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「答え」ではなく「問い」をもたらすのが人文の豊かさ

タイトルで中身の予想がついちゃいますね。
書く意味あるのかなって気もしますけど
人文(文学・哲学等)の可能性についてのはなしです。

noteみたいにサクッと読める文章が人気じゃないですか?
じゃあ、古本屋や図書館にあるようなカビくさい本とかに、何か意味あるの?ってはなしに今日はなります。

よかったら、おつき合い下さい。

フランスにルネ・デカルト(1569年~1650年)っていう哲学者がいました。
って、いきなり難しそうですけど
『方法序説』っていう有名な本がありますけど。
人間って、やっぱり、人生で気が狂いそうなときって正直たまにありますよね。
いろいろ考えるじゃないですか?
デカルトは、あの有名な「我思う、故に我あり」っていう言葉を残した人でってのは御存知かもしれませんけど
こういう言葉って、気が狂いそうな思考の果ての、デカルトなりのある着地点だったと思うんです(違うかもしんないけど)
気が狂いそうなのを落ち着けたかったんだと……

ちょっと説明が足りないかな
俗な説明をすれば、世界のあらゆるものを疑うことはできるけど、いまそう考えてる自分の実在を疑うことはできない、ってデカルトは考えるに至ったんです。
我、考える、それこそが「我」(の証)なんだ、というようなはなしです。

でも、このセリフの功績は、実は、それが「答え」だからではなくて
それを聞いた人に「ホントにそうか?」って発展的な「問い」をもたらすことにあると思いますね。

で、いろいろ考えてみるんだけど
そう簡単に「我思う、故に我あり」みたいな、既に格言っぽくすらなってる表現を超えられなかったりするのね。

いや、今日的な、10次元以上あるような、超な物理学を持ってくれば「我思う、故に我あり」みたいな思考を嘲笑するのは簡単なんだけどさ。
「我なんてどこにもないんだよ」って……

そうすると「我思う、故に我あり」っていうのは、ある強靭な精神史の過程であって、「答え」ではないわけよ(多分だけど)

「答え」ではないが故に、言葉の金字塔っぽく輝いているっていう
それは、後世の人がそれをめぐっていろいろ考えるからだと思うのね。


もうひとつあって

ミヒャエル・エンデ(1929年~1996年)っていうドイツの児童文学作家に『モモ』っていう作品があって
モモっていう愛されルンペン少女が、灰色の男たちっていう資本主義のカリカチュアともいえる悪党みたいな連中に街の人たちが身も心も支配されていくのに、ひとり立ち向かうはなしで
資本主義社会みたいな世界に生きてると、どうしても、僕なんかもネット投稿をやってて「儲けまっせ!」みたいな下心を捨てられずにいるんだけど
それはどうなんだろう?って考えさせられるのね。
ひょっとしたら、タワマンとかフェラーリみたいな金満族を目指してるのかもしれない自分等が(冷静に考えれば、フツーにムリだけど)地下道にダンボールにくるまってるしかない人たちの横を素通りしていく
これはどうなんだろう?って
灰色の男たちに言いくるめられ、たまに自身が灰色の男たちみたくなってすらいる現実に、1929年に生まれて96年に亡くなった作家の作品はいろいろな問いをもたらし続けてる。
『モモ』には「答え」が書いてあるわけじゃないのね。
資本主義の毒を消し去るのはルンペン少女だ、っていってるわけじゃ多分ないのね。
やっぱり、人のなかに「問い」を生じさせる何かを持ってる。

最後に、もうひとつ

紫式部『源氏物語』ってあって
note読むくらいの人だったら、まったく知らない人はいないと思うけど
御存知、光源氏のエロエロストーリーだけど
最後は、源氏の私生児みたいなふたりと、浮舟をめぐって実らない三角関係に行きついて
さんざんエロエロをくりかえした光源氏は、正妻の紫の上の死後、出家したりするでしょう。
人間の因果みたいのが書かれてますよね。
いや、人によって読み取るものは様々でしょうけど
恋愛や婚姻をめぐる様々な因果について考えさせられます。

こういった感じで
人文の豊潤っていうのは、そこに「答え」が書いてあるからというより、それに触れた人に様々な「問い」をもたらすところにある、と考えます。
もちろん、ある人は、そこに何か「答え」を見つけるでしょう。
それはそれで結構なことでしょう。

サクッと読めるnoteを一日100本読むのもいいと思いますが
読書の秋ですから
もし若干でもお金があれば、本屋で、あるいは図書館で様々な、こういった「問い」をもたらす書物を手にしてみるのもよいのでないかというところで今日は締めたいと思います。

御一読どうもでした!

Writting:2022年10月3日

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