#40 大学退学という挫折と芸人として生きていく理由(赤裸々に話すノンフィクション)
大学退学になる経緯
高校の時から看護師になるか芸人になるかの分岐点で迷っていたが、結局勇気出ずに看護師の道に選ぶことにしていた。
永年看護師として一生を終えてお笑いマニアの域でとどまろうとしていたのだが、大学行き始めた位の時にちょうどコロナウイルスが日本にも蔓延し始めた時に大学入学が重なってしまった為、1年前期ないしはほとんどの期間交流出来ずに退学する事になった。
元々自分が通っていた看護師になる為の大学の学科に入学した学生は一般入試組は少なく、推薦組やAO入試で合格した者がほとんどであり、さらに9割は女子であった為、自分が入学する前に先に合格した者がコロナウイルスが日本に蔓延する前に交流する機会があったらしく、自分がはじめて同じ学部の人と交流するとなった時には完全に軋轢を感じていた。
本来であれば、入学してすぐの4月に本来ならあるはずの1年全体での交流会もなくなってしまった為、完全に出遅れている事も把握していたし、ここで思い出を残すのは半ば諦めようとその時から思っていた。
その時から頭の奥底には灯火のような感じで看護師から芸人にはなるのもアリかな?と薄らと下書き程度の思いはあった。
その矢先、このような事態というかハプニングというか辞めたくなる出来事が起きた。
序盤で話した通り、同じ学部内で軋轢を感じていたと同時に1年後期の初っ端から”血圧測定”の技能テストをする事を通達された。
血圧測定の技術テストをするにあたり、最低でも実施する看護師側と患者側が必要な訳であるが、もちろん他の子と交流が一切無く、コンタクトを取る機会、大学も閉校されていた為、技術練習出来る場所と言えば友達の家で友達同士相互で教え合いながら技能テストに備える他なかった。
しかし、自分にはそのような存在がいなかった為、ひたすら教科書をみて見よう見まねで腕を模倣した形の枕等でオリジナルの方法でやってみた。
蓋を開けてみるとそのような方法では実際どのくらい相手が血圧測定するにあたって腕への圧迫感を感じていないかを図ることが出来ない為、結論を言うと技能テストは惨敗に終わった。
技能テストを終えて休憩スペースで話していた話で同学年の他の男子看護学生「完璧だったわ。テスト時間15分以内ってあったけど、みんなで練習した甲斐あって5分くらいでスムーズに出来たわ」と当時こっそり聞いていたら、総スカンを食らった感覚になった。あまりに自分の評価が劣悪だったのかそこから看護教師の態度も自分に対して当たりが強くなり、他の学生の質問に対しては丁寧に受け答えしているのに対して、自分が質問した場合は「自分で考えてやってみな」というようないかにもあなたは看護師として必要な存在では無いかのようにいかにもぞんざいな態度で接された時に看護師としての素養だけではなく、人間としての存在意義をこの世から抹殺しようとするかのような感覚になってしまう。
それがその瞬間だけではなく、大学にいた時ずっとそのような態度で接されたものだから、この時にはじめて大学に行きたくないという”躁鬱状態”になり、ましてや一人暮らしで誰にも相談出来ない、相談したら自分の負けと思っており、noteの最序盤に記した通り「自殺したらどんなに楽になるのだろうか」と考えていた。
後々わかった事だが、そのような教師の執拗な言葉による暴力行為はアカデミック・ハラスメント(アカハラ)に該当する事を知る。
言える関係性というか評価に関与しないノリが分かる人間と環境であれば、お笑いで言う所のプロレスが出来るのだが、勿論だけど全然面白くないし、生徒に対して要らない緊張感を与えてピリピリしてる教師としての素質が全く無い集団で今思えば、学費だけぶんどって出来ない、素質のない人は口で物を言わせて早いうちに排除しようという方針だったと思う。
それでも看護教師の中に唯一味方になってくれる存在がおり、その人(看護教師A)も自分がアカデミック・ハラスメント(アカハラ)に陥っていた事も把握していたし、その看護教師Aも自分と同じ虐められていた看護教授ら(4人)から理不尽な圧力をかけられていたと打ち明けてくれて、いつか結託してその看護教授らを奈落の底に落としてやろうという事になる。
当時は本当に精神的に堕ちていたが、その人が相談してくれていた事が唯一の救いというか、その人が相談に乗ってくれていなかったら、この世にいなかったと思う。
しかし、その教師Aは立場的に上の看護教授らの看護の教え方と違ったらしく、そのやり方が本大学のカリキュラムにそぐわなかったらしく、いつの間にか自分が通っていた看護大学の教授から解雇されてしまい、頼りにしていた看護教師がいなくなった状態で看護学生2年目を迎える事になる。
1回生を終え、なんとかコロナウイルスの影響もあるから進級をさせると言われ、2回生になるも、補習授業という形が自分を含め何名かが該当していた。
相談していた看護教師がいない中でも進行するアカデミック・ハラスメントは補習授業中も絶えず行われている。当時をこのnoteに振り返ってみると、”本当にしんどかった”という言葉に尽きる。
なんだかんだで2年の夏頃にようやくと補習授業も終え、精神的には腑に落ちない部分はありながらも進級への罪悪感は無くなり、スッキリした気分になっていた。
2年の冬になると、病院での看護実習があったが、そこでも自分と他の看護学生との態度の変貌ぶりは変わらない。そこで看護教師から圧力をかけられる恐怖もあり、なかなか看護実習で必要な提出物も上手く書き留める事が出来ずにいた。
実習を終えて、病院実習の振り返りに関する面接を行った際に看護教師から言われた衝撃的な一言を今でも忘れない。
「あなたは看護師向いてないから、この大学を辞めた方が良いよ。もっとあなたに向いてる長所を生かしてみたら?」と。
口には出さなかったが、「(心の中で)それでも看護教師が発する言葉か?出来ないことを丁寧に出来るまで教えてくれる存在が看護教師の1番の役割であって、今まで自分を蔑ろにしてきたくせによくもそんな事言えるな。」と思っていた。
この言葉を面接で聞いた時、今回の看護実習は落ちて留年が確定した瞬間だなと密かに思っていた。
もちろん、自分が出来損ないなのかもしれないが、自分に対して最初から最後まで真摯に向き合ってくれない看護教師ないしは今後仮にも看護師免許を取得して看護師になったとしても、このような劣悪な環境下で仕事をするのは自分には向いてないと思い、留年が確定し、親が立ち会いでの面接をする事になった時に退学する事を固く決意した。芸人として生きていく理由
その中で看護師になる夢を捨て、なぜ芸人になろうと思ったのか?という事になるだろう。理由は2つある。
まず1つ目の理由としては、母親を交えて行われた留年するか退学するかの大学教師との面談を終えた後、母親から「(先生の言い回しとか聞いてる限り自分を大学教師側が辞めさそうとする気が見え見えだし、そもそもこの大学にいると自分がダメになるから辞めた方がいいよ」と辞めるのを促してくれた事があり、退学を決意した。そこで違う所にもう一度看護師として志す為に「大学はこれ以上行かせられないけど、専門学校位ならお金出してあげるよ」と言われた。3月の初頭に大学に大学の申し出をしてから、約半年間はその事だけを四六時中考えながら生活していた。
母親が気にしていたのか専門学校のパンフレットを埼玉に住んでいるマンション宛にわざわざ郵送してくれたり、たまには手紙をくれたり。それが逆に自分を締め付けていた事も正直打ち明けると当てはまっていた。
その時はまだ芸人になると思っていなかったが、大学を辞めて唯一自分の場を設けていたのがちょうど辞める前に新規オープンを向けてバイト募集していたイオンモールのオープンスタッフのバイトであった。面接の時は大学へ通っていたので、大学の予定に合わせてバイトをしようと思いますと言って面接会場を後にしたのだが、後日一通のイオンモールから手紙が来ていて、その封筒を開けると、「合格おめでとうございます。」という文言の手紙が届き、その半年間は当時まだバイトをする店舗が完成していなかった為に少し離れたバイトの店舗に電車通勤して一人で通っていた。その時も今後どうしようと考えて、バイト中も考えて、たまにはメモ帳に何か閃いた事を忘れないようにともちろん覚えるべきバイトの内容はメモしていたのだが、バイトに関係ない事もメモを取りながら過ごす日々を送っていた。
長々と文字数稼ぎするように綴ってしまったが、これは重要な役割を果たしていて、このバイト期間が自分の中で芸人になる為の有意義な時間である。そのバイトに書き込んでいた事というのが、最初のうちは何かこれからやりたい事をバイト作業が滞らないように拙い言葉でメモしていた中でふと頭によぎった事が”自分が20歳を迎えて専門学校通うとしても卒業する時は23歳の年であり、他の現役大学生、まして4年制の現役看護学生も同時に22歳に卒業する。この1年は自分の中で大きな差が存在すると思った。
もちろん自分は一つ後ろの代でしかも専門学校を卒業するという事。
また、以下の話は男尊女卑ではなく、単なる自分の中にあるプライドの話にはなるが、個人的な内々な話をする。看護師として再起するにあたって、色々なサイトの目を片っ端から目を通すと看護師の給料に大学と専門学校で年収の穴があり、同級生に1つ遅れをとってしかも専門学校で女性看護師よりも生涯稼ぐ事が出来ないのか……。”と思ってしまった。
今の時代は男女の壁を追っ払った時代になっているが、個人に凄く闘争心というか女性に限らず第三者に何事も負けたくないという嫉妬心が存在し、そこで仮に専門学校卒業して看護師になった時に一生涯そのレッテルを考えながら一生涯を終える人生を送る事が出来ないと思った(個人差があります)のが、まず1つ目の理由である。
2つ目の理由はnoteの最初に話した事ではあるが、躁鬱状態になっていた時にたまたまYouTubeでさらば青春の光の「更生」のネタを観た時に人生は何度チャンスがあって転んでも起き上がる事が出来るというメッセージをこのネタから感じとり、同じ人を救う職業であり、高校生の時から勇気がなくて踏み出せなかったが、頭の奥底にあった看護師に次ぐドラフト2位である”芸人”という職業から自分のように人生の落ち目を感じている人たちにとって医療的な直接関与して救う事は出来ないにしても間接的に笑顔を提供出来る職業であると言う事をこのネタから学ぶ事が出来た為である。
いつか芸人として売れて、さらば青春の光に出逢える機会があるならば、話そうと思っている。人生を救ってくれたお笑い芸人の1人、それがさらば青春の光さんであった。
そして、芸人として青春してる感じの楽しさをYouTubeの「ニューラジオ」というYouTubeラジオ界の先駆者であり、トップクラスに面白いラジオ内で中高生のど真ん中学生時代で全然青春してこなかったニューヨークさんが今芸人になって最高に青春してるという事を語る姿からお笑い芸人の真の面白さや深みを見出してくれてくれて、自分が本気で芸人になる矢印を方向付けてくれる存在である。
自分としては、「苦しんでいた時期に支えてくれた存在であり、唯一の抗うつ剤が芸人のお笑いだった。」
〜余談〜
留年が確定した看護大学の面接で自分よりも面接に立ち会ってくれた母親が頼もしく、面接で言われている内容や言動に対して母親も不信感を思ってくれたらしく「こんなとこ(大学)、辞めて正解だよ。また違うとこで頑張りな。」と言ってくれた一言に対して、母親が自動車で群馬へ帰ってから自分が住んでいるアパートで涙がこぼれるどころか普段は感動する動画をみても泣けない私が、こんなにも自分のことを考えてくれていたのかと思い、人目を憚らず号泣してしまった事をこの記事を書いている時に思い出した。
母親は一緒に生活していた時はいつも干渉的な存在というのが自分の中にあったので、ここまで頼もしい存在だったのかと今後そうはないと思った瞬間である。
【余談】
正直大学に通っていた2年間は限りなくつまらないに等しい生活を送っていた。
頼れる親友的な人もいない。放課後は徒歩3分くらいのところにあるほぼ隣接されている自分の大学よりも遥かに建物や雰囲気に活気のある大学の休憩スペースに籠って課題や暇を持て余す日々を過ごしていた。
昼食に関しても、何度かは同学部の同級生と学食に行ったが、学食が合わないのかコンビニ弁当を買って食べるのがマイノリティだったらしく、1人寂しく学食で日替わり定食を食べていた。自分の大学では学食のメニューは非常に乏しく、物足りなくなり、隣接大学に1人で行く事が日課になっていた。その時に自分は少数派の人間なんだなと落胆した。
しかし、今となっては少数派の考えこそ自分にしかない個性が詰まっているというポジティブに出会えた。それこそ本格的なお笑いとの出会いの始まりだった。今まではお笑いをぬるま湯でただ傍観していただけだったと感じている。
今でも忘れないし、今世では許すつもりは無い看護教師どもの実態。技能の練習中に自分が「〜の方をしていきますね。」と丁寧に患者役の人に伝えたつもりだが、百歩譲って「コレコレこう言う理由で〜の方って言葉は言わないでね!」って一言ソフトタッチな言い方をしてくれていれば、だいぶ話は変わってくるが、そのひとりの教師は「〜の方とかは言わないんだよ。全く何を言ってるのよ。ねぇ。」とグチグチチクチクとトゲのある言い方をして、愛ある指導とは掛け離れた教師達が自分の周りに存在していた。
自分を育てる方向ではなく、出来ない人材として見捨てた大学教師共を。自分の立場が不利になると分かると下っ端教師は逆らえない教授にゴマすりをするが如く自分に指導という名の嫌な言葉を投げかけられる日々が何日も続いていた。
今となってはあんな教師の下で無理しながら教わるのを辞めて良かったと心から思う。
後悔の無い人生を送る為に選んだ選択肢。
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