誰かと向き合うことは己と向き合うこと:「ありがとう」について考える⑫
このnoteは
からの続きです。
登場人物
わたし:ibitsu
だーさん:今年6月、ある本屋のイベントで知り合った同世代異性の友人。
興味のあることが近いので、月1~2回外や我が家で(外遊びはお金がかかるので)遊ぶようになった。
わたしは「ネガティブを伝える」が苦手だ。
「これは嫌だ。」
「あれが不快だった。」
「やめてほしい。」
そして「ポジティブを求めること」も苦手だ。
「こうして欲しい。」
「あぁしてくれたら嬉しいのに。」
「もっとたくさんちょうだい。」
どうしてか、というと
相手の気持ちを考えすぎてしまうから。
そう言われた相手が
どう思ったのか思っているのかを考えてしまう・・というよりも、それ「しか」考えられないのだ。
相手の気持ちは、いつもシーソーの下にあって両足をしっかりと地面に密着させ、ずしりと重い。
反面「自分がどうしたいか」「どう思っているのか」はいつもシーソーの上にあり、軽くゆらゆらと揺れている。
わたしの気持ちは、いつでも相手次第で変化する。
だから、考えても仕方がない。(今となってはそう書けるけれど、かつては無意識。)
相手が足を浮かせば、わたしは低い位置に降り
相手が下に降りれば、わたしは浮上する。
自ら上下を選ぶことができない。というよりも、しない。
誰に押し付けられたわけでもないのにその選択肢がないものだと、受け入れてきた。(生育環境に思い当たる節はあるが長らく、生まれ持っての性質だと思い込んで変えられないものと受け入れてきた。)
でも今は相手の気持ちを考えすぎない。そう意識している。
相手の気持ちはどれだけ考えても自分だけの妄想だ、ということを理解する。
相手の言葉を信じる。
だからこそ、自分も言葉にする。(わたしは読書が好きではないと思っているのに読んでいるのはこのため、伝える言葉を増やすため、です。)
自分の感じたことを信じる。見えない空気をくみとりすぎない。
自分が本当の気持ち
「ネガティブを伝えない」「ポジティブを求めない」そういう嘘をついている(伝えない)からこそ、相手も本当のことを言ってないと、どこまでもいつまでもまで勘ぐる。
声のトーンや会話の間、小さな表情の変化から、相手の気持ち全てを分かったような気になって、勝手に傷つき、相手を責め、相手を責めた自分を責め、事実を確認することなく(いやむしろ自分の考えが事実と信じていた。)逃げ続けてきた。
だからこそ、自分も相手に空気だけで伝えようとしていた、が、何かが伝わったことなんてなくて、やっぱり勝手に傷つき、相手を責め、相手を責めた自分を責める。
そういうことを繰り返した40代半ば。
正しいこと(空気を読んで場を乱さない)をしているはずなのに幸せでない、ということに気が付いて
自分の観察、実験、練習を重ね
現在50歳である。
ようやくやっと、ここまで来れた。
わたしにも落ち度はある。だから「だーさん」に自分が感じたネガティブを伝えた後
「「だーさん」も何かあったら言ってくださいね。」
と言おうかと思った。それは優しさのつもりだったけれど、やっぱり違う。
ネガティブを伝えた後味の悪さに「あなたも言えばおあいこ」ということにしたかったし、わたしの罪悪感を帳消しにしたかったんだ。
そう気が付いたから、言うのをやめた。
嘘ばかりついてきたから、じっくり考えないと自分の本心がわからない。
相手の気持ちを考えすぎない。どこまでいってもそれは真実とは違うから。
自分の問題と相手の問題を混同しない。
何かあったら言うだろう、と考える。
それが信用する、ということ・・かもしれない。
わたしも言うからあなたも言うよね。ということを信じる。
当たり前のことって、信じていることって、あえて言葉にしない。
かつてわたしを傷つけた、とわたしが一方的に思ってきた誰かは
わたしにそういう信頼を持ってくれていたのかもしれない。
と、今日のところは思う。
誰かのことを考えすぎてうまくいかない
だからもっともっと相手のことを考えなくちゃ。
相手に向けた矢印をもっと深くもっと奥にと思ってきたけれど
変えるべきは矢印の方向をくるっと
自分に向ける、ということだった。
と、誰かに言っているようで、全て己に言い聞かせています。
ひとまず「完」
なの、か?
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