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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(11)

第1話から読む。
前話(第10話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』には、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれる「時のコーヒー」がある。店主の桂子が慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。環は16番の「時のコーヒー」を飲む。環は8歳の誕生日に母が出て行った過去をもつ。30歳の誕生日に正孝からプロポーズされた環が「時のコーヒー」で見た過去は、22歳の誕生日のシーンだった。
当時の恋人の翔は、砂漠で2000年も生きるキソウテンガイという植物を研究するためナミビアに旅立つ。出発の日を知らされていなかった環は、また、誕生日に大切な人に捨てられたと思い込み、記憶を封印していたが、瑠璃に助けられ8年ぶりに翔に電話をした。瑠璃は環に母と向き合えという。
環は父にすべてを話し「お母さんに愛されてなかったのかな」と積年の思いを告げると、父はすべての原因はじぶんにあると過去を語り出した。
   <登場人物>
  カフェの店主:桂子 
桂子が姉と慕う:瑠璃
 瑠璃の友人:環
   環のかつての恋人:松永翔   
環の現在の恋人:正孝
      環の父:杉森祐人
   環の母:綾
     父の親友:高遠たかとおじん 


* * * The day we were  * * *

高遠たかとおとは高校からのつきあいでね」
 長くなるが聞いてくれるか、と断って父は語り出した。

 高校1年のクラスが同じだった。私はこのとおり、まじめしか取り柄のない男だが、彼にはなんというか人を惹きつけるところがあってね、いつも人の輪の中にいた。まぶしい存在だったよ。なぜ親友になれたのか、いまだに不思議なくらいだ。
 あれは1学期の中間テスト最終日だった。テストが終わった解放感から、皆、遊びに行ったり、部活に行ったりして、あっという間に教室には誰もいなくなった。私にはまだ友人と呼べる存在もなくて、だが、家に帰る気にもなれず、朝、出がけに兄貴の部屋から拝借した『スウィングジャーナル』というギター雑誌のページをめくっていた。ウォークマンのイヤホンをはめコルトレーンか何かをボリュームいっぱいで聞きながら。開け放った教室の窓から無遠慮に射しこむ初夏の光が、つるんとした雑誌のページで反射してまぶしいと思ったそのとき、ページがいい具合に影った。驚いて視線をあげると、高遠が机の前に立って開けたジャズの特集ページをじっと見ていた。

「ギターは弾けるか」
 ぽかんと見あげる私に尋ねる。
「うまくはないけど」
「ベースは? ベースは持ってるか」
「兄貴のなら」
 よしっ、と小さくガッツポーズして
「お前、部活は?」と訊く。
「まだ、入ってない」
「学校にベース持って来れるか」
「たぶん」
 よっしゃー!と右手を突きあげて叫ぶと、私の肩をばんばんと叩いて
「明日の昼休み、ベース持って屋上に集合な」
 一方的に告げると、じゃ、といって鞄を肩にかける。
 さぁああっと風が吹いて、カーテンが舞う。
 気づくと高遠の姿は消えていた。夢を見ていたのかと思った。

 翌日の昼休み、半信半疑でベースを抱え屋上の扉を開けると、真昼の太陽に何かがきらっと光り目をすがめた。ゆっくり視線を戻すと高遠がアルトサックスを手にして、にっと笑っている。
 文化祭でさ。サックスとベースのデュオでジャズのスタンダードナンバーを演奏しようぜ、とサックスを撫でながらいう。人前で演奏できるほどの腕はないと私が断ると、
「俺かってサックスはじめたばっかや。できへんから練習するんやろ」
 あ、と思った。できなければ練習すればいい。実にシンプルだ。目から鱗とはこのことかと思った。自分を覆っていたもやが晴れたような気がした。

 屋上での練習がはじまった。遮るもののない夏の太陽。したたる汗。弦はすぐに切れ、音はぜんぶ空に吸い込まれた。あんなにもひたむきに何かに夢中になったことはなかった。やる前から諦める癖のあった私を高遠が動かした。モノトーンだった高校生活はあざやかに塗り替えられた。

 大学に入学するとすぐ二人そろって「ジャズ研」に入った。
 そこで、綾と出会ったんだよ。

 その日、私たちは講義にも出ず部室に入り浸っていた。他には誰もいなかった。
 ドラムは欲しいよな、とバンドの構成について話していたときだ。遠慮がちなノック音がして振り返ると、淡いサックスブルーのワンピース姿の女子学生が立っていた。丁寧におじぎをしてゆっくり顔をあげストレートロングの髪を片耳にかけた。黒目がちの涼やかな目。きれいな楕円を描く輪郭。すっと通った鼻梁。桃色にひかるふくよかな頬。それらが塑像さながらの美しいバランスで整っていた。
 スポットライト。
 むろんそんなものは煤けた部室にはない。だが、彼女の周りは空気が輝いてみえた。その光のなかで微笑んでいた。
 呆けたように固まっている私の隣で、がたがたっと音をたてて高遠が立ちあがり両手を机について身を乗り出した。
「入部希望ですか」
「ここの学生ではないんですけど、入部できますか」
 清水綾と名乗った女性は、K女子大のピアノ科の学生だという。どうやら先輩たちは女子大まで勧誘に行っていたらしい。
「もちろん」
「ちょうどピアノのパートを探してた。俺たちと組みませんか」
 ――えっ、探してたのはドラムじゃ?
 高遠を上目づかいで見あげる。
「俺は高遠じん。アルトサックスをやってる。こいつは杉森祐人ゆうと、ベースだ。よろしく」
 高遠はさっと右手を出す。彼女はまだイエスの返事をしていない。
 まっすぐ差しだされた手に女性はとまどい、切れ長の双眸を高遠と私に交互に走らせる。
 高遠の持って生まれた力なのだと思う。夏空のように明るい笑顔は万有引力と同じベクトルで人を惹きつける。
 綾はふっと小さく息を吐くと、にこっと微笑み右手を伸ばし高遠と握手を交わす。私は慌てて立ちあがろうとしてパイプ椅子を倒した。高遠が握手したまま左手で私の手をつかみ、二人の手の上に乗せる。部室の古いスピーカーからはサッチモの『What a Wonderful World』が流れていた。

 あの時なんで綾を誘ったのか高遠に尋ねたことがある。探していたのはドラムだったのにと。「ビジュアルは重要だろ」と片目をつぶる。バンドの人気のため。それは照れ隠しだ。高遠もそして私も、あの瞬間、綾にひとめ惚れしたのだ。私は呆けて動けず、高遠は動いた。それだけのちがいだ。
 私たちは練習に明け暮れ、たいていの時間を三人で過ごした。女子大のピアノ室を使うこともあった。高遠と綾が恋人になるのは時間の問題だと、はじめからわかっていた。
 付きあうことになったと告げられたとき、覚悟をしていたとはいえ、私は指先からすぅと冷たくなり胸に小さな穴が穿うがたれた気がした。バンドから抜けたほうがいいのだろうか。
「まあ、なんも変わらんけどな。これまでどおり三人で練習して、三人で遊ぶだけや」
 高遠は同意を求めるように綾をみる。綾もうなずく。
 なぐさめられているのか、バカにするなと思ったけれど。啖呵を切って離れていく勇気は私にはなかった。綾も高遠も、同じくらい大切だったから。
 ところが、驚いたことに高遠の言葉に嘘はなかった。練習だけでなく遊びにも当然のように「土曜の9時、四条大橋東詰め集合な」と私に告げる。それまでと何ひとつ変わらなかった。
「俺がおったらデートにならんやろ」と言うと、
「祐人がおらんと誰が俺たちのラブラブ写真撮るんや」
 そういって、太陽のように笑い私の肩に腕を回す。綾もころころと笑う。三人の時間が永遠に続くような気がした。 

 卒業すると私は京都市役所に、高遠は電気メーカーに、綾はアパレルに就職した。二人は数年で結婚すると信じていた。
 社会人になってまだ3カ月の7月はじめだった。高遠から話したいことがあると連絡があり、土曜の昼に久しぶりに三人で会うことになった。四条通りのアーケードにはBGMさながら祇園祭のコンチキチンが流れていた。
 とうとう結婚を決めたんか。披露宴の相談やろか。
 逸る心で高瀬川沿いのクラシック喫茶『フランソア』の重い木の扉を開けると、エルガーの『愛の挨拶』が聞こえてきた。

「6月末付けで会社を辞めた。アメリカでサックスの修行をする」
 かぶりついたミックスサンドを口から落とした。
「えっ?」
 綾と私は、ほぼ同時に引きれたような声をあげた。綾が口もとを両手でおさえ、目を見開いて高遠を凝視し固まっている。
 くそっ、綾にも相談してなかったのか。
 高遠は決断力も行動力もある。だから、たいていのことは一人で決め、周りを巻き込む。私は優柔不断だし、綾にいたっては約束の時間を忘れるようなうっかりしたところがあった。だから、私たちは頭を高遠に預ける癖がついていて、彼のリーダーシップに頼りきっていた。今から思えば、それも良くなかった。

「アメリカに立つ前に婚約しときたい」
 高遠は綾の前に赤い革張りの小箱を置く。
「給料の3か月分らしいけど、まだ、3カ月働いてへんし、アメリカに行くのに貯金はたいたんで。すまんけど、これは安物で仮や」
 綾は視線を小箱に固定したまま動かない。手は膝に置いたままだ。
 高遠はそんな綾を気に懸けるでもなくさっと蓋を開け、ハート型にルビーが3粒並んだリングを手にとると、綾の左手薬指に嵌めその手を握る。
「3年。3年待ってくれるか。それであかんかったら帰ってくる。祐人は綾を支えてやってほしい。こんなこと頼めるのは、お前しかおらん」
 高遠が頭を下げる。綾が私にすがるような目を向けている。綾のまなじりには今にもこぼれ落ちそうな滴が浮かんでいた。それが嬉し涙なのか、悲しみの涙なのか、私にはわからなかった。

 翌週の日曜、高遠は綾の両親に挨拶に行った。それまでにも何度か食事を共にしたこともあったそうだから、婚約を了承されるものと高をくくっていたのだと思う。だが、父親の怒りはすさまじく、二度と敷居をまたぐなと追い返されたらしい。
 高遠はそんなことで決心を変えるやつではなかったから、2週間後にはニューオーリンズに向けて旅立って行った。
 残された綾がかわいそうでね。パスポートは取りあげられ、電話の取次ぎはおろか手紙も処分される。そのことに気づいてから、綾宛てのエアメールは私の住所に送られてくるようになった。それを私が綾に渡す。綾と二人きりで会う機会が増えたことを皮肉に思ったよ。

 3カ月ほど過ぎたころだった。綾から職場に電話が架かってきた。そんなことはこれまでになかったから驚いた。
「今日、仕事終わってから会える?」
「飲みに行くか?」と尋ねると、
「ごめん。夕食は家で食べんとあかんから、フランソアで待ってる」

 綾はステンドグラスの下の席に座っていた。あの日と同じ席だ。偶然か、それとも綾が選んだのか。通りの灯りがステンドグラスの陰翳を綾の顔に浮かびあがらせていた。憂いを帯びた横顔はため息のでるほど美しかった。
「見合いをさせられるの」
 私が席につくのも待たずにいう。「どうしよう」と言ったとたん涙が堰を切って溢れだし、綾の美しい頬に筋をつける。
うたこともない人と……結婚…させ…られる」
 他人目ひとめもはばからず綾が泣く。私はどうしていいのかわからなかった。せめて好奇の視線を遮らなければと、向かい席から綾の隣に座り直し、ためらいがちに肩に手を置いた。私の胸に顔をうずめ泣きじゃくる綾の肩を撫でているうちに、胸に灯った小さな怒りの炎はしだいに大きくなっていった。

 ――なんで綾を泣かせるんだ。なんで綾をおいてアメリカに行ったんだ。せっかく就職したのに。夢を追いかける? 勝手だ。いい加減にしろ。こんなにも綾に愛されているのに。なんで苦しめるんだ。綾を支えてくれだと、ぜんぶお前のせいじゃないか。俺だって綾を愛してるのに、ちくしょう。

 細い肩を震わせて綾はくぐもった嗚咽を繰り返していた。
 その肩を抱きながら、こんなふうに抱きしめたかったんじゃないと思った瞬間、怒りが制御しきれなくなっていた。魔が差したといってもいい。
「俺と仮に婚約するか? そしたら見合いは回避できるんやないか」
 綾の肩を撫でながら耳もとで囁いた。
 綾は私の胸から顔をあげ、真っ赤に充血した目で私を見つめた。
 じっと黙っている。
 その沈黙の重さに、自分がとんでもないことを言ってしまったと悟り、取り消さなければと思ったが、喉がからからに干上がって言葉が出なかった。

(to be continued) 

第12話(12)に続く→


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