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自分の感受性くらい、自分で守れよ医学生!(日記と読書)

リテラです。医学生です。
日記です。

生きづらさ、世間との認識の齟齬、ままならぬ自己と社会との乖離。
太宰に端を発したこの手の「乾布摩擦すれば解決するような」テーマ性の小説は(三島の言葉です!僕じゃないのでお許しを)
村田紗耶香さんの「コンビニ人間」にてにわかに再燃し、以降の芥川賞の候補作に共通的なテーマとなってきている(と思います、してませんか)。

これらの作品をTwitter(現X)において諸人の感想を拝読して回りますと
自身の生きづらさと通底するものがあり、自分は孤独ではないと勇気づけられた」と言うたぐいものが多くみられます。
そして、そういった人々のアカウントのホーム画面を拝見しますと、高確率で「発達障害」や「HSP」などの、精神医学等に関する症状の紹介がなされています。

彼ら、彼女らは処方箋的に、物語を用いているわけです。
とてもすばらしい読書だと思います。
創作とはいえ、自身と性向の似た存在を目標または反面教師にすることで、独自の活路を見出すことができれば、もはや医師の診断など及びません。

一方で、医学生と言う立場において、このように誂えの物語を「病の物語」と捉えるようになってしまうことには、僕は疑念があります。

医学書やDSMに掲載されている諸症状はあくまで「一般論」です。
その背後にある、実際の生きづらさの中では、最大公約数に過ぎません。
実際、周囲の環境次第ではことさら障害として取り上げる必要もないような症状も含まれます。
自身の振る舞いの失敗や、性向と社会の不適応に懊悩する個人の姿について特に「現場に出ていない医学生は」失念しえます。
そして失念したまま読書をし、さらに物語の細部さえ失念することで、作品を十分に楽しめない可能性があります。

例えば
「人間失格」中の諸、自己矛盾や希死念慮にまつわる心理描写を「パーソナリティ障害」と
「コンビニ人間」の主人公を「自閉傾向」と
「ブラックボックス」の佐々木を「ADHD」と
あたかも当該人物の本質を見透かしたような言葉で要約してしまう癖がつくことを、私は好ましからざることであると思い、恐怖しているのです。

専門用語とはショートカットです。医学もまたしかり。
しかし、医学の専門用語には「人間を見透かす」言葉が多すぎて、
ある物語について「人間性を要約しながら」読んでしまい、結局どういう物語であったか、その要約が診断書のように無機質になってしまいかねない。

実は作中の精神の機微を見失っていることに、気づかぬままに。
医学に、自分の感受性を奪われていることに気づかぬままに。

人体を診る学問であるために、自分が人間を知り尽くしているかのような錯覚に、ともすれば医学生は陥りかねないな、と危惧しながら、今日も読書し、また勉強もしております。

はたして、私は将来、医師になって以降も、物語を楽しむことができるのやら…


最後に、谷川俊太郎氏の詩作「秘密とレントゲン」から、少し文脈は離れますが。

レントゲン氏は僕を唯物的に通訳しただけなのに
僕のすべての秘密を覗いたつもりで唸りたてる



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普段は医学生と銘打って医学とは無関係な落書きを上げたい所存です!

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