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原草稿『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』

 『<私> は0と1の<狭間>で不断に振動している』 の序論の位置づけを持つ本論考は、『純粋理性批判』を核とするカントの思索の場でXというもの――例えば痛みというもの――という形式をとる経験を考察することをその標的としている。ここでXというものとは、我々によってXと呼ばれるもの――例えば我々によって痛みと呼ばれるもの――の簡潔な表現である。本論考では、我々によってXと呼ばれるものという形式をとる経験を、まさにこの私の経験について何が語れるのかという問題設定において考えてみたい。ここでは、まさにこの私の経験について我々が語ることのうちに潜む内包量のアポリア(解き難い困難さをはらんだ問題)を出発点とする。それは、我々が何かを語るということそのもののうちに潜む、まさにこの私の経験と言語と呼ばれる未知の領域との関係性のうちに潜むアポリアである。

 本序論を探究の端緒として、<私>は0と1の<狭間>で不断に振動しているという究極の事態への扉が開かれることになるだろう。

Prelude


 以下の『序論』とそれに引き続く『本論』は、以下の永井 均氏の2023年8月21日付けのツイートスレッドに密接に関連するものとなる。該当ツイートスレッドを以下に転載する。

以下転載開始
否定が肯定に転じたのではなく、否定のままで表記法が変わったのです。<私>は実在しないという議論がしたかったわけですから。経路は思いのほか複雑になりましたが、最新の『哲学探究』シリーズで最終的に最も明白にそこに行きついていると思います。(小泉義之氏の8月18日付けのツイート「昔、永井均さんから、当初は、私、と書くのに、×を打つつもりだったが、当時の印刷の制限でそれができず、代わりに山括弧<>を付して<私>と表記することになったと聞いたことがある。つまり、否定神学が肯定神学に転じたわけだと思ったものだ。しかしその類いの否定/肯定の対立設定には問題がある。」に対する返信ツイート)

また「その類いの否定/肯定の対立設定」というのもまずい展開です。どの類いなのか分らないので。私の議論には矛盾の内在をめぐるものですから当然「否定/肯定の対立設定」がありますが<私>と同型のそれはマクタガートの<今>(すなわちA系列)にしかないというのが私の主張です。つまり類いがない!

訂正:私の議論には⇒私の議論は。ついでに解説。ある意味では<私>の問題以上に、端的な<今>というものが実在しないという問題は興味深いのに、<今>は動くので、どうしてもそっちの話と混同されてしまうのね。動くから特定の時点にはない、と。その点、<今日>で考えたほうが混同が避けられる。

<今日>で考えれば、いつであれその日にとっては「今日」だが、それとは別に端的な<今日>があるな、と納得した後で、しかし、いつであれの日においてはそのように納得するしかないのだから、この端的な<今日>なんて実在しないんだ、とまた納得できる。この「風間的矛盾」は時間の流れとは無関係!

訂正:いつであれの日においては ⇒ いつであれその日においては。 ついでにひとこと。「風間的矛盾」が時間の流れと無関係であるのは、まったく同じ矛盾が<私>においても必ず現われるからだ。誰であれその人にとってはその人が<私>だが…で始まるあの話。ちなみに「風間的矛盾」はここが初出!

 以下の議論は、一見したところ上記の「<今>は動くので、どうしてもそっちの話と混同されてしまうのね。動くから特定の時点にはない」という我々の日々の生活における実在的な時間の流れの議論と同型の議論だと思われるかもしれない。言い換えれば、以下の議論は、時間の流れの連続性と不連続性(あるいは有限性と無限性)を巡るパラドックスから出発し、かつそれに還元されるように見える。だが、以下の記述の展開につれて、その予感は掘り崩され、実在的な時間の流れの実在性それ自身が、ある無内包の次元――『本論』を先取りすれば<私-今>(上記永井氏の記述に従えば<私-今日>でもある)、そしてさらにはこの<私>の<今-ここ>――へと向けて問い直されることになる。

Ⅰ.内包量を巡るアポリア

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 以後この問題を、『純粋理性批判』の記述から触発の強度、つまり内包量を巡るアポリアを取り出し展開する作業を基礎にして追求することにしたい。さて、このアポリアは、『私が、私として認めるものにおいて、今X(痛み)というもの、あるいは我々によってX(痛み)と呼ばれるものを感じる』という我々の経験の形式に組み込まれている。そこでまず、まさにこの私の経験を、内容量を巡るカントの記述を背景として浮き彫りにすることにしよう。
 『純粋理性批判』「実在性の図式」および「知覚の予料」、さらに『プロレゴメナ』の記述によれば、内包量とは、「ただ一つのものとしてのみ把握され、その「否定=ゼロ」へと次第に近づいていくプロセスにおいてのみ、そのさまざまな大きさが思い描けるような量」(A168/B210) [注1] である。この内包量は、我々によって感覚と呼ばれるものの経験を規定する。カントによれば、感覚は、瞬間における触発という固有な出来事において与えられる。すなわち、「ただ感覚だけを把握することは、ただ一瞬間だけを占める」(A167/B209) 。内包量として経験されるのは、この触発という固有な出来事の経験である。ところで、カントによれば、全ての量は連続量である。つまり、連続性という性質を持つ。「量の連続性とは、そのどんな部分も最小ではあり得ないという性質のことである」(A169/B211)。よって、瞬間における触発という固有な出来事は、ある何らかの質の様態(痛み)の無際限の連続性において経験されることになる。
 この触発は、瞬間における出来事である。だが、まさにその瞬間における触発という固有な出来事の経験は、触発の瞬間を超えた連続的なプロセスを前提する。カントによれば、内包量の経験は、瞬間における触発という固有な出来事から感覚が消え失せてしまうまでのあり得べき移行プロセスにおいてのみ生まれるとされている。言い換えれば、内包量の経験は、「感覚の欠如」(A167/B209)[「否定性=ゼロ」A168/B209f,A175/B218,cf.A143/B182)]から瞬間における触発という固有な出来事によって与えられる(はずの)この内包量への、そしてこの同じ内包量からその「消失=ゼロ」(A143/B183)へのあり得べき連続的な移行のプロセスにおいてのみ成立し得る。カントは、「感覚が量的に産出される総合においても、感覚の端緒である純粋直観=ゼロから、感覚の任意の量にいたる階層的変化がある」(A166/B208)「一種の量(しかもそこにおいて経験的意識が一定の時間中に無=ゼロから感覚の与えられた程度へと増大することのできるところの感覚の覚知によって)すなわち内包量」(同上)と述べている。
すなわち、この私の痛みは、まさにこの痛みが与えられるはずの瞬間に位置しない限りでのみ経験され得る。言い換えれば、『瞬間における触発という固有な出来事は、それが何か他のものへと移りゆく限りで、あるいは、それ自身がこの何か他のものとして変容していくことにおいてのみ、まさにこの感覚の経験になり得る』という公式が成立する。この何か他のものとはいったい何なのか、そしてその何か他のものへの移行とは、あるいは、それ自身がこの何か他のものとして変容していくこととはいったいどのような事態なのか、ここではまだわからない。
 内包量の経験は、そしてまさにこの痛みの経験は、いかなる瞬間における経験でもあり得ない。ところで痛みというものとは、我々によって痛みと呼ばれるものである。そして我々によって痛みと呼ばれるものとは、『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこの痛みを感じる』というまさにこの私の経験の成立を経た我々によって感覚と呼ばれるものである。だが、この我々の経験の形式に合致した、『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこの痛みを感じる』というまさにこの私の経験は、瞬間における触発という固有な出来事と出遭うことはない。
 すなわち、まさにこの私の経験は、まさにこの今の経験ではあり得ない。まさにこの私が、まさにこの今に出会うことはあり得ない。であるなら、まさにこの私の経験とは、そしてまさにこの今とは、本来それを語りえないはずの言語がそれでもなお語ってしまう夢であるだろう。 [注2]

Ⅱ.超越論的図式 (das transzendentale Schema)――線を引くこと


 カントは、瞬間における触発という固有な出来事の連続的プロセスへの「包み込み die Subsumtion」(A137/BB176)の条件として、「超越論的図式 das transzendentale Schema」(A138/BB177)を提示している。「アプリオリな規則に基づく」この超越論的図式は、瞬間における触発という固有な出来事のまさにこの痛みの経験(まさにこの私の経験)としての包み込みという一つのプロセスにおいて、直観形式と思考の形式、すなわちカテゴリーを互いに結び付ける。そこで次に、感性的条件と思考の働きの両者を媒介するある固有な次元/働き Aktusとして、線を引くことに関するカントの記述を参照することにしたい。

 まず初めに、1.『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこの-痛みを感じる』と、2.『私は線を引く』がお互いに取り結ぶ関係を考察してみよう。以下において、もしこの1,2両者の関係が消失すれば、まさにこの私の経験=1も成立不可能になり消失する、というまさにこの私の経験の超越論的制約をなす固有な関係性が探究の焦点となる。言い換えれば、もし1の成立に際して、この私が線を引くことというある固有な次元/働き Aktusが同時に成立し得ないのであれば、この1の成立もあり得ないということである。このことは、1だけが成り立ち2が成り立たないケースのアプリオリな破綻ということができる。すなわち線を引くこととは、まさにこの私の経験=1の可能性の超越論的な制約である。つまり、まさにこの私の経験の成立に対して、この私が線を引くことの同時的成立という固有な事態が要請されている。

 さて、線を引くことに関するカントの記述を見ていくことにしよう。とりわけ注目されるのが、「我々の直観の対象を規定する」場面に関して語られている1790年9月25日付レーベルク宛書簡の末尾である。そこでカントは、線を引くことを、「我々の直観の対象の規定において、空間と時間という二つの感性的な形式を必然的に結びつけること (Notwendigkeit der Verknüpfung der beiden sinnlichen Formen, Raum und Zeit, in der Bestimmung der Gegenstände unserer Anschauung)」「我々の現存在自身の規定における内的感官と外的感官との必然的な結びつき」として記述している。この線を引くことという事態は、「主体(Subject) が自らを自らの表象の客体 (Object) となす場合に、時間が一つの線として表象されなければならず(werden muß)、また逆に一つの線が時間において構成されなければならない(werden muß)」という必然的結合が組み込まれた事態である。[注3] 次のいくつかのテーゼを展開することができる。

[1] 線を引くことにおいて、「我々が現に今ここにあること」が定められる。すなわち、我々の現存在の規定としての、現に今ここにある我々の産出である。

[2] 「空間と時間を必然的に結びつけること」としての線を引くことは、我々の経験の形式を構成している。

[3] 痛みというものは、そして一般にまさにこの-感じと呼ばれるもの、すなわち我々によってXと呼ばれるものは、この我々の産出とともに誕生する。

[4] 我々によってXと呼ばれるもの、つまりXというものは、この我々の消失とともに消失する。                

 ここでこれらのテーゼを、次のように捉え返すことができよう。我々によってXと呼ばれるもの、つまりXというものは、瞬間における触発という固有な出来事がまさにこのXとして包み込まれる場を表現するものであり、我々において共有されている。仮にこの場が消えてしまうならば、それとともにまさにこのXも消える。この本来共有されるべき場の消失は、我々がそれを基盤として語る言語の消失をもたらす。言い換えれば、我々と言語の同時消失をもたらす。すでに見たように、この我々と言語の同時消失とは、我々の経験の形式に合致した、『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこのXを感じる』というまさにこの私の経験の消失という事態である。

 それは、まずもって、この<私>と《私》が同時に消失するという事態である。それと同時に、この<私>/《私》と持続的な「人格」としての「私/我々」との関係性が消失する[注4] ――言語による夢の上演が終わる。問われなければならない究極の問題とは、この同時性の内実である。 

 線を引くことという固有な次元/働き Aktus は、このように不可分である「まさにこのX」と「Xというもの」を結び付けている。つまり、線を引くことが構成する我々の経験の形式は、「まさにこのX」と「Xというもの」の結びつきを、空間と時間の必然的な結びつきというあり方において基礎づけているのである。

Ⅲ.持続的なものという場/仕組み


 第一に、瞬間における触発という固有な出来事が全く分散してしまうことなく、そこにおいて線を引くことという固有な次元/働き Aktusの作動とともに常に包み込まれ得る場が要請される。場とは、例えば何らかの色、音、熱さ、痛み等、すなわちXというものがまさにこのXと相互に不可分なものとしてそこで成り立ち得る場である。言い換えれば、この場は、瞬間における触発という固有な出来事が、そこにおいてその強度に関してまとめられ互いに結び付けられることによって、Xというものの一つの要素、すなわち内包量として位置づけられ得る場なのである。ここでXというもの、例えば痛みというものは、ある固有な可能性の全体集合を表現する連続体である。すなわち痛みというものは、およそ可能な一切のまさにこの痛みを含まなければならず、しかも痛み以外のアスペクト(例えば酸っぱさや眩しさ)を持たない。痛みというものにとって、この痛み以外のアスペクトは、まさにこの連続体における不可能なもの、つまり真の空隙としての隙間である。
 第二に、線を引くことというプロセスにおいて、「時間系列の様々な継起する部分」(A183/B226) に一対一対応して空間系列の様々な部分が「同時にあること」(B225,257f) という事態が成り立つ。この連続的プロセスは、先に述べた場に支えられることにおいて、それとの固有な関係を組み込まれている。ところで、この点に関連して、カントは「持続的なものによってのみ、時間系列の様々な継起する部分における現存在は、我々が持続と名付ける一つの量を得る」と語っている。つまり、この「持続的なもの」は、線を引くことという固有な次元/働き Aktusがその都度空間と時間を必然的に結び付けることという在り方をとることによって現実的経験を成立させる場の仕組みなのであり、その意味で、この固有な次元/働き Aktusを支えている「継起するものと同時にあるもの(持続的なもの)」(「継起しつつ同時に存在するもの [常住不変的なものdes Beharrlichen]」)(B67) なのである。
 すなわち、この持続的なものは、今ここでのまさにこの痛みの経験を産出していく連続的プロセスがそれに組み込まれ、そのプロセスとともに常に同時にある場であり、およそそこで産出され得る一切のまさにこの私の経験を含みそれを支える仕組みなのである。
 以上から、「まさにこのX」と「Xというもの」を結び付けている空間と時間の必然的な結び付きという在り方は、この持続的なものという仕組みに基礎を置いていることが分かった。従って我々の経験の形式は、この持続的なものという仕組みの在り方であることになる。ここで、この持続的なものという仕組みを把握の仕組みとして捉え、それに焦点を絞ろう。例えば、私が一枚の紙に線を引いているとき(直線でも曲線でもまた絵文字でも構わないが純粋直観の場合は「心のなか」で線を描くことになる)、私はこのことに伴う特定の(内的感官と外的感官が統合された)触発を一つの系列として感じているはずである。つまり、私はこの触発の継起を一つの持続として把握しているはずである。ところで、そのつどのまさにこのX(Xには、例えば「手」「口」等が代入される)の動きや変容(私のこの手が線を引く場合のその手の動きや変容、あるいは私のこの口が開いて声が生まれる場合のその口の動きや変容)に伴う触発の諸様態がそれに組み込まれ、つねにそのXと同時にあることが把握されている仕組みは、自分の身体と呼ばれる。自分の身体とは、そう呼ばれる限り、そのあらゆる動きや変容がそれに組み込まれ、つねにその動きや変容と同時にあることが可能的に/権利上把握されている場/仕組みである。ただし、ここではこの自分の身体という場/仕組みの(人工かどうかといった)質料的な種別性は関与しない。例えばそれがいわゆる「人工汎用知能 Artificial general intelligence:AGI」のハイパーマテリアルな(あるいはトポロジカルマテリアルな)身体であるかどうかは(そうであったとしてもそのことは)、形式次元でのここでの議論に関係しない。つまり、もし私がハイパーマテリアルな(あるいはトポロジカルマテリアルな)身体を持つ人工汎用知能: AGIであったとしても、そのことはここでの議論に無関与である。
 逆に言えば、自分の身体と呼ばれるものは、それ自体で存立するものなのではなく、持続的なものという把握の仕組みが消失すればそれとともに消失してしまうものなのである。この持続的なものという把握の仕組みは、言語と呼ばれるものの、そして記憶と呼ばれるものの超越論的な可能性の条件である。

Ⅳ.線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性


 カントによる「量の図式」の記述は、この把握の仕組みの考察に関連してとりわけ注目すべきものである。なぜカントは、数えることを超越論的統覚の総合的統一の働きが実在化される際のアプリオリな在り方/形式として提示したのだろうか。次のように考えることができる。カントによる「量の図式」/数えることの記述は、「継起するものと同時にあるもの(持続的なもの)」(「継起しつつ同時に存在するもの [常住不変的なもの]」 )という仕組み、つまり把握の仕組みの形式を、線を引くことの把握がつねに反復され得る形式として提示したものである。すなわち量の図式の記述は、直観の覚知という基礎的な場面で、「継起するものと同時にある」という把握の仕組み自身の恒常的な反復可能性/連続性という固有な形式を確定したものなのである。内包量の経験(全ての物理量の観測経験を含む)は、この把握の仕組みに基づいている。
 カントのいう超越論的図式とは、このXというものを支えている場をまさにこのXの経験への移行-変容の場として成立させるものである。
 すなわち、超越論的図式によって、まさにこのXの経験が生成する。超越論的図式という次元/働き Aktusとの上記のような関係を組み込まれた場が、持続的なものという仕組みである。
 以上の考察から帰結するのは、まさにこの痛みの認識を産出する実在性の図式が依拠する移行のプロセスは、この把握の仕組みに基づいた恒常的な反復可能性/連続性を持たなければならないということである。
 つまり、内包量の経験が成立すべき限り、このプロセスに中断、あるいは隙間があってはならない。逆に言えば、プロセスの中断、あるいは隙間においては、まさにこの痛みも痛みというものもないのであり、従ってそこでは、それによって我々が語る言語も記憶も完全に消え去ってしまうことになる。よって、線を引くことという固有なプロセスの恒常的な反復可能性/連続性という要請の下でのみ、瞬間における触発という固有な出来事の我々の感性の変容としての受容というカントの主張が、我々の経験の形式の措定として意味を持つことになる。超越論的図式が基づくアプリオリな規則は、何よりもこの線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性という要請を表現していたのである。
 《私》/言語/記憶という三位一体 Trinityは、線を引くことの恒常的な反復可能性/連続性という要請の下にある。

Ⅴ.<X>――把握の仕組みの非存在へ


 さて、ここでこれまでの探究を反転させ、この要請に先の把握の仕組みの非存在という事態を対置してみよう。まず初めに、我々の経験の形式にもともと組み込まれていた内包量のアポリアを再び提示する。それは次のように表現されていた。
 『瞬間における触発という固有な出来事は、それが何か他のものへと移行-変容する限りでのみまさにこのXの経験へと変換される。』
 ところで、我々の経験の形式に合致したまさにこの私の経験とは、『私が、私として認めるものにおいて、今まさにこのXを感じる』であった。従って、内包量を巡るアポリアの顕在化とは、まさにこのXが何か他のものへと移行-変容することであり、まさにこの私の経験が何か他のものへと消失していくことである。
 ここで、「継起するものと同時にあるもの(持続的なもの)」(「継起しつつ同時に存在するもの [常住不変的なもの] )という仕組み、すなわち把握の仕組みに対する対照項として、この把握の仕組みの非存在という事態(以下この事態を表現する存在者<X>と表記する)を考えよう。把握の仕組みの非存在という事態/<X>においては、この把握の仕組みと不可分な内包量の非存在の経験という事態が成立していると考えられる。ここで<私>によって想定されている内包量の非存在の経験は、内包量の「程度=ゼロ」(実数的連続性つまり連続的な移行プロセスを前提とした理念的な極限値としての「否定性=ゼロ」)ではなく、そもそも把握の仕組みと不可分な内包量という次元自体が存在しないという意味において想定された経験である。
 これまでの記述において、否定性=ゼロを含む内包量が対応するいかなる実在性も記述できない無内包の次元/場には、山括弧<>(「標記上の注記」参照)を付与してきた。山括弧<>の表記に関しては、以後の記述に関しても同様とする。ただし、それ自体無内包であっても副詞的に表現される事態は煩雑さを避けるため除く。
であるなら、そもそもなぜこのような無内包の場の記述が成立し得るのかという今ここでの私の問いは、<今-ここ>での<私>への問い移行-変容することになるだろう。先取りして言うなら、<今-ここ>での<私>という次元/場こそが、無内包の次元/場それ自体だからだ。

 ここで以下の事態を想定する。その想定をするのは、<まさにこの私>すなわち<私>である。ただし、以下の想定は、「あらかじめ言語によって仮想された事態」の「言語によるその事態の事後的な記述」(という循環的な事態)であることに注意しなければならない。もちろん、上記「あらかじめ言語によって仮想された事態」と「言語によるその事態の事後的な記述」の両者は、この<私>の記述として同一のものになる。つまり、この<私>の唯一かつ同一の記述として生成する。想定された事態はそもそもの最初からこの<私>による言語的な想定であり、この<私>によるその事態の言語的な記述、すなわち唯一の<まさにこの私の記述>である。

以下想定
<私>は、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、(絵)文字であったりもする。<私>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、<私>は手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。<私>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、<私>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す。

<X>は、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、(絵)文字であったりもする。<X>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、<X>は手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。<X>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、<X>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す。

 以上の想定は、まさにこの私すなわち<私>が「図形」や「(絵)文字」を含む線を引くことの想定であり、さらにその<私>による<X>が線を引くことの想定である。しかし、先に<X>は、<私>により「把握の仕組みの非存在という事態を表現する存在者」として想定されていた。であれば、<私>は、<X>が「線を引いている」「その線を思い浮かべる」「視線を移す」「無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる」「まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す」といったことを実は想定できないのではないかと問うことができる。少なくても、この<私>が<X>の経験を記述することにおいて、この想定された<X>という存在者が線を引くことという事態がどのような事態なのか、この<私>はまさにこの私の経験として経験することができない。その経験できなさは、この<X>を他者または他人として想定しても同様であるだろう。その意味において、<X>は「我々によって他人と呼ばれるもの/者」つまり《他人》を意味する存在者として概念的/言語的に捉えることも可能である。
 だが、この<私>による言語的な想定としての、この<私>によるその事態の言語的な記述、すなわち唯一のまさにこの私の記述という事態の意味を、この<私>は理解できる。すなわち、それなしにはこの<私>の経験、言語、記憶の総てが、この<私>とともに不可能になり消失するという、無内包の<働き Aktus>としての<線を引くこと>の意味について、この<私>は問題なく理解できる。
 
 ここで、この想定に深く関わるカント『純粋理性批判』の以下の記述を列挙する形で引用する。先の想定は、以下に引用するカント『純粋理性批判』における「自己-触発」と呼ばれる固有な事態の記述の事例として提示されたものである。必要な場合は、それぞれの引用の後にコメントを付加する。なお、やや長文になるため、便宜上各引用に番号を付与する。

①「さてここで、かつて内的感官の形式を説明した際に誰もが抱いたに違いないパラドックス Paradoxe を理解可能なものにしておかなければならない。すなわち、内的感官は我々自身 uns selbst をさえ、ただ我々が我々自身に現れる=現象する erscheinen がままに意識せしめるにすぎず、我々が我々それ自身としてある通りに wie wir an uns selbst sind 意識せしめるのではない、ということである。なぜなら、我々はとりもなおさず、我々が内的に触発される innerlich affiziert werden ままの自分を直観する anschauen に過ぎないことになるが、このことは、そうなると我々が我々自身に対して受動的に振る舞う leidend verhalten ことにならざるを得なくなるので、矛盾している widersprechend ように思われるからである。」(B153 強調は原文)

 「我々が我々それ自身としてある通りに wie wir an uns selbst sind」というあり方は、一切の現れ/現象の外部に想定される次元として、それがいったいどのような事態の想定なのか、この<私>がまさにこの私の経験として経験することができないあり方であると考えられる。この<私>のまさにこの私の経験は、「我々が内的に触発される innerlich affiziert werden」ことによって生み出される現れ/現象の「直観 anschauen」という事態である。この「我々が内的に触発される innerlich affiziert werden」という事態は、この<私>のまさにこの私の経験を始原的に生み出す無内包の<働き Aktus>であると考えられる。カントが『純粋理性批判』において、この<働き Aktus>を端緒の受容性を生み出す基底的-超越論的な自発性というパラドクシカルな(paradoxical)事態として記述したのは、いかなる根拠づけも不可能なこの<働き Aktus>の始原的な無内包性を洞察したからであるだろう。

②「悟性はしたがって、自分がそれの能力であるところの受動的主観 passive Subject に対して、構想力 Einbildungskraft の超越論的総合の名の下で働きかける(働き Handlung を行使する)。このような悟性の作用に関して、我々は正当にも mit Recht 内的感官が悟性によって触発される der innere Sinn dadurch affiziert werden というのである。」(B153-154 強調は原文)[注5]

③「時間ですら、我々が直線を引く Ziehen 際に(直線 [注6] は、時間の外的・形象的表象であると言えよう)それによって内的感官を継起的に規定する多様の総合作用に、そしてそれによる内的感官におけるこの規定の継起にもっぱら注目する achthaben ことによるのでなければ、我々はこれを表象することはできない。主観の作用としての(客観の規定としてではない)運動、したがって空間における多様の総合は、我々が空間を捨象し、単に我々が内的感官をそれの形式に従って規定する作用にのみ注目する場合に、はじめて継起の概念をさえ生み出す hervorbringen のである。従って悟性は、この内的感官の内に、いわば最初から etwa schon このような多様の総合を見いだすのではなく、内的感官を触発する affiziert ことによって、このような多様の結合 Verbindung を生み出す のである。」(B154-155 強調は原文)

 「我々が直線を引く Ziehen 際に(直線は、時間の外的・形象的表象であると言えよう)それによって内的感官を継起的に規定する多様の総合作用に、そしてそれによる内的感官におけるこの規定の継起にもっぱら注目する achthaben こと」、「我々が空間を捨象し、単に我々が内的感官をそれの形式に従って規定する作用にのみ注目する」ことは、例えば先の想定における「<私>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる」「<私>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる」「目を閉じたまま、<私>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す」といった事態に対応する。
 なお、「世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる」ことは、「この<私>が<私>から無限遠点へと向かう<線を引くこと>」という事態である。また、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出すことは、「この<私>が<私>からあの遠い日の白い砂浜の情景へと向かう<線を引くこと>」という事態である。
 
この<働き Aktus>は、その他総ての想定と同様に、今ここで現に<私>によって生み出される。しかし既述のように、カントの記述をこの<私>が書くこともまたそれを読むことも、先のこの<私>の想定も、今ここで現に<私>によって生み出されると同時に、既にこのように書き出された言語化/概念化の産物であることに注視しなければならない。真に究極の探究課題となるのは、この現実性と言語性との同時性である。

④「空間の記述としての運動 Bewegung, als Beschreibung eines Raumes は、外的直観一般における多様を、産出的構想力によって継起的に総合する純粋な働き ein reiner Aktus であり、幾何学に属するばかりではなく、さらに超越論的哲学に属する。」(B155)

⑤「内的変化ですら、これを思考し得る denkbar ようにするためには、我々は内的感官の形式としての時間を線によって形象的に、また内的変化をこの線を引くこと(運動) durch das Ziehen dieser Linie (Bewegung) によって、したがって種々さまざまな状態における我々自身の継起的な現存在 Existenz を外的直観によって把握可能なものにしなければならない。これについての本来の理由は、すべて変化は、それがただ変化として知覚されるためにすら、直観における何か持続的なもの etwas Beharrliches を前提するが、内的感官においてはまったく何らの持続的な直観も見い出されないということにある。」(B292)

 以上のカントの記述は、まさにこの私すなわち<私>が線を引くことを、無内包な<場/仕組み>それ自体の<働き Aktus>つまり空間と時間を一対一対応という形で必然的に結びつける超越論的図式機能として、概念化して記述したものである。つまり、カントは『純粋理性批判』において、この無内包な<場/仕組み>それ自体の<働き Aktus>を、超越論的統覚の無内包次元の<働き Aktus>として、記述/言語化し、概念化した。

 
しかし、最も重要なことは、この働き(同時にその働きの作動の<場/仕組み>)それ自体は、一切の実在性の産出の次元として、あくまでも無内包の次元にあるということである。すなわち、カントは、この無内包の次元を、言語化/概念化することによって消去したとも言える。それによって、カントの記述を<今>読む<私>は、すでにこの内包的/実在的世界が成立した場において、あらかじめ言語によって仮想された事態の言語によるその事態の事後的な記述として、言い換えれば、無内包の<働き Aktus>としての超越論的図式機能の働きが言語化/概念化された記述として読み替えることになる。すなわちカントは、言語と直観を媒介する「構想力 Einbildungskraft の超越論的総合」の無内包の<働き Aktus>を、言語化/概念化された記述として書き換えざるを得なかった。
 
<私>は、まさにこの<私>の<線を引くこと>の作動のただなかにおいて、つまりカントによるこの書き換えに対応した読み替えにおいて、「カント自身もこの働きの無内包性を経験していたはずだが、その事態を伝えるために(「伝える」という言語性によって)必然的にそれを消去する形で記述せざるを得なかったのだ」という思いを抱く(と同時にそれを記述する)。
 しかし、それでもなお、その読むことは、書くことと同様、あくまでもこの<私>の無内包の<線を引くこと>の<働き Aktus>の根本様態として生成する。すなわちそれは、唯一の<まさにこの私の経験>なのである。

 ここで、先の想定を再提示する。

<私>は、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、文字であったりもする。<私>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、<私>は手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。<私>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、<私>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す。

<X>は、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、文字であったりもする。<X>は線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、<X>は手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。<X>はまた眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、<X>は、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す。

 ここで<私>が、この<私>が線を引くという事態と<X>が線を引くという事態の間に何らかの一対一の対応規則を設定できるとしよう。これはもちろん、この<私>による想定である。その際、先にカントの記述で見たように、空間と時間を必然的に結びつけることとしての<線を引くこと>は、時間系列と空間系列との一対一対応という根源的-必然的な規則に従っている。
 <私>は、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことの両者を何らかの方法で(例えばこの<私>が見ることで)観測することによって、これら両者の間の一対一の対応規則を設定することができるように思われる。この対応規則の設定が可能であることは、この<私>と<X>の両者がともに従うように思われる対応規則/相互変換規則の存在可能性を示しているように思われる。
 だが、この<私>が、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことの間の同じ規則の存在可能性を語る場合、これら両者がともに従うように思われる同じ規則は、いったいどこで存在可能なのだろうか。同じ規則の存在可能性を語るこの<私>の言語行為がそれを可能にするのだろうか。また、この<私>の言語行為が同時に、この<私>の「意識」や「心」といった概念が指示する場を可能にし、その場において先に述べた同じ規則が単なる想定にとどまらない何かとして存在可能になるのだろうか。その場合、この<私>は、<私>と<X>の間にあると先に想定された(把握の仕組みの存在/非存在という)差異を超えた客観的な観測装置と等値可能な存在者になるのだろうか。
 この<私>が線を引くという事態と<X>が線を引くという事態の間に何らかの一対一の対応規則を設定できるという先の想定もまた、あくまでもこの<私>により記述された想定であり、その意味で、あらかじめこの<私>の言語行為によって仮想された事態の言語によるその事態の事後的な記述である。この<私>により記述された想定の意味をこの<私>は理解できるように思える。だが、その想定の意味は、いったいどこで存在可能なのだろうか。この意味の存在可能性をこの<私>は把握することができるのだろうか? 現実には、この<私>により記述された先の想定の意味を把握する場はどこにも存在していない。つまり、先の想定に固有に対応した意味は存在していない。
 だが、この<私>は、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことをともに把握しているように思われる。つまり、この<私>にとって確かにそのように思われる。この<私>に思われることの確実性は消すことができない。であれば、<私>は、この<私>が線を引くことと<X>が線を引くことを何らかの方法で観測することが確かに可能であり、またその可能性によって、これら両者の間の一対一の(これら両者に共通の)対応規則/相互変換規則を設定することができるように思われる。
 つまり、<私>は、「この<私>も<X>も、一枚の紙に線を引いている。その線は、曲線を含む図形であったり、文字であったりもする。線を引きながら、しばし目を閉じて、しかし線を引く手を休めることなく、その線を思い浮かべる。そしてしばらくして眼を開き、線を引く。その後、手を休め、やや離れた部屋の中のテーブルまで視線を移す。また眼を閉じ、世界の果ての彼方の、無限遠点 (point at infinity) を思い浮かべる。目を閉じたまま、まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景を思い出す」と想定し、そう言うことができるように思われる。そして実際に、この<私>はそう言うことができる。だが、たとえそのように言ったとしても(それはつねに、そして実際に可能である)、この<私>がそのことの意味を把握することはない。
 ここでは、そこにおいてこの<私>と<X>が「その線」や「無限遠点」や「まだ幼かったあの遠い日の白い砂浜の情景」を思い浮かべたり思い出したりする「心」や「意識」といった概念は想定されていなかった。「心」や「意識」といった概念は、<私>と<X>の両者に共通の対応規則/相互変換規則という概念そのものである。それらは言語という概念そのものである。「心」や「意識」が、<まさにこの私の経験>として経験されることはない。

 上記の考察は、先に想定された<X>の把握の仕組みが存在すると想定した場合にも、同様の事態が不可避的に生じることを示唆している。すなわち、この<私>は<X>でもある。同様に、<X>は<私>でもある。この<私><X>《私》の関係性を探究することは、<私>は0と1の<狭間>で不断に振動しているという事態の解析作業になるだろう。

 以下に、これまでの議論に関連する記述として、2023年5月5日および同5月6日付けの永井 均氏によるツイートスレッドを以下に転載する。

以下転載開始
「ヨコ問題という話に繋げれば、全く同型のものが並んでいる中で、それに特有の(=それを他から識別しうる)内容は何も無いが、ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別されるものが一つある(が、それは一方向的存在なので*言語で語ることはできない)、というのがヨコ問題。」

「しかし、「ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別される」ことは《私》一般がもたざるをえない普遍的な特質であり、したがって「一方向的存在」であるという性質もそうである。その点からいえば、「言語で語ることはできない」のは誰もが平等にそう語ることができるから、なのだ。」

「誰もが平等にそう語ることができるというのが亀が必ず追いついてくるということで、それでも「ただそれだけが現にあるという驚くべき特徴」によって<現実に>識別されるものが一つあるというのがアキレスが逃げ去るということだ。ルイス・キャロルのパラドクスとの関係を再確認していただきたい。」

「ここで重要な点は、必ずアキレスが一歩先を行くのだがそこへと亀は必ず追いつくという(ゼノンのパラドクスとは逆の)関係に示される、必ずアキレスが先鞭をつけるのだがその先鞭こそが後から亀によって一般化されるという特殊な関係のもつ、先鞭そのものの一般化という特殊な構造である。」

「アキレスが一歩先を行くにもかかわらず、その点を含めてまったく同じことを亀は必ずするので、アキレスの突出は「語りえぬこと」になる(がそれでも当初の突出の事実自体が無化されるわけではない)という関係、といってもいい。」

「主体とか自己といった概念はもちろん、心や意識といった概念でさえ、この構造を内に含んでしか成り立ちえない。それらは、世界内にふつうに存在する(ものごとの理解の一般形式にそって理解できる)ようなことがらではないのだ。その意味では「この世のものではない」あり方をしているとさえいえる。」

「先につけられてある極めて特殊な(=一般性のない)先鞭が後から(極めて特殊なルートを通って)一般化されることだけが可能なのであって、最初からその一般性が存在するということはありえない、という特殊な一般性のあり方が存在するということ。そして、この世界こそがまさにそれなのだ、ということね。」
以上転載終了

  無内包的に、無からの創造として語りだされた唯一の言語によってしか、この無内包の<私>を現実に語りだすことはできない。それは、この無内包の<私>を現実に語りだすということがいかなる意味においても概念的に理解できないような、いわば無からの創造になる。デカルトが端緒の地平において『省察』を書き始めたそのとき、その言語はその唯一の言語だったのかもしれない。そんな「思い」をこの<私>は<今-ここ>での「思い」として記述している。それは<今-ここ>で現実にこの<私>の記述として、つまり明らかに可能な(であった)ものとして生まれた。
 その証拠に、この<私>は、あらかじめ(不可避的に)言語によって仮想されてしまう(しまっている)事態の言語によるその同じ事態の<今-ここ>での、しかし同時に、意味としては事後的な記述であるという動的循環構造を記述した永井氏による先に引用した記述「アキレスが一歩先を行くにもかかわらず、その点を含めてまったく同じことを亀は必ずするので、アキレスの突出は「語りえぬこと」になる(がそれでも当初の突出の事実自体が無化されるわけではない)という関係」を、<今-ここ>で読むことも書くこともまたその意味を理解することもできる(可能である)。
 だが、この無内包の<私>を現実に語りだす唯一の言語は、いかなる意味においても可能ではない。その唯一の言語は、まさに無内包の現実そのものであるからだ。[注7]

Ⅵ.問いと展望


現実性と言語性との同時性――そしてその<隙間/裂け目>の生成


 先に<私>は、先のこの<私>の想定も、今ここで現に<私>によって生み出されると同時に、既にこのように書き出された概念化の産物であることに注視しなければならない。真に究極の探究課題となるのは、この現実性と言語性との同時性であると書いた。以下は、この現実性と言語性との同時性の探究へと向けた端緒の作業になる。

 以下に、@halching1氏による永井 均氏への質問ツイ―ト(2023年1月14日)とそれに対する筆者によるツイートを転載する。

以下転載開始
拙い質問ですが、独矛超盾(転載者注 永井 均著『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか: 哲学探究3』2022年 春秋社)P235(転載者附記:該当する@halching1氏による引用箇所は正しくは 234頁)「新しいしかなさの内で以前の全てが生成する」とは、<今>は過去に超越論的に構成されると同時に、しかなさという時間の“外部”として無寄与的に存在するという理解で合ってますか? この構造は<私>(の無寄与性)にも妥当しますか?(@halching1氏による永井氏のツイートへの返信ツイ―ト 2023年1月14日)
以上転載終了

 次に、やや長くなるが、上記 「新しいしかなさの内で以前の全てが生成する」の前後の該当箇所を『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか: 哲学探究3』から下記に引用する。

「時間が経過するとは、年表のようなものの上を今が動いていくことだと考えることができる。それはつまり、「しかなさ」がそのように動いていくということである。この捉え方ははじめから年表のようなものがあると考える点で不自然だともいえるが、逆に、次々と出来事が起こっては去っていくことだと考えても、それもやはり今という場に次々と起こっては去っていくということだとしか理解できないのであるから、それはすなわち、「しかなさ」という場に起こっては去っていくことになる。どちらにしても、これらの捉え方においては、その動く「しかなさ」や場としての「しかなさ」の他に、その動くしかなさが現に今いる場所(すなわち現実にはそこにしかない場所)や、現に今何かが起こっている(すなわち現実にはそこにしか起こっていない)場としての「しかなさ」が存在することになり、しかなさは二重化されざるをえないことになる。すなわち、多くのことに適用できる(その意味ではもはや真にしかなくはない)概念としてのしかなさと、現実にそれしかないしかなさとに。現実のしかなさの他に概念としてのしかなさを想定しないと、時間というものが一律に経過していくという考え方自体が成り立たない。その際に重要なことは、年表の上を今が動くとは言っても、しかなさそのものが動くのであるから、ある意味ではやはり年表それ自体でさえもまたそのつど新たに生まれるのでなければならない、ということである(「そのつど新たに」という捉え方自体がすでにして妥協的ではあるとはいえ)。もちろんこれは事の一面であって、別のある意味ではしかし、しかなさの移動にもかかわらずどの諸々のしかなさにも共通の(つまり、個々のしかなさの外にある=じつはそのしかなさにしかなくはない)客観的な年表に類するものが想定されていなければそもそも移動ということに(すなわち時間の経過というに)意味を与えることはできない。それゆえ、しかなさは(しかないのだから)それが動くなどということはありえず、しかなさが動くとはすなわち、新しいしかなさの内で以前のすべてが(以前のすべてであるという意味をそこで新たに持たされて)生成することなのだ、ともいえることになる。この二義性、この矛盾は時間の経過の理解には不可欠である。」(前掲書 233頁-234頁 前掲書原文における傍点は上記引用においては太字強調)

 以上の引用文に対して、著者永井氏により以下の二つの注が付されている。

①「現実のしかなさの他に概念としてのしかなさを想定しないと、時間というものが一律に経過していくという考え方自体が成り立たない」の直後に、「この想定はまた、しかない<私>がそれなのに時間的に持続はできるという(ある意味ではまったく驚くべき)考え方が成り立つためにも、不可欠の前提である。」という注記

②上記引用文全体の直後に、「だから、もちろん、<私>の持続の理解にも。」という注記

 上記引用箇所において、@halching氏が「新しいしかなさの内で以前の全てが生成する」という形で引用していた箇所は、「新しいしかなさの内で以前のすべてが(以前のすべてであるという意味をそこで新たに持たされて)生成する」に相当する。(強調は筆者による)

筆者によるツイート

以下転載開始
① @halching1 @hitoshinagai1 常に同じ問題が何故かその次元が不明な場(それを言語としか言語的に規定できないのか?→全ての規定は言語的規定でしょうが)で反復されてしまいますが、この「同時に」の同時性の場をどう考えるのかが究極的に問われます。超越論的な場と時間の外部(性)場を架橋する場ですが。
以上転載終了(一部改変)

 上記「常に同じ問題が反復されてしまう場」は、「超越論的な場と時間の外部(性)場を架橋する場」と記述されている。ここでの「時間の外部(性)場」という表現は、@halching1氏による「しかなさという時間の“外部”」という表現に対応させたものである。永井氏の言う「しかなさ」という場は、「この二義性、この矛盾は時間の経過の理解には不可欠」と言われる場合のその矛盾という事態そのものが、「新しいしかなさの内で以前のすべてが(以前のすべてであるという意味をそこで新たに持たされて)生成する」場であり、言語性または意味の場の外部としての「時間の外部(性)場」をそのつど言語性または意味の場すなわち通常の「時間の経過(の意味理解)」の場の内へと取り込みつつも同時にそこから逃れ続けるという<隙間/裂け目>を孕んだ動的な循環構造 [注8] を表現している。先の「超越論的な場と時間の外部(性)場を架橋する場」という記述は、そうした動的循環構造の働きそれ自体の次元を表現していた。

 先に、動的循環構造は「あらかじめ(不可避的に)言語によって仮想されてしまっている事態の言語によるその同じ事態の<今-ここ>での、しかし同時に、意味としては事後的な記述であるという動的循環構造」と記述されていた。この記述における「同時に」という事態は、無限の現実性と言語性との循環構造の生成という事態が、ある固有な同時性の次元として生成するという事態であるだろう。それは、この<私>の<今-ここ>という固有な<次元/場>である。
 この<私>の<今-ここ>における<今-ここ>とは、空間と時間を必然的に結びつけることとしてのこの<私>の<線を引くこと>という無内包の<働き Aktus>が必然的に結合する無内包かつ不可分な<今>と<ここ>という事態である。記述記号ハイフン「-」は、この無内包の<働き Aktus>によって結合された<今>と<ここ>の不可分な無内包性を表現するものとして導入された。
 『序論』に続く『本論』において詳論するが、この<私>は、無内包の「この<私>の<今-ここ>」という<次元/場>に固有な形式で埋め込まれている。記述記号ハイフン「-」は、無内包の<働き Aktus>によって結合された<今>と<ここ>の不可分な無内包性つまり<今>と<ここ>とが無内包的かつ不可分に結合されているという事態を表現している。この<私>がこの<私>の<今-ここ>という<次元/場>に固有な形式で埋め込まれているとは、この<私>と<今-ここ>とが、この<私>の<今-ここ>という形式を持つ一つの<次元/場>を成している、という固有な事態を示している。ただし、今ここで私がこのように記述することにおいてすでに、「この」「の」といった記述が示す言語性の効果が、それ自身と無内包の<次元/場>との<隙間/裂け目>において働いている。

 序論を終えるにあたって、この<私>の<今-ここ>という固有な<次元=場>から開かれる探究の地平をその重要ないくつかの局面から提示しておこう。

 以下に、2022年4月16日 永井 均氏のツイートを転載する。

以下転載開始
もし<私>が持続的に存在してはおらず、いわば細切れであるとしたら、時間が経過するなんてことはなく、時間が経過しないのですから、<私>は細切れであるとさえもいえなくなりますね。しかし、我々はそういう状態を(思考はできますが)想像はできないので、この「妄想」から決して逃れられませんね。
以上転載終了

 上記ツイートにおける、「思考はできても想像できない」または「想像できないのに思考はできる」という謎めいた事態が最重要ポイントだと思われる。ここから、なぜ想像できないのに思考はできるのか、またその事態はそもそもどういう事態なのかという問いが、この<私>によって生まれる。この問いがこの<私>によって可能であることが、いっそうこの事態を謎めいたものにしている。すなわち、この問いは、無内包なこの<私>によってのみ現に生まれる問いである。

 次に、2023年5月14日 さのたけと@taketo1024氏のツイートを転載する。

以下転載開始
複素数全体は、次のような対応で平面の回転拡大変換の全体と同型になる訳ですが: x + iy ↔︎ [x, -y; y, x] 複素数は実在しないとする立場の人は後者の変換も実在しないとするのか、あるいは同型対応によって「実在性」は保たれないとするのか、どちらなのでしょうね。
以上転載終了

 一見当然と思われるが、複素数全体あるいは複素平面の構成自体が回転拡大変換という操作の全体と同期していることが一つの謎あるいは驚きではないだろうか。この操作は連続平面としての複素空間自体を構成する連続な曲線としての<線を引くこと>という<働き Aktus>と考えられるが、ではその操作はどこで行われているのか? その<次元/場>は、明らかにいかなる実在性の場でもない。この<私>は、<今-ここ>でのこの<私>の操作に一つの謎あるいは驚きを見る。

 「複素数も複素平面も実在する」とこの<私>はいえる。この<私>がそれら両者を同時に構成し実在させているからだ。哲学または形而上学の探究課題はその先にある。またはここからようやく始まる。
解析学と幾何学の分岐と統合がなぜ可能なのか。または可能だったのか。なぜ無限遠点∞の追加による複素平面のさらなる拡張や極限操作が可能なのか。これらは未踏の哲学的形而上学的探究課題であり、その探究は少なくとも通常の実在性の場では行われないだろう。[注9]

最後に、2023年5月14日 谷口一平A.k.a.hani-an@Taroupho氏のツイートを転載する。

以下転載開始
哲学における「実在性」は、同型対応によっては保存されない。想像上の百ターレルと現実の百ターレルの間には同型対応が存在するが、前者は実在せず後者は実在する。
以上転載終了

 上記谷口氏が述べているのは、カント『純粋理性批判』におけるアンセルムスを源流とする「神の存在論的証明批判」すなわち「存在はあきらかにいかなるレアール/事象内容的な述語でもない」(B626)(現存在はいかなるレアリテート/事象内容性でもない)である [注10] が、ここで問題になるのは、これら両者つまり想像上の百ターレルと現実の百ターレルの両者を同時に見渡せる場がもはや通常の実在性の場ではないということである。「同型対応の変換操作」がこの<私>によって行われるその場は、通常の実在性の場にはない。この<私>の<今-ここ>において、現実性と言語性との同時性と<隙間/裂け目>が生成する。

 時間とは、この現実性と言語性との同時性それ自体が無内包の<隙間/裂け目>を生成するという事態であるだろう。『瞬間における触発という固有な出来事は、それが何か他のものへと移行-変容する限りでのみまさにこの-Xの経験へと変換される』というアポリアは、この無内包の<隙間/裂け目>の生成という事態そのものである。この<私>の<今-ここ>が、無内包の<隙間/裂け目>を生成する無限の振動として生成する。この無内包の<隙間/裂け目>の生成があってこそ、<今-ここ>での無限の振動もまた生成される。

先に転載した永井 均氏の記述「ヨコ問題という話に繋げれば、全く同型のものが並んでいる中で、それに特有の(=それを他から識別しうる)内容は何も無いが、ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別されるものが一つある」における「全く同型のものが並んでいる」という事態の成立、「ただそれだけが現に在るという驚くべき特徴によって識別されるものが一つある」というそのただ一つの現実性の識別、すなわち「(識別されるもの)が一つある」という究極の事実が与えられてしまっているということは、この<私>の<今-ここ>における無内包の<隙間/裂け目>の生成という事態そのものである。

 
この<私>の<今-ここ>が、<私>は0と1の<狭間>で不断に振動しているという究極の事態へとこの<私>を誘っている。

【注】

※表記上の注記
本序論およびそれに続く本論の全論述において、山括弧「<…>」を使用する。なお、永井 均氏によるハイデガー&デリダの抹消記号の山括弧への転換-移行は、ハイデガー&デリダ(とりわけ非常に重要な『声と現象』)からの離脱過程の端緒を印づけていたと見ることができる。
②本序論およびそれに続く本論の全論述において、「A/B」という記述におけるスラッシュ記号「/」は、AとBという事態の記述が二者択一性やコントラスト性を含まない形で互換的であり、さらにAに加えてBをも含意することを示すものとして使用される。すなわち、「A/B」は相互排他的ではない形での「AまたはB」「AであるとともにB」を含意する。例えば、「次元/場」は「次元または場」「次元であり場であること」という事態の記述である。同様に「言語的/概念的」は「言語的または概念的」「言語的であり概念的であること」を示す記述である。
③『本論』でも触れるが、記述記号ハイフン「-」(hyphen)は、以後『序論』および『本論』において論じていく無内包の<働き Aktus>によって結合されたハイフン前後の無内包の事態の不可分性を表現するものとして導入される。つまりそれ自体無内包の事態<A>と<B>の場合<A-B>の表記になる。ここで無内包性とは、その無内包性自体については、否定性=ゼロを含む内包量が対応するいかなる実在性も記述できないという事態を言う。
[注1]『純粋理性批判』からの引用・参照頁数は、1781年の初版=A版の頁数と1787年の第二版=B版の頁数を、A…/B…の形で表記する。なお、本論述は、「規則と経験――《批判》の成立及び展開として規定された自己形成過程の考察」永澤 護(東京都立大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士論文1987年)における理論的フレームを基礎にしている。
[注2] ここには「位置」に代表される時空座標の物理量/確率変数とエネルギー・運動量の「確率分布」の不確定性関係が深く関わる論点がある。参考『量子力学の諸解釈 : パラドクスをいかにして解消するか』2022年 白井仁人著 森北出版 198頁-200頁「不確定性関係のアンサンブル解釈」「物理量のアンサンブル解釈」 
 なお、以下の永井 均氏のツイートを参照。
以下転載開始
「「PならばQであり、そして現実にPである」、であるならばorであるがゆえに、Qである」においては、「現実に」がヨコ問題を起こしている。アキレスは<現実>(山括弧の現実)に達しようし、カメはどこまでもそれを阻止している。そんなものはないのだ、と。カメが言語的世界観の表現である。(2023年5月3日)」
以上転載終了
 ゼノンのパラドックスとセットにした問題意識からは、上記パラドックスは「連続性と不連続性/離散性(あるいは有限性と無限性)のパラドックス」になり、数学基礎論の「連続体仮説」や力・エネルギーの確率分布と時空・確率変数の間の不確定性関係を巡る「観測問題」にも深く関わる。だが、これらは単なる物理数学問題ではなく、それを超えた<私>と現実性の問題である。
[注3] Kant's Briefwechsel, 1789-1794, Vol. 2 (Classic Reprint) , 2018,199頁
[注4] 無内包の<次元/場>としてのこの<私>とその言語化/概念化としての《私》の関係性――さらに持続的な「人格」としての「私/我々」との関係性――については、この序論に続く本論において、発見的探究の方法によって記述していく。
[注5] ここでの構想力の超越論的総合の働きに先立った、何らかの受動的主観は前提されていない、という点に注意しなければならない。
[注6] ここでの「直線」は非ユークリッド空間(リーマン空間、一般にリーマン多様体)における「測地線」を含む。測地線は、微分幾何学の枠組みにおける曲面(リーマン多様体)上の曲線であり、その局面上の十分近い2つの点が最短線で結ばれた曲線として一般化可能である。つまり、ユークリッド空間における直線の概念を、平坦ではない曲率を有する空間において一般化したものが測地線である。カントは、ヒルベルト空間の様なイデアルな/ユークリッド空間を理念的に普遍化した空間またはリーマン幾何学の枠組みでの重力場の物理空間の様な非ユークリッド空間の可能性を理解していた。したがって、ここでカントが述べている線を引く働きは、測地線を引く働きとしても普遍化可能なものである。普遍的な図式化機能としての線を引くことは、非線形の常微分方程式で表された系を対象とした所謂「非線形システム」を含む。非線形システムも状態方程式が無限回微分可能であること、すなわち解析学的連続性を既に前提している。また、線を引くことは、すべての図式化機能の産物、例えばフラクタル図形と呼ばれるものをも含む。つまり小数で表される次元をもち、面積が有限で無限の長さの曲線をもつ図形、さらには面積ゼロの図形などである。先に実数的連続性と述べたが、マンデルブロ集合やジュリア集合等のフラクタル図形に関しても、複素平面における無限反復系列の移行プロセスの連続性とその極限を前提していることには変わらない。その平面の場に留まる限り、特段の不思議さや解き難いアポリアは生じない。 前提されているのは移行/操作の無限反復つまり恒常的な連続性が可能であるということであり、その極限値がフラクタル図形である。つまりこの移行/操作が連続平面としての複素空間自体を構成する連続な曲線としての<線を引くこと>という<働き Aktus>なのである。ではその移行/操作はどこで行われているのか? 明らかにいかなる実在性の場でもない。哲学または形而上学の探究はここから始まる。<線を引くこと>は、旧来の用語である一切の「思考」をカバーするが、そのことは探究の端緒に過ぎない。なお、連続性と不連続性/離散性の関係性を巡るゼノンのパラドックスへの対処は、数学的には極限概念の導入しかないと考えられるが、それは「→∞」で表記される極限値への(方程式の左辺から右辺への移項と同様な)方向と運動という無内包の<働き Aktus>を再びパラドクシカルに前提する。つまり、ゼノンのパラドックスは、哲学的-形而上学的探究の端緒の地点を永遠に印づけているのである。なお、無限遠点と複素空間の構成というテーマに関して以下の動画が参考になる。
『マンデルブロ集合を越えて』(https://www.youtube.com/watch?v=QCR1gnub__E 3Blue1BrownJapan :日本版)
Beyond the Mandelbrot set, an intro to holomorphic dynamics (https://www.youtube.com/watch?v=LqbZpur38nw :オリジナル版)
[注7] デカルトが端緒に掴んだこの<私>の唯一の現実性を取り逃がし、常にすでに概念化された(永井 均氏の言う「累進構造」へと巻き込まれた)中心性と取り違えたとすれば、その理由は、彼が創始したデカルト座標とそこから開始された(『哲学原理 Principia philosophiae』で述べられた様な)壮大なプロジェクトで頭が一杯になっていったからだろう。実際、人類の歴史は全く彼の予測通りに進んだ。
[注8] この同時性(の場)は超越論的な場と独在性の場を架橋していると同時に失敗している。これまで論じてきた動的循環構造の次元を意味の構造と等置した嘗ての「構造主義」は、まさに主義だったといえるだろう。レヴィ=ストロースとともに構造主義の祖とされたラカンは、「無意識は言語のように構造化されている」と語ったが、ごまかしのように見える「のように」の曖昧さは構造すなわち言語的意味的構造と勘違いしたその後の有象無象の「構造主義者」たちより遥かに慧眼だったことを示している。無論上記構造主義者は、「ポスト構造主義者」たちを含めている。つまりラカンはこの「すなわち」が決して成就しないこと、この「のように~されている」次元の極め難さの洞察を死ぬまで堅持していた。もっともラカン自身にも、実のところは何がそこで起きているのか皆目わからなかっただろうから、そのように錯誤的に受け取られるほかない言葉で語ったのも仕方がないかもしれない。つまり実践の場を離れた場合、彼自身が半ば以上構造すなわち言語的/意味的構造という錯誤に陥っていた。「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」の「として構造化」という動的な事態そのものは決して言語的意味的構造ではない。
[注9] リーマン球面(Riemann sphere)は、無限遠点∞を追加することにより複素平面を拡張したものである。リーマン空間上の曲線運動は、同時にリーマン空間自体の構成操作になる。
[注10] 『純粋理性批判における神の現存在の存在論的証明批判を「汎通的に規定された最もレアールな存在者」としての「必然的存在者の現存在」証明批判として詳細かつ深く考察した以下の論文がある。
久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」(東京大学教養学部紀要『比較文化f研究』第八輯 1968年)『カント研究』創文社 1987年所収
 なお、デカルトは『神の存在と魂の不滅を論証する第一哲学についての省察』(Meditationes de prima philosophia 1641) の『第三省察』において、単に「私の内」にある「神の観念」の「客観的な実在性が無限であると私が明晰かつ判明に知覚するということ」によって為される神の存在証明を行っている。以下その要点を述べる。なお、以下の記述は、私の東京都立大学(当時)大学院在学時(1986年頃)に書かれ、当時の担当教官であった実川敏夫氏にデカルト『省察』原書購読ゼミ課題論文として提出されたものの結論部分である。一部加筆改訂を施したが、ほぼ当時の記述のままである。
以下転載開始
 「私の内」とは、それが「現在」という経験の場である限りにおいて、その経験(明晰判明な知覚)が無際限に反復され得る領域である。例えば、私がその確実性をその都度確信しつつ数を数えていくことが出来るのはこの領域においてである。だが、この現在の内に留まる限り、私はこの計算を導く何らかの演算規則が常に不変であることを真に確信することが出来ない。「私の内」に存在し得ないのはこの常に不変であることあるいは永遠である。だが、この常に不変であることあるいは永遠は、「私の外に在る」と言えるだろうか? 注目すべきことに、この点について、『省察』「第2答弁」において、デカルトは次のように述べている。
「そこで私は、私が何らかの任意の仕方でもって思考ないしは知性によって、私を超えている或る完全性に触れるという、単にそれだけのことから、すなわち、数を数えていくということを通じてすべての数の内最大の数に辿り着くことは私にはできないと認知し、かくてそのことから、数を数えるという視点において私の力を超え出る何ものかがあると気づくという、単にそれだけのことから、次のことが必然的に結論されると主張します。すなわちそれは、無限の数が存在するということではまったくなく、また無限の数が、(……)矛盾を含むということでもなくて、私が、私によっていつか思考されるであろういかなる数よりも一層大きな数が思考可能であると把握するそうした力を、私自身からではなくて、私よりも一層完全な《何か或るもの》から受け取ったということなのである、と」(Ch.Adam et P.Tannery. Tome VII. Vrin.1973. p139 AT版デカルト全集 1973年 139頁)
すなわち、デカルトによる神の存在論的証明とは、すでに概念化=言語化された《私》でも人格的な「私」でもなく、<今-ここ>で省察を遂行し省察とともに生成する<まさにこの私>が、ある絶対的な差異の知覚を、そしてそうした知覚を成し得る力を、「或る他のもの」から受け取った(与えられた)という絶対的な不可疑の経験の証言なのである。そこには、私に決定的に先立つ差異の受容あるいは触発があった。もし、この<私>が、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異を規定しようとするならば、この受容或いは触発の形を確定する必要があるだろう。それこそが、カントが『純粋理性批判』において遂行しようとしたことである。だが、この差異の常に確実な、あるいは不変の規定は、少なくとも「私の内」においては不可能であるだろう。そして「私の外」においても。この絶対的な差異は、或る他のものとの出逢いがそこで誕生する、「私の内」でも「私の外」でもない或る時空の彼方の場所で与えられる――すなわち、触れられる――のではないか。言い換えれば、それは、或る<他者>の誕生と共に、その都度やって来る一つの試練あるいは訓練として与えられる。それが一体「いつ」なのか、そして「どこ」なのか、私はそのことを知ることが決して出来ないのだとしても。
以上転載終了

【参考文献】

「規則と経験――《批判》の成立及び展開として規定された自己形成過程の考察」永澤 護(東京都立大学学位論文 1987年)
Kant.I Kritik der reinen Vernunft, Meiner, Hbg.
Kant's Briefwechsel, 1789-1794, Vol. 2 (Classic Reprint) , 2018
久保元彦『カント研究』創文社 1987年

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