになる」(前掲書151頁-152頁 強調は筆者による)と批判的に解説している。さらに白井氏は、「量子ベイズ主義の強力な推進者であるフックスの言葉を引用し、その考え方の真髄を伝えたい」(前掲書153頁)として、「観測者の自由意志によって設定された測定が行われるたびに、世界は少しずつ新たに生まれて形をなしていく」(同上 強調は筆者による)というフックスの言葉をフォン・バイヤーの著作からの間接引用の形で紹介している。
 ここでの「観測者の自由意志」は、実践的次元における思考の働きであり、無時間的な「時間の外部」に位置し、かつ時間領域と一つの系列をなすことができる。内包量の経験の成立可能性と時間という純粋直観の接続というアポリア的な作業とは、この時間の外部と時間領域/現象領域の両者に包括的に関わる思考の働きであり、それは<超越論的自由>と呼ばれる。この自由がなければそもそも行為という次元が存在し得ないのだから、哲学という行為も観測/測定を核とする科学という行為も存在し得ないことになる。
 「現にある宇宙の構造の根拠」を「現にこのような人間が存在しているということ」に求める――「宇宙が現にこのようにあるのは、もし宇宙が別様にあったとすれば、私たち/人間が存在して宇宙を観測することはできないためである」という論理としての――「人間原理」は、以上の意味における思考/観測という行為を<超越論的自由>として要請する理性の超越論的理念である。

 <超越論的自由>という要請のもとでは、<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三者は、互いに不可分な三位一体 Trinity の働きとして――それを裏打ちする現実性の力の下で――現に生成する。《私》/言語/記憶という三位一体 Trinityの根底には、この<超越論的自由>という要請としての<私>-(hyphen)《私》-「私=私たち人間」の三位一体 Trinityが現に生成しているのである。



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