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小説『オールド・クロック・カフェ』 2杯め 「瑠璃色の約束」(2)


前回のストーリーは、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』の常連客のひとりガラス工芸家の泰郎は、娘の瑠璃の結婚を控えている。瑠璃は泰郎に、過去の「忘れ物」を思い出させてくれる「時のコーヒー」を飲ませてほしいという。泰郎も自分が何かを忘れているのではと思い悩んでいる。でも、「時のコーヒー」は、時計に選ばれなければ力を発揮しない。と、そのとき8番の鳩時計が鳴った。

<登場人物>
カフェの常連客:泰郎
泰郎の娘:瑠璃
カフェの店主:桂子


* * Cuckoo Clock * *

 8番の鳩時計は森を思わせるような黒く深い緑色の木製で、屋根のある家型をしていた。小人や動物が踊るにぎやかな鳩時計もあるが、これは屋根の窓から白い鳩が顔を出すだけのいたってシンプルなタイプだ。ただ、時計の周りに白い木彫りの鳩が5羽とまっていて、深緑と白のコントラストが冴え、森の山小屋で鳩が遊んでいるようだった。

 泰郎はゴブラン織りの椅子に深く体をあずけながら、バターがたっぷりとしみた厚切りのトーストをほおばり、鳩時計を見るともなしに眺めた。
 瑠璃が思い出してほしいものとは、何だろう。
 さばさばした性格の娘は、わりとなんでもずけずけ言う。それが口を閉ざして、不機嫌を薄い膜のように一枚ずつ日ごとに積み重ねていっている。その原因が何かわからない自分が,、泰郎は情けなかった。

「お待たせしました。8番の『時のコーヒー』です」
 桂子が少し緊張してうわずった声でカップをテーブルに置くと、盆を胸に抱えて鳩時計を振りかえる。
「泰郎さん、鳩時計が指してる時刻が、忘れ物と関係があるって知ってた?」
「それは知らんかったな」
 泰郎が鳩時計を見上げ、目を細める。
「11時13分か」
「その時刻に何か心あたりは、あらへん?」
「そないな細かい時刻覚えとったら、何を忘れてるか、とうに思い出しとるやろ」
「それも、そうね。じゃあ、時のコーヒーをゆっくり味わって」
「ああ。思い出してくるわ」
 毎朝、ここでコーヒーを飲んでるけど、カップを持つ手が震えるのは初めてやな、と泰郎は自嘲しながら、湯気とともに立ちのぼる燻された桜チップのような深い薫りを胸で味わい、おもむろに口を近づけた。

 くるっぽー、くるっぽー。
 鳩時計が泰郎をうながすように声をあげた。
 


* * Time Coffee * *

 二口めを喉でゆっくりと味わううちに、いつしか泰郎は意識の深淵へと降りていった。何もない無の空間が広がっている。そこに、ぽっと白い光が浮かんだ。瞬くまに広がり大きな白い光の円となる。と、見るまに、光はばたばたと蠢き、その動きがだんだん大きくせわしなくなるや、無数の翼の羽ばたきとなり、次から次へと飛びたちはじめた。翼の大群が泰郎の視界を掠め、彼方へと飛んでいく。純白の鳩たちだ。視界のあらゆる方向にいっせいに飛びたつと、まっ白な翼の向こうに青い空が透けてみえた。
 リーンゴーン、リーンゴーン、ゴーン。
 荘厳な鐘の音が、輪唱のように拍遅れで重なり響き合う。
 視界が突然クリアになり、視線が天から地上に舞い降りた。

 歳月を丁寧に積み重ねた赤レンガのチャペルから純白のウェディングドレス姿の花嫁が、銀のタキシードの花婿の腕に手を添えて現れた。美しく着飾った人びとが拍手で迎える。チャペルの扉からまっすぐに緋色の絨毯が敷かれていた。その端に、明らかに招待客とは異なる普段着姿の親子の背が見えた。父親らしき男は、白っぽいの麻のジャケットにベージュのチノパンを履いている。5、6歳くらいの少女は裾にフリルがついている濃いブルーのTシャツに白のクロップドパンツ姿だった。

 ああ、あそこにいるのは俺と瑠璃だ。
 泰郎は、偶然、結婚式に出くわした25年前のことを思い出した。

 あれは妻の美沙が交通事故で亡くなって、3カ月ほど経ったころだ。
 自転車で横断歩道を渡ろうとして、前方不注意で左折してきたトラックに美沙は跳ね飛ばされた。自転車ごとガードレールにぶつかり、その弾みで美沙の体は空中に投げ出され、コンクリートの歩道に後頭部から落下した。脳挫傷による脳内出血と頚椎損傷。即死に近かったらしい。警察から連絡を受け、泰郎が瑠璃を抱えて病院に走り込んだときには、顔に白い布がかけられていた。

 突然の事態を、泰郎は呑み込めず、受け入れられなかった。
 白い布の下の美沙は、いつもの美沙で、少しだけあがった口もとは微笑いんでいるようで寝息が漏れ聞こえてきそうだった。
「ママ、なんでこんなとこで寝てるん? お顔にハンカチのせて、変なの」
 瑠璃の止まらないおしゃべりが、さざ波のように寄せては返す。泰郎にはその先の記憶がなかった。通夜も葬儀も喪主として勤めはしたが、ずっとアクリルチューブの水底にいるような感覚だった。

 四十九日の法要が済んでひと月ほど経ったころだ。心配してようすを見に来た母にさりげなく提案された。
「瑠璃ちゃん、うちで引き取ろか」
「えっ。なんでや」
「俺から、瑠璃まで奪うんか!」
 泰郎は思わず声を荒げた。母があわてて口もとに指を立てて、しーっというしぐさをしながら、後ろの襖に目をやる。
「大きな声あげたら、瑠璃ちゃんが目ぇ覚ますやろ」
「あんたなぁ、気ぃついてはるか?」
 母が押さえた声で指摘する。
「瑠璃ちゃん、指しゃぶりしてるんぇ。来年、一年生になるいうのに。あれは、赤ちゃん返りの一種や。それにな、しょっちゅう、まばたきもしてるやろ。チックやと思うわ」
「チック‥‥って、何やそれ」
「はっきりしたことはわからんぇ。でもな、子どもにストレスがかかると出る症状や」
「あんた、美沙さん亡くして。自分のことで精一杯で、瑠璃ちゃんのことまで見てる余裕なかったやろ」
「ママは、死んでしもた。パパも、ぼーっとしたまま自分を見てくれへん。そら、5歳の子にとったら、ひとりぼっちになったような寂しさや。なんぼおしゃまやいうてもな、まだ、ややこしい感情をうまいこと言葉にでけへんやろ。子どもはな、自分が困ってることをうまく言えんから、体に症状として出るんやで」
「まだ、甘えたい盛りやねんから」

 泰郎は茫然とした。妻を失った喪失感の前で虚無に囚われたまま、幼い瑠璃をすっかり置き去りにしていた。淡々と日常生活をこなしていたが、心は薄い玻璃の繭のなかで膝を抱えてうずくまったまま。泰郎の目には何も映っていなかった。瑠璃のことも見えていない、いや、見ていなかった。
 美沙が亡くなった当初、瑠璃はずっとべそべそと一日中泣いていたが、いつのまにか泣かなくなっていた。泰郎には、それがいつからだったのかもわからない。母親の死をどれほど理解できているのだろう。突然、ママがいなくなり、パパもまるで自分に関心をはらってくれない。それが、どれほど幼い瑠璃を打ちのめしていたのだろうか。

 泰郎は母から指摘されてはじめて、そのことに気づいた。ようやく目が覚めたと言っていい。まずは俺が、美沙のいない現実を受け止めな、あかん。今、いちばん大事なんは瑠璃や。
 それから泰郎はできるだけ瑠璃といることを優先した。瑠璃が幼稚園から帰って来ると、工房に連れていく。瑠璃も遊びに出るとも言わず、工房で泰郎といた。

 その日は、K B S 京都でラジオ番組出演の打ち合わせがあった。『みやこの匠はん』という番組で、毎回、若手の工芸作家を一人ゲストで迎えるという番組だ。ゲストが次のゲストを紹介することになっていて、泰郎は清水焼とアートを融合させ話題の斎藤琢磨からの紹介だった。打ち合わせは30分もかからないという話だったから、瑠璃を連れ、打ち合わせの後で御池通にあるマンガミュージアムに行く約束をしていた。

 美沙の事故からしばらく、瑠璃は車に乗るのを嫌がった。だから、阪急電車と地下鉄を乗り継いで打ち合わせに向かった。6月に入って季節は一足飛びに進んだかのようで、その日は梅雨のあいまのじわりと汗ばむ陽気だった。地下鉄丸太町駅で降りて、御所の横を北に向かって瑠璃と手をつないで歩いていた。
 すると、リーンゴーンと辺りの空気を震わせる音が耳に届いた。
「パパ、あれは何の音?」
「教会の鐘ちゃうか。そこに赤レンガの教会があるやろ」
 ちょうどチャペルから花嫁が出て来るところだった。瑠璃が「うわぁ」と言って走り出した。「お姫様みたい」瑠璃が目をきらきらと輝かせ興奮ぎみに眺めている。
「パパ、パパ。きれいやなぁ」
「ああ、ほんまに、きれいやなぁ」
 美沙が亡くなってから、こんなに生き生きとした表情を瑠璃がみせたのは、はじめてだった。

 その時だ。花嫁が手にしていたブーケを空高く投げた。色とりどりのドレスに身をつつんだ若い女性たちが、いっせいに手を伸ばす。その指先をブーケが跳ね、転がっていく。それを一羽の鳩がくちばしで突っついた。すると、ぽんと大きく跳ねあがり、きれいな放物線を描いたブーケは、瑠璃の目の前に降って来た。瑠璃は訳もわからず反射的に両腕を交差してキャッチした。「落としちゃいけない」ゲームとでも思ったのだろう。
「パパぁ、取ったよ!」大仕事を成し遂げたような顔で泰郎を見上げる。まわりから歓声があがった。
「小さな女の子が取ったよ」
「うわぁ、いいね。うらやましいわ」
「良かったね」
 きれいなドレスのお姉さんたちが瑠璃を取り囲み、次々に声をかける。その輪の中で瑠璃は、何が起きたのかもわからないまま、でも誇らしげに顔を上気させていた。

「ええなぁ。お嬢ちゃんが次に結婚できるんよ」
 エメラルドグリーンのワンピースを着た女性が腰をかがめて瑠璃にいう。瑠璃が「えっ?」と泰郎を見上げる。泰郎は、どう説明したものかと頭を搔きながら、瑠璃の前に膝をついた。

「瑠璃、それはな、ブーケいうて、結婚式が終わると花嫁さんが投げるんや。ほんで、その花束をゲットした人が、次に結婚できるそうや」
「瑠璃、結婚するの? 花嫁さんになれるん?」
「そやなぁ。でも、瑠璃が結婚してしもたら、パパ、寂しなるな」
「なんで?」
「瑠璃と別れんとあかんからな」
「えっ」と瑠璃が大きな目をさらに大きく見開く。
「なんで、なんで。パパと離れるのはいやや。瑠璃、結婚せぇへん」
 瑠璃と泰郎を取り囲む輪に、花嫁が近づいて来た。
「ほな、瑠璃。そのブーケ、花嫁さんに返そか」
 瑠璃がコクリとうなずいたのを確かめて、泰郎が花嫁に顔を向ける。
「すみません。ちょうど娘の前にブーケが落ちてきて。娘が取ってしもたんですけど。まだ、結婚はせぇへん言うんで。ブーケトスやり直してもらえませんか」
「ええ。こちらこそ、すみませんでした。でも、せっかくですから」
 そう言って、花嫁はふわりとドレスを広げ、瑠璃の前に腰を落とした。
「お嬢ちゃん、ブーケをキャッチしてくれて、ありがとう。また、返してくれてありがとうね。それでね。好きなお花をプレゼントしたいんやけど、どれがいい?」
「これ」瑠璃が指さしたのは、薄い水色の小花のひと群れだった。
「ブルーのお花だったら、こっちのカーネーションのほうが大きいけど。それで、ええの?」
「うん。これが、かわいい」
「それね、忘れな草っていうのよ。私を忘れないでね、ていう名前の花よ」
 花嫁はブーケから忘れな草の枝を一本ずつぜんぶ抜いて小さな花束を作り、瑠璃に「はい」と渡した。

 瑠璃はそれを胸の前で握りしめながら、泰郎の耳もとでささやく。
「パパ。瑠璃はもう、結婚せぇへんから、寂しないよ」
 泰郎は娘のほうに顔を向ける。瑠璃は、さも重大な秘密を打ち明けたような顔をしている。
「ありがとうな」
 泰郎は瑠璃の頭をなでる。
「こんなかわいい瑠璃が、今すぐ結婚してしもたら、どないしよか思ったわ。パパを見捨てんといてくれて、うれしいなぁ」
 そこで少し言葉を切って、瑠璃に視線を合わせると泰郎は続けた。
「でもな。今はまだ瑠璃は小さいから、パパともうちょっと一緒にいてほしいけど。いつか瑠璃も大人になったら、あんなきれいな花嫁さんになってほしいんや。世界一しあわせな花嫁さんにな」
「でも、そしたら、パパ、ひとりぼっちになっちゃうよ」
 瑠璃が真剣なまなざしを向ける。
「そやなぁ。そんときは、いつでも瑠璃を思い出せるもんを、なんかパパにプレゼントしてぇや。そしたら、寂しないと思うねん」
「わかった。じゃあ、パパも、瑠璃がいつでもパパとママを思い出せるものをちょうだい」
「せやな、何がええかな。瑠璃は何がほしい」
 瑠璃はまっすぐに花嫁の胸もとを指さした。
「花嫁さんがつけてるネックレス」

 サファイアだろうか。花嫁はロイヤルブルーの石をダイヤが取り巻いているネックレスをつけていた。
「なかなか高そうなネックレスやな。パパ、瑠璃が花嫁さんになるまでにがんばってお金貯めとくわ」
「ちがう。買うんやなくって、瑠璃はパパに作ってほしいねん」
「そら、なんぼでも作ったるけど。パパが作ってるのはガラスやから。花嫁さんがしてるような宝石とは違って、安もんやで。ええんか」
「パパのガラス、きらきらして、きれいやから、瑠璃は好きやもん」
「せやし、ママとパパを思い出すネックレスよ。そんなんパパにしか作れへんやん」
「それも、そやな。よっしゃ。瑠璃のために、世界でひとつだけのネックレス、がんばって作るわ」
「約束ね。ゆびきりげんまん」
 瑠璃が小さな小指を立てる。泰郎が節くれだった小指をからませようと手を伸ばしたとき、腕時計が目に入った。液晶が11時13分を浮かび上がらせている。
「瑠璃、打ち合わせの時刻がもうすぐや。ちょっと急ごか」

 くるっぽー、くるっぽー。くるっぽー。
 教会の空の上を舞っていた鳩たちがいっせいに鳴き声をあげると、白い羽根が次々にくるくると降って来て、重なり合い、降り積もり泰郎の視界を覆っていく。画面がまっ白に光ってフェードアウトした。


(to be continued)

(3)に続く→
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