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『オールド・クロック・カフェ』4杯め 「キソウテンガイを探して」(8)

第1話から読む。
前話(第7話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』には、「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。時計に選ばれた人しか飲めない「時のコーヒー」は、時のはざまに置いてきた忘れ物に気づかせてくれる。店主の桂子が姉のように慕う瑠璃が、友人の環をともなってカフェを訪れる。時のコーヒーなど信じないという環に16番時計が鳴る。環は8歳の誕生日に、母が出て行った過去をもつ。30歳の誕生日に正孝からプロポーズされた環が「時のコーヒー」で見た過去は、22歳の誕生日のシーンだった。
当時の恋人の翔は、砂漠で2000年も生きるキソウテンガイという植物を研究するためナミビア行きが決まっていた。翔は環に指輪を渡して、その日のうちにナミビアに旅立つ。出発の日を知らされていなかった環は、また、誕生日に大切な人に捨てられたと思い込む。


* * * Ring * * *

「これが、キソウテンガイ?」
 ごつごつした赤茶けた石の転がるすきまを縫うように濃い緑のゴムベルトの束が、地を這って伸びている。ベルトの束を結ぶ中央では、表面にぶつぶつした腫物がついた厚い唇のようなものが、しまりなく口を開けている。こんなタラコ唇の怪獣がいたはず、と瑠璃は想像しておかしくなる。緑のベルトはその根元から左右に伸びていて、唇みたいなのは、周囲に鋲のついたセンスの悪いバックルのようにも見えた。
 瑠璃は腰に手をあてて見下ろし、変な植物、とつぶやく。
「これが、2000年も生きるん?」
「らしい。これはまだ50歳くらいやから、赤ちゃんなんだって」
「これで赤ちゃんかあ」
 うねうねと匍匐ほふく前進しながら伸びた葉の先端は、とうに展示スペースに収まりきらず縁石にそって曲げられている。十分に巨大だ。これが不毛の砂漠に生えているのか。
 瑠璃は仁王立ちで腕組みし、上体をかしげてのぞきこむ。
「なんか、すごいやん」
「えっ?」
「こんなに大きいのに、赤ちゃんって。2000年もほんまに生きるんやろか、灼熱の砂漠で」
「一対の葉だけで2000年って。永遠に添いとげるカップルみたいやね。よくさ、連理の枝とか、比翼の…えっと、何やったけ」
「比翼の鳥でしょ」
「そうそう。結婚式のスピーチでよく聞くやつ。あれって夫婦の象徴なんでしょ。似てるよね、この形。ここを中心に、向き合ってるみたいにみえる」
 しゃべりながら瑠璃は、中央の楕円を指さす。
 環は「あ」の形に小さく口をあけて、固まる。あの日、翔も同じようなことをぼそぼそと照れながら言ってた……気がする。
 ――カップルみたいに見えるやろ。
 翔の声が耳管の奥でかすかに響く。ナミビア行きに動転して聞き飛ばしていたけれど。翔は何が言いたかったのだろう。
 巻き戻せない時間に胸がきしむ。

「環、指輪を見せて」 
 瑠璃が環の胸の前に、手のひらを向ける。

 植物園を訪れる前に環の自宅マンションに寄った。指輪を探しに自室に向かう環の背に、一緒に探そうか、と瑠璃は声をかけたが、大丈夫やから待ってて、といなされた。
 整理整頓の行き届いたリビングの掃き出し窓から、ベランダ越しに白っぽい石造りの市庁舎の尖塔が見える。8歳から環がずっと見続け心の拠り所としてきた風景。瑠璃は幼い環のまなざしを追う。ヒヨドリがベランダに舞い降りて、何かをついばむと、せわしなく飛び立った。
「お待たせ」静かな声に驚いて振り返る。5分も経っていなかった。
 そんなにすぐに見つかるものを、今日までほんとうに忘れていたのだろうか。瑠璃は脳の奥でいぶかしがる。
 環は理性的で論理的で隙がなくて。「結果には原因がある」なんて憎たらしいことを平然というけど。小さな矛盾や綻びがけっこうあるくせに、ちっとも気づいてなくて。そこが環のかわいいところだと思う。本人は絶対に認めないだろうけど。瑠璃はくすっと小さく笑う。
「なに?」環がめざとく詰問する。「なんもない。はよ、植物園に行こ」瑠璃は環の肩をぽんと叩いて、玄関へと向かった。

 

 ショルダーバッグから取り出した白いジュエリーボックスを、環はためらいながら瑠璃の手のひらに乗せる。
 ガラス張りの天井から冬の日ざしがそこはかとなく降る。
 季節にそぐわない熱気に、首筋にうっすらと汗がにじむ。
 開けるよ、と念を押し、環がうなずくのを確認してから瑠璃はそっと蓋を開けた。
 メレダイヤが光に反射して、プラチナのリングが輝く。
 ごく小粒のダイヤの両側に、ほっそりした花びらにも葉にも見えるデザインがほどこされていて、葉脈のような線が2本ずつ浅く彫られていた。
 瑠璃は蓋をあけたまま、キソウテンガイの前にかがむ。
「ねぇ。似てない?」
 環も隣にしゃがみ、瑠璃の伸ばした手の先の指輪とキソウテンガイを見比べ、そう言われれば、と瞠目どうもくする。
 瑠璃は指輪を台座から抜き取って、冬の淡い日にかざす。
 ダイヤがチカッと光る。
 その光の反射に薄く目をすがめて、瑠璃は「あれ?」と気づいた。結婚指輪のようにリングの内側に文字が刻まれている――。

 ――Waiting for you in Namibia

「ウェイティング フォー ユー イン ナ…ミ…ビア?」
 最後の単語をたどたどしく一文字ずつ声にし、これで合っているのかというふうにかすかに語尾をあげる。
「ナミビアで待っている? 君をナミビアで待っている、っていうメッセージじゃない? これは」
 瑠璃が興奮して声が1オクターブあがる。
「ほら、環も見て」
 キソウテンガイを見つめたままフリーズしている環の手をつかんで、その手のひらに指輪を乗せる。
 環はしばらくじっと手のひらの上の指輪を見つめていた。それから、ようやく小刻みに震える右手で指輪をつまみ、目の前にかざす。リングの内側に刻まれている英文字を確かめるように目でたどるそばから、アルファベットが霞んでにじみだす。焦点が定まらない。切れ長の目尻から涙が筋となってこぼれだした。

 ――Waiting for you in Namibia.  君をナミビアで待っている。君をナミビアで……。
 最後に「愛してる」とつぶやいてキスした翔を思い出した。
 ぼさぼさの頭で、よれよれのダウンジャケットで。
 翔のボキャブラリー・リストには決して並んでいない単語。少女マンガのようなセリフに、どうしたのかと環はとまどうばかりで、深く考えることをしなかった。そのひと言に、翔がどれほどの想いを乗せたのかを。

 キソウテンガイに似た指輪。指輪に刻まれたメッセージ。「愛してる」とセットになったキス。ナミビアへの旅立ち。
 すべてが一本の糸でつながっていたのだ。
 翔は、翔なりの精いっぱいで伝えようとしていたのだ。
 それなのに。
 捨てられたと思い込んで、携帯も着拒にして、記憶の奥底へと粗大ゴミのように無理やり押し込めて鍵をかけ、目を逸らし、きれいさっぱり忘れることで環は心を守った。傷つくことを恐れて。「結果には原因がある」と豪語しながら、原因を検証することを怠った。

 ――あれから8年。もう時間は巻き戻せない。もう遅い。もう何もかも手遅れね。
 後悔が圧搾機のように胸を締めつけ、涙を絞りだす。号泣とは違う。嗚咽おえつはない。ただ、両のまなじりから涙がとめどなく流れ落ちるだけだ。頬が川になる。
 瑠璃は、静かにただ涙を流す環の頭をつかみ自分の胸に掻き抱く。
 環の頭に顎を預け、右手の薬指でそっとみずからの目尻に浮かんだ玉をぬぐうと、瑠璃はバッグからスマホを取り出し片手で操作しだした。

「ナミビアと日本の時差は7時間。今は1時を回ったところだから、ナミビアは朝の6時ね。ちょうどいいんじゃない」
 環が顔をあげる。
「着拒にしたって言ってたけど。翔さんの番号まで消しちゃったの?」
 古い記憶をたどっているのだろう。涙に溺れたままの環の目が泳ぐ。
「あの後すぐにスマホに替えて。データはショップで移してもらったから、たぶん残っていると思う」
 ふだんより低くかすれた声で、途切れ途切れにいう。
「そう。なら、良かった。ここでは落ち着かないから、うちに行こ」

(to be continued)

第9話(9)に続く→


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