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九州南北朝の史跡巡りシリーズ🍊八代編② 【悟真寺と懐良親王御陵】

こんにちは。今回は八代市散策レポートの2回目です。八代は南北朝時代、薩摩を経て肥後入りした征西将軍宮・懐良親王が菊池に入る以前に10日間ほど滞在し、菊池陥落後は後西征将軍宮・良成親王と菊池武朝が名和氏を頼って西征府を移した九州南朝ゆかりの都市です。今回ご紹介する史跡は、八代市妙見町にある懐良親王御陵及び、菩提寺・悟真寺になります。(投稿当初より冗長部分をカット編集し、文字数減らしました🙇‍♀️)

※懐良親王のお墓は九州各地に伝説がありましたが、明治11年(1878)宮内省の調査で八代市の墓地が親王の御陵に指定されました。

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南北朝時代の八代荘は南朝方の名和氏の所領。後醍醐天皇の臣・名和長年の長男義高に八代荘の地頭職が与えられ、長年の孫顕興(あきおき)の代で一族郎党を率いて八代に下向した。

前後征西将軍宮・懐良親王と良成親王及び菊池武朝については、菊池散策記事【予告編】の人物紹介にて詳述しておりますので是非ご一読下さい↓

散策スポット紹介

本記事中の散策スポットをオレンジ丸で表しています。オレンジ線は車でのルート。散策マップは八代市のパンフレット画像を拝借。

今回は悟真寺と懐良親王御陵周辺の散策レポートになりますが、車で国道3号から妙見町に入ったところからもう雰囲気が素敵✨だったので、目的地までの車上からの写真も掲載しますね。(実際は危ないので車停めて写真とりましたが。)それでは早速、行ってみましょう🚗

国道3号から妙見町の方に左折して数百メートルほど進むと右手に広い駐車場のセブンがあるのですが、川を隔ててその先に八代妙見祭で有名な妙見宮(八代神社)があります。セブンの駐車場から妙見宮の方を撮った写真です↓

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分かりにくいが、木々の手前に川があって、擬宝珠の付いた橋の上を道路が通る。川向こう写真左手が妙見宮の敷地

ここからが実質妙見町(旧宮地村)の入り口という感じですが、私は何だかこの小さな川が結界となっているように感じて、その先に厳かな雰囲気を感じ、身が引き締まる思いがしました。妙見宮は次回の記事でご紹介する予定ですので、今回は横を通り過ぎて、目的地・懐良親王御陵と悟真寺に向かいます。

道なりに暫く進むと水無川に突き当たる。ここ砥崎の河原では八代妙見祭の際、亀蛇(玄武)が壮大に暴れ回る出し物があり、川の両岸は沢山の見物客で埋め尽くされる。
川沿いの道にある懐良親王御墓の石の道標。ここから水無川を上流に向かって進み、橋を渡って山麓の悟真寺と御陵に向かいます。(左の御小袖塚は次回の記事で紹介予定)
橋を渡って悟真寺と御陵墓のある集落に入る。右手の石柱がある所が悟真寺入り口。その先の車が停まっている辺りが懐良親王御陵の入り口付近。

とっても素敵な雰囲気の集落✨どこに駐車すればいいのかな〜と先に進むと、御陵入り口を過ぎた辺りに広い駐車場がありましたので車停めます🅿️

ほたるの里公園駐車場

この日は朝から曇り空で、今日の史跡は宮さまの御陵墓なのに、どんより暗い写真になったら嫌だな〜(←懐良親王ファン)と思いながら来たのですが、駐車場に着いた頃から光が差してきて、晴れてきましたよ☀️相性のよい?史跡では必ずと言っていいほど駐車場着いたくらいから徐々に天気が回復して、晴れ間が出てくるので不思議です😳

散策したのは6月でしたが、周辺はホタルの里公園として整備されていて、たくさんの家族連れや子供たちで賑わっていました✨ホタルの里ギャラリーでしばし涼を感じてください🎐↓

悟真寺と懐良親王御陵は隣接しており、駐車場から元きた道を少し戻った所に、懐良親王御陵入り口があります↓

が、楽しみは後にとっておきたいタイプなので、先に悟真寺に参拝してから、お寺側から御陵に降りて行きたいと思います!(御陵にお参りするまで晴れ間が保ってくれるか若干心配ではありましたが。)御陵入り口の少し先に、悟真寺入り口はあります。

悟真寺

石の門柱がカッコいい。
宮さまファンとしては、散策中「懐良親王」の刻字を見つけるとときめく。

門柱の先にある案内板を引用させていただき、悟真寺の説明とさせて頂きます↓

  中宮山悟真寺(ちゅうぐうざんごしんじ)
中宮山悟真寺は南北朝時代に征西将軍懐良親王の菩提を弔うために創建されたと伝えられます。大原孚芳和尚を開山とする曹洞宗寺院で、寺名は親王の法名「悟真大禅定門」に由来します。しかし、創建の年代については、元中7年(1390)の他に諸説があり、定かではありません。
 中世の悟真寺は、菊池氏や相良氏の庇護を受け、80あまりの末寺を持つほどの勢力を誇りました。中世末から近世初頭にかけての時代の転機には庇護者もなく衰退しますが、熊本藩主加藤氏により再興され、つづく細川氏からも寺領の寄進を受けました。
 本堂の本尊として釈迦如来を祀る一方、境内の御霊殿には懐良親王の霊が祀られ、懐良親王御自筆銘の御両親御霊牌(市指定文化財)や没後350年にあわせて製作された懐良親王画像(元文2年・1737、矢野雪叟画)などが安置されています。
 その他、応永30年(1423)銘の悟真寺の雲版(件指定文化財)、木造地蔵菩薩坐像(南北朝時代)、銅造誕生仏(朝鮮・高麗時代)、木造大原孚芳像(江戸時代)など、中世以来の貴重な文化財が伝えられています。

少し補足いたしますと、元々この場所には、妙見中宮の神宮寺・護神寺が建っていました。(神宮寺とは神仏習合の現れとして、神社に付属して置かれた寺院の名称。妙見中宮跡はここから200mほど先にあります。先程横を通って来た妙見宮は妙見下宮にあたります。)菊池西征府陥落後、名和氏を頼って八代に西征府を移した菊池武朝が、元中7年(1390)後征西大将軍宮・良成親王の命を受け、懐良親王の御陵墓と菩提寺・悟真寺を護神寺に創建したと伝えられています。(懐良親王の没年は1383年、享年55歳(推定))

懐良親王は、良成親王に征西将軍職を譲ってからは、九州下向からの従者・五條氏の所領である筑後矢部(現福岡県八女市)に隠棲し、当地で没したと言われています。なので、私は最初なぜ懐良親王の御陵が八代にあるのか疑問だったのですが、散策を進めるうち、八代は南朝方名和氏の拠点であり、南北朝時代を通じて宮方の重要拠点だったこと、そして八代には懐良親王が御両親の供養のために建てたお寺跡や五輪塔や宝篋印塔(後述)、霊牌などが残っており、懐良親王と縁が深かったことが分かり、さもありなんと思いました。また、菊池西征府陥落後、1390年に八代に西征府を移して落ち着いた良成親王が、追慕の念をもって八代に叔父である懐良懐王のお墓を建てたいと思うのはあり得る事だと思いました。

ここで良成親王について補足します。後村上天皇の皇子である良成親王は、太宰府西征府全盛期に懐良親王の協力者・後継者として若干数歳で九州に派遣されたと考えられています。(南朝の後村上天皇は懐良親王の兄に当たります。)九州下向後の良成親王は、懐良親王の指揮下にあり近しい関係にあったことが伺えるそうです。ここからは私の推測です。良成親王が九州に派遣された頃は全国的には南朝は衰退傾向にある中で、懐良親王率いる九州だけが隆盛を誇っていました。良成親王は1392年の南北朝合一後も南朝再興を諦めなかった血気旺盛で意志の強い若宮なので、九州下向時も幼いながら、叔父さんカッコいい!と喜び勇んでやって来たんじゃないでしょうか。父である後村上天皇は良成親王が九州に派遣されて数年後に亡くなっていますし、身寄りのない九州の地で父とも兄とも慕ったであろう懐良親王が亡くなって悲しみは深かったものと思われます。

※ここで疑問に思った方がいるかもしれないので補足しますと、懐良親王の妃や皇子については明確な史料がなくわかっていないそうです。宮さまファンとしては、それもミステリアスでよき。

さて、補足説明と妄想が長くなってしまいましたが、散策を進めましょう🏃‍♀️

坂道を登って山の中腹にある悟真寺に向かいます。
悟真寺山門

因みにここ悟真寺は、1587年(天正15)九州攻めのため八代に滞在した豊臣秀吉が宿陣した寺でもあり、秀吉は献上された特産品の高田みかんを食したそうです。美味しいみかんを食べて上機嫌な秀吉さんの顔が目に浮かぶようです😄🍊

銀杏の大木がそそり立つ参道を通り
境内に到着
境内に建つ懐良親王六百回遠忌の記念碑
八代市の史跡によくある「八代たてもの」解説板
明治20年に改築されたという本堂
明治神宮設計者・伊東忠太設計の御霊殿。大正10年建設

この御霊殿の中に、懐良親王御自筆の御両親の霊牌(後醍醐天皇と霊照院禅定尼)が安置されているということで、見てみたかったですが、当然一般公開されていませんでした。因みに霊牌は元からこの寺にあった訳ではなく、八代の寺を転々としていたものを、こちらに安置したようです。

御霊殿の屋根には菊の御紋

さて、そろそろ懐良親王御陵に向かいましょう!山門方向から見て左手の梵鐘(写真ないけど)の横から、懐良親王御陵方面に降っていきます。

「勅使坂」なる坂を降って御陵に向かいます。
写真左手にお寺のワンワン写ってます😆
家の横を通って
結構鬱蒼としてます。。
御陵の玉垣が見えてきました!光が溢れて神々しい✨
御陵墓にお参りする前に、降ってきた勅使坂を振り返る
坂の麓に佇む「勅使坂」の古い石碑

この勅使坂、由来が凄く気になったので、庭木の手入れをされていたお寺の関係者の方にお尋ねしたのですが、勅使が行き来した坂という程度しかわからないとの事でした。後日ネットで調べたら、由緒ある寺院などには勅使門なるものがあって、天皇の勅使が参向する際に通る門とのこと。懐良親王の法要の時とかに天皇の勅使が通っていた(いる?)坂なんでしょうか?としたら、今更ながら私通って来てよかったのかな😨でも看板に矢印書いてあったから一般人も通っていいはず!(多分)もし今後、「勅使坂」の由来が分かったら共有します!

勅使坂横の護神寺廃寺跡の木標。この場所、キラキラしてて、いいオーラを感じます✨

それではいよいよ、懐良親王の御陵墓にお参りします!

懐良親王御陵

正面手前から
鍵がかかっている外側の玉垣から内側を撮影。写真では分かりにくいですが、鳥居奥の小円墳が宮さまのお墓です。

宮さま、こんにちは。ここは清らかで美しい場所ですね✨自然豊かで閑静な所ですが、初夏にはホタルが舞って、夏には子供たちが川に遊びに来て賑やかで、少しも寂しくありませんね。天気も回復して、素敵な時間を過ごせました。ありがとうございました🙏

ここで是非とも見たい&ご紹介したいものがあります。それは前述した、懐良親王が生母の供養のために作成した宝篋印塔です。宝篋印塔は円墳域内にあるということですが、正面からは見つけられなかったので、側面に回って探します。

ありました!鳥居の前に黒いシルエット、懐良親王が母君の供養の為に作った宝篋印塔です。この宝篋印塔は、大正5年(1916)、この場所から200mほど水無川を上った場所にある妙見中宮跡で、泉水を掘っている時に偶然発見されたそうです。八代の墓所が宮内庁指定陵墓となった34年後のことです。この偶然の発見で、八代市民は再び宮さまフィーバーに沸いたことでしょうね❣️その後、宝篋印塔は宮内庁によって修理が施され、玉垣の中の円墳前に設置されたそうです。私は、宮さまの思いのこもったこの宝篋印塔を、なるべく宮さまのお墓の近くに設置しようとした宮内庁職員?の方の優しさにも感動しましたよ✨

この塔には、正面に「天授第七辛酉の歳 霊照院禅定尼のために 生死を出離し仏果円満なり乃至法界有情平等利益を蒙る」の銘文が刻まれ、背面には「願主 天心叟(懐良親王の別名)彫巧 禅秀比丘」とあり、ともに親王御自筆のものとされています。「天授第七辛酉の歳」は弘和元年(1381)に当たり、懐良親王の生母・霊照院禅定尼(二条藤子)の没後30年の遠忌に際して奉納供養されたものと考えられています。

宝篋印塔が作られた1381年は、宮さま53歳。亡くなる2年前のことです。この頃は、良成親王と菊池武朝率いる菊池西征府が今川了俊によってまさに陥落する直前に当たっています。懐良親王は1974年に征西将軍職を引退してからは、第一線を退き筑後矢部にて隠遁生活を送っておられたようです。とはいえ、西征府の戦況不利の情報は刻々と伝わってきていたでしょうし、この頃、『菊池武朝申状』のきっかけとなった南朝内部の不和が表に出てきてゴタゴタしていた時期でもあり、宮さまもお心を痛めていらっしゃった事と思います。(『菊池武朝申状』については冒頭リンクの菊池散策予告編を参照下さい。)せめてこの美しい場所に建つ護神寺に参籠されて宝篋印塔を作られた際には、母君を供養されつつご自身の人生を振り返り、心穏やかに過ごされた事を願って止みません。

後から気付いたが、車を停めた駐車場は懐良親王陵墓の丁度裏手に当たっていた。後ろ髪を引かれつつ帰路に着く。

あとがき

今回は宮さま(懐良親王)回ということで、既に結構な文字数になっていますが、折角の機会なのでもう少し宮さまを偲びたいと思います。

懐良親王に関しては、九州各地の神社仏閣に参詣・参籠されたり、写経や願文を奉納されたりした記録が残っており、懐良親王は信仰心が篤い方だったことが伺えます。また、親王が亡きご両親を供養する為に奉納した写経や宝篋印塔・霊牌などからは、10歳未満で九州に下向し、再び会うことは叶わなかった父母(後醍醐天皇と霊照院禅尼)への強い追慕の念が感じられます。以下、藤田明『征西将軍宮』口絵に掲載された懐良親王自筆の、御両親の供養のために書かれた写経画像を引用します。
※これらは国立国会図書館デジタルコレクション上でインターネット公開されており、画像転載可であること確認し、掲載させて頂いています。

1369年8月16日の後醍醐天皇31回忌にあたり、懐良親王が「法華経第八巻」を写し自筆奥義を書き添えたもの
1378年3月29日、亡母の28回忌にあたり、懐良親王自ら梵網経を写経したもの(肥前国東妙寺梵網経奥書)

繊細で美しい字ですよね〜✨森茂暁著『懐良親王』では、建徳12年(1371)太宰府にあった西征府がいまだ隆盛の真っ只中にあったとき、懐良親王が出家願望を思わせるような和歌を詠んでいることから、懐良親王は「性格的にどちらかというと、内省的で文人肌であった」(p.294)と推察されています。(この和歌についてはまたの機会に述べたい)筆跡からも、宮さまの思慮深い御性格がうかがえる気がしました🖌

懐良親王は九州下向以来、父後醍醐天皇の願いを果たすべく自ら兵を率いて戦い、深手を負われたこともありました。一方で、信仰心が篤く親孝行、思慮深いご性格だった宮さま。私は、九州西征府が一時隆盛を誇ることができたのは、懐良親王を支えた五條氏や菊池氏か有能だったことも勿論ですが、宮さまの智勇兼備でありつつ、真摯でひたむきな姿に家臣団はみんな魅了されて、一致団結できたからじゃないかなぁ、なんて妄想します💖
冒頭でも述べた通り、懐良親王のお墓と言われる場所は九州各地にあります。このことからも懐良親王がみんなに慕われていた事が分かると思います。何処が本物かとかは問題じゃなく、地元の方が大切に守り継いでおられる場所は全て本物という気持ちで、今後、別の場所にあるお墓もお参りしたいと思います!

次回は冒頭に少し触れた妙見宮と、懐良親王が御両親追福のために建てたと伝わる小袖塚と菩提寺・顕孝寺跡をご紹介予定です。次回も宜しくお願いします⭐️

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【引用文献】
・八代市『八代城ものがたり』パンフレット p.5
・藤田明『征西将軍宮』熊本県教育会1915年口絵
・森茂暁『懐良親王』ミネルヴァ書房2019年p.294

【参考文献】
・八代市『八代城ものがたり』パンフレット
・森茂暁『懐良親王』ミネルヴァ書房2019年
・藤田明『征西将軍宮』熊本県教育会1915年
・八代市ホームページ
・菊池市ホームページ
・Wikipedia

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