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大河ファンタジー小説『月獅』    第1幕:第3章「森の民」<全文>

第1章「白の森」<全文>は、こちらから、どうぞ。
第2章「天卵」<全文>は、こちらから、どうぞ。

天、裁定の矢を放つ。
光、清き乙女に宿りて天卵となす。
孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。
正しき導きにはごととなり、
悪しきいざないには禍玉まがたまとならむ。 

『黎明の書』「巻一 月獅珀伝」より跋

第1幕「ルチル」

第3章「森の民」

<あらすじ>
レルム・ハン国にある「白の森」を統べる白の森の王は、体躯が透明にすける白銀の大鹿だ。森の周囲を四村が取り囲み、森と共存しながら栄えてきた。ただし、人は白の森に入ることはできない。唯一、心からの祈りが王に届けば、森は開かれる。ある晩、星が流れた。その一つが、東のエステ村領主の娘ルチルに宿り、ルチルは「天卵」を産む。天卵から生まれた者は、国を乱すとも、国を統べるとも伝えられている。そのため、ルチルと天卵は王宮から狙われ、トビモグラの案内で地下道を通って白の森をめざす。六歳の夏に日射病で倒れたルチルは、白の森で介抱された過去をもつ。今、ルチルは、白の森の王が地下に沈めたという伝説のルビ川にいる。滝のカーテンが森への侵入を阻んでいる。

<登場人物>
ルチル‥‥‥エステ村領主の娘(十五歳)
シン‥‥‥‥森の民の末裔
ラピス‥‥‥森の民の末裔・シンの娘(三歳)
白の森の王‥「白の森」を統べる白銀の大鹿
ミミナガアライグマ‥日射病で倒れた六歳のルチルを介抱した。

 どのくらい祈っただろうか。
 ごうごうと耳膜にこだましていた水音が、不意にぴたりと止んだ。ルチルは、おそるおそる目を開ける。
 つい今しがたまで、白い水煙をあげ瀑布となっていた滝が消えていた。
 滝のカーテンが開いた。白の森が開いたのだ。
 舟がすべりだす。
 向こう側にはまばゆい光の降りそそぐ空間が広がっていた。
 この光を知っている。六歳の夏、日射病から目覚めたルチルをつつんだのも、きらきらと降る光の粒だった。
 ルチルは見あげる。そこはもう洞窟の閉じたくらい天井ではなく、どこまでも高く抜ける白い天があった。銀の葉のほどけたすき間を縫って、数えきれないほど光の筋が射していた。
 ああ、光の森、白の森だ。
 緊張がほどけると、ひと筋、涙の粒が頬をつたった。
 気づくと川は地上に出て、ゆるやかに蛇行しながら緑のなかを流れる小川となっていた。うっすらと記憶に残る、幼い日に目にした美しい森の光景。緑の下草が幾重にも萌え、銀に光る苔が層をなし、樹々は枝葉を気ままに伸ばし豊かな緑陰がまぶしく涼しかった。
 けれども、ゆっくりと進む舟から眺めた川べりは、何かがおかしい。
 あの日、ルビ川は見なかった。だが、ルチルが横たわっていたしとねはふかふかで、周りはあふれんばかりの緑に囲まれていた。褥の周りには、好奇心むきだしの異形いぎょうの毛ものたちが数えきれないほど集まって賑やかだった。森は、光と緑と活気に満ちあふれていた。
 それが、どうだろう。
 川原を縁どる緑はまばらで、なめらかな絨毯のように広がっていた苔の層はほとんどなく、黒っぽい土壌がいたるところで露出している。樹々は高く天に向かってそびえているが、幾重にも折り重なっていた葉もすかすかして、かつてはまぶしい光しか見えなかった空が雲まではっきりと見える。なによりも毛ものたちの気配がなく静かだった。
 卵を宿してから外出を控えていたとはいえ、部屋の窓から遠く眺める森に変わりはないようにみえたのだが。いったい森に何があったのか。
 ルチルは急に不安になった。白の森に受け入れられさえすれば、ミミナガアライグマのおばさんや森の毛ものたちといっしょに天卵を育てていけると思い込んでいた。森が守ってくれるのだから、もう脅える必要はなくなるのだと。だが、そのかんじんの毛ものたちの姿が見えない。
 しばらく進んで、舟は止まった。
 ルチルは土があらわになった川原に降りた。しんと静まっている。耳に届くのは風が揺らす葉ずれだけ。だが、舟から眺めていたのとはちがい、なんだろう、微かではあるが、たくさんの目が息をこらして窺っているような張り詰めた気配を感じた。
 
 ――ああ、そうか。敵意のないことを示さなければ。
 ルチルは羽織っていた緑のマントを脱いだ。卵を入れている袋も降ろすべきか悩んだが、万が一卵を奪われてはいけないと思い直し、肩から提げたままにした。よく見えるように、川原のいちばん開けた場所に立ち、両手を高くあげてゆっくりと一回転してみせる。なんの反応もなく、一匹の毛ものも姿を現わさない。
 このくらいでは、警戒はとけないか。
 ルチルはひとつ大きく深呼吸すると、意を決して、長いスカートの裾に手をかけ、羞恥心をかなぐり捨ててスカートを頭の上までまくりあげた。
 波のようなどよめきが川原の向こうの藪からも、樹々の梢からも、川の茂みからも起き、森が揺れた。剥かれた玉ねぎのような格好で立ち尽くしているルチルを、「もう、いい。もう十分だ」とかすれた声が抱きしめた。ルチルは持ち上げたスカートから手を離す。はらりと落ちたスカートをよけて姿を現わしたのは、あの日のミミナガアライグマだった。ルチルは懐かしさに瞳を輝かせ、抱きしめようと両手を伸ばす。
 と、そのとたんにミミナガアライグマはさっと身をひるがえして、十メートルほど先の藪に飛び込んだ。伸ばした両腕はくうを切る。抱きしめるつもりで前のめりになっていたため、ルチルはバランスを崩して倒れそうになり、慌てて卵の袋をかばって川原に膝をついた。キルトをまさぐり卵が無事なことを確かめてから、ひとつ息を吐き顔をあげた。
 視線の先の茂みでは、ミミナガアライグマが後ろ足立ちして、心配そうにおどおどしている。ルチルが立ち上がって一歩を踏み出すと、 
「近づくんじゃないよ。病がうつっちまう」
 引きつった声が飛んできた。
 ルチルはその緊迫感に驚き、一歩を踏み出した体勢のまま固まった。そのときだ。
「ああ、動かないで。そのままでいてくれ」
 不意にのんびりとした声がかかり、ルチルは首だけを動かして目をみはった。男がひとり小さな子の手を引いて、川下から近づいて来る。白の森に人間? それも、子連れ? ルチルはとまどった。男はゆったりとした足取りで近づくと、懐から霧吹きを取り出し、ルチルの背中側から何かを吹きつけていく。正面にまわると、
「目と口を閉じて。両手をまっすぐ前に伸ばして」
 まるで体操を指導する口調でルチルに指示する。男の足もとで三歳ぐらいの子が取るべき姿勢を真似してみせる。
「そうそう。そのままだよ」
 しゅっと音がするたびに、ツンとした臭いが鼻腔を刺激する。固く目を閉じていても消毒液を吹きかけられていることがわかった。
「申しわけないんだけどさ。さっきみたいにスカートをまくってくれないかな。アライグマが触れたところを消毒しておきたいんだ。できるだけ見ないようにするから」
 ルチルにためらいはなかった。さっとスカートをまくりあげる。
 悪いね、と言いながら男は手早く霧吹きする。
「もういいよ」
 スカートを手放すと、低い位置でセルリアンブルーの目がルチルをとらえていた。深い海の色だ。ルチルが微笑みかけると、さっと男の背後に隠れる。だが、気になるのだろう。男の衣の裾をぎゅっとつかみながら、おそるおそる顔をのどかせる。小動物さながらの動きに、ルチルの口もとに笑みがこぼれる。
 しぜんと笑みが湧いたのなんて、いつ以来だろう。天卵を宿してからの日々、就寝中でさえ緊張していた。それが、ふっと解かれた気がした。
 銀の髪を後ろでひとつに結わえた男は、自分にしがみつく子の頭に大きな手を置く。子が見あげる。ただそれだけの光景が、ルチルの胸にあかりをともす。思わずキルトの上から卵にほおずりした。
 男は森を映したような緑の丈の長い上衣を腰紐でくくり、なめし革の編みあげブーツを履いていた。子どもも同じ緑のワンピースを着ている。だからだろうか。光の具合によっては、目を凝らさなければ森と同化して姿がわからなくなりそうだった。男の腰紐にはいくつも袋がぶら下げてあり、木彫りの鞘におさめたナイフも一挺さげていた。
「悪かったな。恥ずかしい思いをさせて」
 ルチルは首を振る。
「ふた月ほど前から、謎の病が毛ものたちの間で流行ってな。熱が出て咳き込むんだよ。彼らは人とちがって多少の熱くらいじゃ平気だが。喉がそうとう腫れてね。食事がとりづらいから、体力が落ちて弱る。というわけで、ちょっと待っててくれるか。診てくるから」
「お前も、ここで待ってろ」
 男はついて来ようとする子を手で制し、ミミナガアライグマがひそんでいる藪へと向かった。
 残された子は、ワンピースの裾を握って立ちつくす。
 弟妹の子守をしながら大きくなる村の子どもたちは、小さな子の扱いに慣れている。だが、領主の娘で一人っ子のルチルには、こんなときどうすればいいのかがわからなかった。
 しかたがないので、隣にそっと立つと。
「とと」
 うっかりすると風にまぎれそうな声をもらして、男のいる方角を指さす。
「やさしいお父様ね」
 ルチルがあいづちを打つと、こくんとうなずき、肺の空気を全身でしぼりだすように膝に両手をついて体を半分に折り、「ととー」と叫ぶ。
 男はふり返って手を振ると、ゆっくりとした歩調で戻って来た。
 腰にさげた袋のひとつから霧吹きを取り出して子に渡す。子が青い瞳を輝かせ、慣れた手つきで父親に消毒液を振りかけてまわる。
「おそらく人間に伝染うつることはないだろう。だが、油断はできない。それに、ルチル、君は天卵を育てなきゃならんからな」
 男はルチルの抱えている袋を指さす。
「どうして、わたしの名前と卵のことを知って……。それに、どうして人間が白の森に……」
 ルチルはとまどいと混乱を払うように、頭を大きく振る。
「ああ、失礼。自己紹介がまだだったな」
「おれは森の民の末裔のシン。そして、この子は娘でラピス。もうすぐ三つになる。森の民は、おれらでおしまいさ」
「森の……民?」
 そんな種族がいると聞いたことがない。『黎明の書』にも登場しない。学校でも教わらなかった。
「そんな民が、いるの?」
「知らないか。まあ、外の世界じゃ、おれたちの存在はタブーだからな」
「タブー? なぜ」
「うーん、どっから話せばいいんだ」
 シンは腕組みをして天をあおぐ。
「森のなりたち、この世界のなりたちにもかかわるからなぁ。一から話すと半日はかかる。それに、どこまで話していいかも、わかんねぇしな。まあ、早い話が、おれたちは居てはならない存在、消された存在、つまり存在自体が秘密なんだよ」
 それって、どういうこと? ルチルはますます混乱する。
 尋ねようとしたそのとき、背後から何かがぬっと現れた。質問を遮るかのような絶妙のタイミングだった。
「ルチルか、久しいな。天卵を宿したか」
 足音は聞こえなかった。近づく気配もなかった。
 ルチルはびくっと反射的に身を強張らせる。
 おそるおそるふり返ると白く輝く鹿の王がいた。
 だが、よろこびに染まりかけた笑顔は一瞬で固まり、安堵の吐息は喉の手前で霧散した。
 記憶の奥底にたいせつにしまっていた御姿みすがたとの、あまりの違い。ルチルは驚きを通り越して絶句した。
 かわらず胴体は白く透けていたが、その体躯は明らかにひと周り、いやそれ以上に小さくなっている。六歳の夏には見あげる山のように感じた巨躯も、今は鼻先がルチルの目と同じ高さでしかない。シンの頭のほうがずっと高い位置にある。これではふつうの鹿と変わらない。
 ――白の森の王に、何があったの。
 謎の流行り病に脅えている森。
 ――白の森に、いったい何が。

 王の来臨にシンが片膝をついて川原に跪拝きはいした。あわててルチルもそれにならう。
「待たせて悪かったな。川を閉じるのに難儀いたした」
 ――川を閉じる? 
 ルチルはそっと顔をあげ、そして目をみはった。王の背後にあるはずのルビ川が、つい先ほどまで流れていた川が、一滴も残さず干あがっている。
「王様、森は、‥‥白の森にいったい何があったのですか」
 森を映した深く濃い翡翠の瞳がルチルをとらえる。躰が小さくなっても王は王であった。辺りを薙ぎはらってあまりある懐の深い威厳。
 ルチルが、森が、王の言葉を待っていた。
「きっかけは、しょくであろうな」
「蝕?」
 ルチルがオウム返しで訊く。
「ルチルよ、これから話すことは森の存続にかかわる秘事である」
「故にわれはまだ迷っておる、そなたに話すべきか否かを。話した後で、そなたの記憶を消すべきか否かを」
 ルチルは唾を飲み込む。
「王よ、僭越ながらわたくしめの考えを申し上げてもよろしいでしょうか」
 ルチルの緊張を察したのか、シンが声をあげる。
「シンか、申してみよ」
「先にも奏上いたしましたように、流行り病の源はルビ川の水と考えられます。植物の枯れが川に沿って顕著だからです」
「うむ」
「ルビ川の水源はノリエンダ山脈にあります。さすれば山脈を擁するノルテ村でも病が広がってしかるべきです。ですが、偵察に行かせた鷹の報告ではそのような事態は見受けられなかった。それに、森の外ではルビ川の存在自体が今や伝説でしかなく、ルビ川の水脈を知る人間などいないはず。それなのに感染源がルビ川であること。また」
 シンはここでひと息つくと王に視線を据える。
「蝕の年でさえなければ、川原の苔や葦に異変が見つかった時点で、本来の王の力を持ってすれば食い止めることができたのではございませんか。
 一連の事態には、作為的なものを感じます。それも、非常に巧妙な。じわじわと森をむしばむような巧妙さです。それらが蝕の年に起こった。これは偶然でしょうか。相手はおそらく、蝕のことを知っている。今年がその年であることも。王もお気づきなのではありませんか。だからこそ、『きっかけは蝕だ』と仰せられた。違いますか?」
 跪拝きはいしたまま顔をあげて訴えるシンの翡翠に輝く瞳を、王はまっすぐに受ける。それは王と同じ森の色だ。
「そちには、かなわぬ。続けよ」
「森の機密を知っているものがいる。白の森に精通しているといっても過言ではありません。けれど、それがどこの誰なのか。ノルテ村のものなのか、ノルテ村を陥れようとするものなのか。あるいはもっと別の思惑をもつものなのか。現時点で我われには見当もつかない。姿の見えない敵と対峙するには、外の世界に味方を増やすしかないのではありませぬか。
 ですが、やみくもに誰でも、というわけにもまいりません。そもそも森は人間を排除することで成り立ってきました。だから、緊急避難的に受け入れた者も、記憶を消して外に帰す。ところが、九年前に受け入れたルチルの記憶は消さなかった。私は王の判断をいぶかしみました。だが、今となっては慧眼に感服せざるを得ません。ルチルは王との約束を、森の秘密を守り、いみじくも自身が信頼に値することを証明いたしました。加えて、天卵の母となった。それらを勘案すると、ルチルほどうってつけの人間はいないように思うのですが、いかがでしょうか」
 王は黙したままシンとルチルを見つめる。
穿うがった見方をすれば、九年前にルチルが白の森と縁をもったことも、何やら見えざる天意のように思えてなりません」
 シンが最後のひと押しをする。
「まこと、そうかもしれぬな。相わかった。ルチルには蝕の仔細を語るとしよう。だが、ここでは支障がある。萌えの褥しとねに参ろう。ついて来るがよい」

第3章「森の民」<了>

第4章「蝕」に続く。

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