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「蜂の巣退治」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品    

「奥さん、蜂がこんな所に巣を造っていますよ」
「えっ、ほんと、何処に」
 
 実は昨日、屋外ガス風呂釜装置が故障して湯が沸かなくなった。この暑いのにお風呂に入れないのでは困ると早速電話して修理に来てもらった。今日は台風一過で素晴らしい上天気だが温度がすごく高い。ガス釜が簡単な修理で直ったのでほっとした。だが修理の若いお兄さんのこの言葉にはびっくりした。湯沸し装置と家の壁の間に十センチほど隙間がある。その壁に沿ってぴったりと蜂の巣がへばり付いていたのだ。直径七、八センチ、色は薄茶色でなんとも気持ちの悪いぶよぶよした物体。此処なら庇で雨は防げるし、釜の内側で目立たない所だし、うまいところに巣をつくったものだと感心してしまった。だが感心している場合ではない。この蜂の巣、何とかしなければ危険で近くを歩く事もできない。

 実は前に住んでいたところでも、蜂に巣をつくられたことがあった。其のときは自治体が除去してくれると聞いていたので、今度も早速、千葉市役所に電話して見た。だが答えは「No」。専門の業者の電話番号を教えてくれただけだった。冷たい役所である。やむなく業者に頼んだが、おかげで《福沢諭吉さん》が三‘四枚消えてしまった。
 
 今度の巣は其のときに較べてだいぶ小さい。「まだ造り出したばかりのようだから多分まあ簡単に取れるでしょう。でも気をつけてくださいよ」若いお兄さんのその言葉に乗せられて、夫と二人で協力して取ろうと一大決心をした。とは言っても何しろ相手は蜂。やはり怖い。大丈夫だろうか。目深に帽子をかぶり、手袋、靴下、長靴、長袖、頬被りの手拭、目玉だけ手拭の隙間からぎょろりと出して庭に出た。この暑いのに、人が見たら笑いそうな重装備である。
 
 最初はこわごわだった。とにかく慌てちゃいけないと慎重に作戦を立てた。先ず殺虫剤をかけて蜂を弱らせてからと意見が決まった。だが誰が薬を巣にかけに行くのか。こういう時、まあ、言いたくはないが、わが夫はあまり頼りにはならない。本は良く読み知識ばっちりの教養人だが、こういう実践的行動は不得手中の不得手だ。私は長年の結婚生活でその事は嫌というほど知っている。

 仕方がない。やるっきゃないと、私はそうっと巣の近くに近寄った。蜂がいないことを確かめてから、無我夢中で薬をふきかけた。なんと十何匹とも思われる蜂がいっせいに飛び出してきた。まるで中から一時に湧き出てきたという感じだった。「きやっー」悲鳴をあげて逃げだした。まさかこんなにいるとは思わなかった。石ころにけつまずき、草花の鉢をひっくり返し、玄関の中にほうほうの体で跳び込んだ。
 
 二十分おき位に、この危険で、スリルにとんだ作業を繰り返すこと三、四回、漸く出て来る蜂も少なくなった。多分薬で弱ってしまったのか、此処は危険だと何処かよそへ行ってしまったのか。蜂も生きる為に営々とこの巣を造ったのだろうが、こちらもわが身の安全を守るためにこの巣を放置するわけにはいかないし、蜂には気の毒だが仕方がないのだ。 その後二、三メートルもありそうな竹の棒の先に濡らした布を巻きつけ遠隔操作で巣をこそげ取った。蜂の動静を警戒しながら玄関に避難したりまた出たり。何回も繰り返してようやく終わった時には、なんかとてつもない大仕事をしたような気がして、一度にどっと疲れが出た。巣の跡にはまた造られないように薬をばっちりかけ、地面に落とした巣の残骸には土を大きなシャベルで二、三杯振りかけた。

 家に入り、汗を拭き、熱いお茶を一緒に飲んだ。「取れてよかったね」二人で顔を見合わせたが、一安心したせいか、なんだか急に可笑しくなって笑ってしまった。
 
 今、考えればなんと言っても、危険が少しでも防げるように慎重に作戦を立てたのは夫だし、実働班の私も、夫がそばにいなかったら、怖くてとても出来なかっただろう。言ってみれば今日の蜂の巣駆除作戦は二人の共同作業の成果だ。子供が一人も傍にいなくなって寂しいことは寂しいが、でも二人で力をあわせれば何とか生きていけると、少しは勇気も湧いて来た。

 但し、蜂の命を奪ったことにはやはり気が咎める。よそへ逃げてしまったのが大部分だとは思うが、出来ることなら無益の殺生はしたくなかった。でもこれは夫と私が安全に生きる為に必要最低限の殺生だ。きっと神も仏も許して下さるだろう。

 間もなく梅雨も明ける。本当の夏が来る。賑やかに帰省してくる子供や孫達との再会が楽しみだ。夫と私の蜂の巣退治の話を聞いたら、きっと子供達驚くことだろうな。そして二度とそんなことしたら駄目よと、きつく叱られるに決まっている。

 そう、また、こんなことする気力はもう私には無いようだ。                        
 
  二〇〇二年七月一三日執筆 

        


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