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『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』

 『<私> は0と1の<狭間>で不断に振動している』 の序論の位置づけを持つ本論考は、『純粋理性批判』を核とするカントの思索の場でXというもの――例えば痛みというもの――という形式をとる経験を考察することをその標的としている。ここでXというものとは、我々によってXと呼ばれるもの――例えば我々によって痛みと呼ばれるもの――の簡潔な表現である。本論考では、我々によってXと呼ばれるものという形式をとる経験を、まさにこの私の経験について何が語れるのかという問題設定において考えてみたい。ここでは、まさにこの私の経験について我々が語ることのうちに潜む内包量のアポリア(解き難い困難さをはらんだ問題)を出発点とする。それは、我々が何かを語るということそのもののうちに潜む、まさにこの私の経験と言語と呼ばれる未知の領域との関係性のうちに潜むアポリアである。

 本序論を探究の端緒として、<私>は0と1の<狭間>で不断に振動しているという究極の事態への扉が開かれることになるだろう。

Prelude


 以下の『序論』とそれに引き続く『本論』は、以下の永井 均氏の2023年8月21日付けのツイートスレッドに密接に関連するものとなる。該当ツイートスレッドを以下に転載する。

以下転載開始
否定が肯定に転じたのではなく、否定のままで表記法が変わったのです。<私>は実在しないという議論がしたかったわけですから。経路は思いのほか複雑になりましたが、最新の『哲学探究』シリーズで最終的に最も明白にそこに行きついていると思います。(小泉義之氏の8月18日付けのツイート「昔、永井均さんから、当初は、私、と書くのに、×を打つつもりだったが、当時の印刷の制限でそれができず、代わりに山括弧<>を付して<私>と表記することになったと聞いたことがある。つまり、否定神学が肯定神学に転じたわけだと思ったものだ。しかしその類いの否定/肯定の対立設定には問題がある。」に対する返信ツイート)

また「その類いの否定/肯定の対立設定」というのもまずい展開です。どの類いなのか分らないので。私の議論には矛盾の内在をめぐるものですから当然「否定/肯定の対立設定」がありますが<私>と同型のそれはマクタガートの<今>(すなわちA系列)にしかないというのが私の主張です。つまり類いがない!

訂正:私の議論には⇒私の議論は。ついでに解説。ある意味では<私>の問題以上に、端的な<今>というものが実在しないという問題は興味深いのに、<今>は動くので、どうしてもそっちの話と混同されてしまうのね。動くから特定の時点にはない、と。その点、<今日>で考えたほうが混同が避けられる。

<今日>で考えれば、いつであれその日にとっては「今日」だが、それとは別に端的な<今日>があるな、と納得した後で、しかし、いつであれの日においてはそのように納得するしかないのだから、この端的な<今日>なんて実在しないんだ、とまた納得できる。この「風間的矛盾」は時間の流れとは無関係!

訂正:いつであれの日においては ⇒ いつであれその日においては。 ついでにひとこと。「風間的矛盾」が時間の流れと無関係であるのは、まったく同じ矛盾が<私>においても必ず現われるからだ。誰であれその人にとってはその人が<私>だが…で始まるあの話。ちなみに「風間的矛盾」はここが初出!

 以下の議論は、一見したところ上記の「<今>は動くので、どうしてもそっちの話と混同されてしまうのね。動くから特定の時点にはない」という我々の日々の生活における実在的な時間の流れの議論と同型の議論だと思われるかもしれない。言い換えれば、以下の議論は、時間の流れの連続性と不連続性(あるいは有限性と無限性)を巡るパラドックスから出発し、かつそれに還元されるように見える。だが、以下の記述の展開につれて、その予感は掘り崩され、実在的な時間の流れの実在性それ自身が、ある無内包の次元――『本論』を先取りすれば<私-今>(上記永井氏の記述に従えば<私-今日>でもある)、そしてさらにはこの<私>の<今-ここ>――へと向けて問い直されることになる。

Ⅰ.内包量を巡るアポリア

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