見出し画像

『オールド・クロック・カフェ』4杯め「キソウテンガイを探して」(10)

第1話から読む。
前話(第9話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』にある「時のコーヒー」という不思議なコーヒーは、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれる。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。時のコーヒーなど信じないという環に16番の時計が鳴る。環は8歳の誕生日に、母が出て行った過去をもつ。30歳の誕生日に正孝からプロポーズされた環が「時のコーヒー」で見た過去は、22歳の誕生日のシーンだった。
当時の恋人の翔は、砂漠で2000年も生きるキソウテンガイという植物を研究するため、環に指輪を渡してナミビアに旅立つ。出発の日を知らされていなかった環は、また、誕生日に大切な人に捨てられたと思い込み、記憶を封印していたが、瑠璃に助けられて8年ぶりに翔に電話をした。

<登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
 瑠璃の友人:環
   環のかつての恋人:松永翔   
   環の現在の恋人:正孝 


* * *  Wander * * *

「お帰り、環」
 父は新聞から顔をあげ、鼻先にずらしていた眼鏡をかけ直す。22年前に母が出ていってから、父はいつだってリビングで環を迎えてくれる。なにげない顔をしてそこにある「あたりまえ」が環を守ってきてくれた。そのことを今日ほどありがたく思ったことはない。


「お母さんと」
 翔との電話を切ったあと、冷めたコーヒーの代わりに煎り番茶を沸かしながら瑠璃が話しかける。
「そろそろ向き合っても、いいんじゃない? 会う会わないは別として」
 もう一つおせっかいを言ってもいいかな、と断って瑠璃は続けた。
「8歳の誕生日のことは覚えてる。でも、そこで環の時計は止まってる気がする」
「8歳の環にはわからなかったことも、今の環なら受けとめることもできるんとちゃう? ずっと我慢してきた想いにケリをつけてもいいころよ」
 我慢してきた。私は何を我慢してきたのだろう。
 ほわりと湯気のあがった湯呑を環の前に置き、熱いから気ぃつけてよ、と瑠璃はつけたした。煎り番茶は京番茶ともいう。茶葉を揉まずに燻してあるため煙草のような匂いがすると嫌う人もいるが、京都では昔から家庭で愛用されてきた。その独特の強くスモーキーな薫りが部屋じゅうにただよう。あくは強いのに懐の深い京の匂い。環は黙して啜る。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 カフェの時計の音が耳管の奥でこだました気がして、環は顔をあげる。音をたよりに振り返ると、鈍い飴色にひかる柱に架けられている時計が午後4時を告げていた。
 体をよじって見あげていると、瑠璃が湯呑を手に時計の下に立った。
「桂ちゃんのおじいちゃん、つまりカフェの時計を集めた人ね、が結婚祝いにくれたの。文字盤の青いガラスを嵌めたのは、うちのお父さん」
 瑠璃が時計を愛おしそうに見あげる。瑠璃はまわりから愛されていると思う。それが時どき環はうらやましくなる。とりわけ、こんな日は。

 夕飯もすすめられたが断って環は帰った。
 川端二条から御池おいけまでは15分もあれば帰りつく。だが、なんとなくまっすぐ帰る気になれず鴨川の河川敷に下りた。川面を吹きあげる2月の風の冷たさにコートの襟を立て首をすくめる。カップルが等間隔に座ることで有名な河原も、こうも風が冷たいと犬の散歩をする人かジョギングをする人くらいだ。
 今日はジェットコースターのような日だった。
 「時のコーヒー」の力を借りて、22歳の誕生日を記録フィルムを観るようにたどり、記憶の奥底にしまい込んでいた翔と指輪を思い出した。植物園の温室でキソウテンガイと再会し、指輪の裏にメッセージが刻まれていることを知った。瑠璃に助けてもらって翔に電話して、8年ぶりに懐かしい声を聞いた。明るくやわらかな声が、まだ鼓膜を揺らしている。思い出すだけで胸がきゅうっとなる。私は今でも翔が好きなんだ。
 2年付きあった翔と、2カ月ちょっとの正孝とを単純に比べることなどできない。おまけに翔への気持ちはコールドスリープして時のはざまに置き忘れていた。フリーズドライした気持ちを、今日、溶かしたところだ。8年前の想いが、時を飛び越えて突然、あざやかに胸によみがえった。
 もしも、と思う。
 あの日、ナミビア行きを理由にきちんと翔と別れていたら、8年という歳月が少しずつ熱量をそぎ落としてくれていたのだろうか。物理的な時間の作用を受けることなくタイムカプセルに収められていた感情は、錆びつきも色褪せもせず環を襲う。それだけではない。一度はあきらめた気持ちに希望の灯りが点ったのだ。高ぶる波にのみこまれそうになる。

 このまま、この気持ちに身をゆだねていいの?

 環が8歳のころから望んできたのは、平穏だった。不確かなものに翻弄されることをいとい、父のような確実性を求め、結婚するなら市役所職員と思い込んできた。
 結婚と恋愛は別、よく聞くことばだ。
 結婚は条件よ、誰かがいう。
 結婚に幻想を抱きたがるのは男で、女はもっとシビアで、ずっと計算高い。だって、人生がかかっている大博打だもの、と詩帆が言っていた。
 詩帆の意見に全面的に賛成する気にはなれないけど。
 一時いっときの感情に身をゆだねるなど、母と同じではないか。とも思うのだ。

 ああ、また、お母さんだ。結局、この壁にぶち当たるのね。

 瑠璃のいうとおりだと思う。
 翔とのすれ違いも、源をたどれば8歳の誕生日に母が出て行ったことに突き当たる。怖くて逃げてきた感情と向き合わなければ、先に進めない。ずっとぐるぐる同じところをまわっている気がする。もう、いいかげん終止符を打たなくちゃ。三十路なんだし。お母さんが出て行った年齢にも、手が届きそうなのに。

 ――ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし、か。
 環は足もとの小石を蹴る。石は低い放物線を描いて川に着水し、波紋が連鎖して広がる。消えかかりそうな冬の日を受けて、川面がかすかにきらきら光る。
 淀みの葦に引っかかったまま動けずにいる葉は私だ。父という葦にすがって動こうとしなかった。すべての原因が8歳の誕生日にあるなら、止まった時を動かさなければ。結果には原因がある。そういいながら、結局、私は原因から目を背け続けてきたんだ。苦い自嘲が頬をゆがめる。
 鴨川は下流から淡く茜色に染まりつつあった。西岸のビルが影をのばす。瑠璃は空を仰ぐ。とりあえず、お父さんと話そう、そこからだ。


「お父さん、夕飯の前にちょっといいかな」
 父の好きなアールグレイを淹れたマグカップを二つテーブルに置いて、環は向かいのソファに腰かけた。緊張でほんのわずかだけれど声が裏返る。おそらく父は気づいただろう。でも、何も言わない。いつもと変わらぬ穏やかな表情で、環が話し出すのを新聞を畳んで待っている。  

 怒涛のようだった今日の一日をはじめから話した。瑠璃に連れていかれたカフェで飲んだ「時のコーヒー」のことも、植物園のことも、翔との電話の内容も。正孝からプロポーズされていることも。ぜんぶ。
 ひと息にそこまで話すと、環は紅茶を啜り、口をつぐんだ。
 言葉にするのが怖い。8歳の環が胸のうちでおびえる。
 どのくらい時計の針は進んだろうか。ここで止まったら、また、同じことの繰り返しだ。同じ場所をうろつき回るだけ。

 環は切れ長の眸をきっとつり上げ、父を見据え、小さく深呼吸して胸のなかに淀んでいたものを吐きだした。
「あの日から、ほんまは誕生日がずっとずっと嫌いやった」
「誕生日は、私がお母さんに捨てられた日やから」
 喉の奥から苦いしずくが上がってくるのを、ぐっとこらえる。
 まだ、泣いちゃだめ。吐きださなければ、訊かなければ、ずっと胸に巣くってきた不安を。
「私は……私は、お母さんに愛されてなかったんやろか」
 環の双眸は、溢れてくる涙を支えきれずまなじりから決壊した。 

 相槌ひとつ打たずに聴いていた父は、環の濡れる視線を受けとめ、静かに口を開いた。
「お前はよく『結果には原因がある』というやろ。そのとおりやと思う」
 そこで、まばたきほどの一拍を置くと、娘の覚悟と想いに対峙するかのように細く吐きだした息をすぅっと一気に吸い込み父は語りはじめた。

「母さんが、綾が出ていった原因をつくったのは、父さんなんや」
「そもそも私が、親友を裏切って、綾を奪ったんだよ」
 そう言って、父は顔をゆがめた。

(to be continued)

第11話(11)に続く→


#連載小説 #中編小説 #創作 #みんなの文藝春秋







 



この記事が参加している募集

#忘れられない恋物語

9,162件

#この街がすき

43,708件

サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡