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小説『オールド・クロック・カフェ』 2杯め 「瑠璃色の約束」(1)


 その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、春になると軒下で忘れな草がほほ笑む。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。

 そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。

Old Clock Cafe

6時25分のコーヒー       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の紅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家製クロックムッシュ‥‥350円

 なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止めて、開け放たれた格子戸から中を訝し気に覗きこむ人がいる。

 いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
 あなたが、今日のお客様です。


* Second Cup of Coffee *

 からからから。
 格子戸が小気味いい音を立てて開けられた。さっと風が立ち、花びらが二、三片ひらひらと迷いこみ黒光りする土間に模様をつける。それをよろこんだのか、店の壁を埋め尽くす32個もの柱時計がうれしそうにめいめいに時を打ち、指揮もないのにシンフォニーを奏でていた。
 春の朝の凛とした冷気に、しゅんしゅんとケトルが声をあげ湯気をくゆらせる。通り庭の軒下で忘れな草が青い小さな花を揺らしていた。

「桂ちゃん、おはようさん」
 片手をあいさつ代わりにすっと挙げて、藍の作務衣姿の泰郎さんが入って来た。
 桂子は通り庭に面した格子戸の桟を拭いていた手をとめて振り返り、「おはようございます」とえくぼを浮かべる。

「今朝は時計がにぎやかやな。ようやく俺を歓迎してくれる気になったか」  ぼーん、ぼーんと気ままに声をたてる柱時計を一瞥しながら、カウンターに腰をおろす。
 近くの茶わん坂でガラス工房を営む泰郎さんは、祖父のころからの常連さん。いつも8時過ぎくらいにふらりとやって来て、工房を開けるまで2時間くらい腰を落ち着ける。春とはいっても花冷えの日もあるというのに、素足にクロックスを引っかけ、手には新聞を携えている。「作務衣にクロックスでも別にええねんけど。でも、あれで接客はどうかなと思うのよね」娘の瑠璃ちゃんがよく愚痴ってる。

 瑠璃ちゃんは、わたしより8歳上でことし30歳になる。そして、この6月10日に結婚する。
 瑠璃ちゃんがカフェにやって来るのは、たいてい休日の昼過ぎ。だから、朝一番の泰郎さんとかち合うことはない。だって、お父さんがいたら桂ちゃんとゆっくり話ができへんやん。

 大きなアーモンドアイと小柄な背格好のため年齢よりもずっと幼く見られがちの瑠璃ちゃんは、黙っているとビスクドールのように愛らしいのだが、口を開くとさばさばした性格が姿を現し、たいていの人はそのギャップにとまどう。
「いやぁ、ぎっりぎりセーフって感じかな」
 瑠璃ちゃんの誕生日は6月15日で、結婚式はその5日前だから、「詐欺みたいなもんよね」という。
 詐欺とは穏やかならぬ言いようだが、訳があるらしい。彼女がまだ25歳のとき。祇園に『イル・プリモ』という高級イタリアンがオープンして話題になった。ディナーだと2万円はくだらないと噂で「一度は行ってみたいね」と職場で話していると、同僚男性が「お前が30歳になるまでに結婚できたら、そこのコース料理おごったるわ」と賭けをもちかけられた。結婚できなければ、逆に瑠璃がご馳走するルール。まだ5年もあったのに「この勝負もらったも同然や」って言うのよ、失礼よね。

「結婚式の日取りを6月10日にしたのは賭けのためやないよ」
「桂ちゃんの誕生日でしょ。その日」

 近所の人や常連さんは、わたしのことを「桂ちゃん」と呼ぶ。
 桂子と名付けたのは祖父だ。六月十日の「時の記念日」に生まれたことを祖父は誰よりもよろこんだ。「時計の神様が孫を授けてくだすったんや」と。小学校にあがるまで店の二階で祖父母と母と四人で暮らしていた。
「桂はな、月にある木のことや。月の桂いうてな。西洋には月桂樹いうのもあるんやで。太陽の神様アポロンの木や。月と太陽、どっちも関係がある。時の記念日に生まれた子にはぴったりのええ名前やろ」
 祖父の膝にのって繰り返し聞いた。柱時計たちが祖父の話にうなずくように、ぼーんぼーんと唱和する。

 瑠璃ちゃんと出会ったのも店だった。
 瑠璃ちゃんも一人っ子。わたしも一人っ子。歳の離れたお姉ちゃんができたみたいでうれしかった。八坂の塔でかくれんぼしたり、あちこちの路地を猫を追っかけて探検したり。お気に入りだったのが庚申堂。赤や黄、青、緑のカラフルなくくり猿がかわいくて。青色がいくつあるかふたりで数えた。どこに行くにも瑠璃ちゃんが手を引いてくれた。


「じいさんの具合はどうや」
 泰郎さんが新聞を広げながら訊く。
「こないだ退院して、今、うちに居てる。元気にしてるよ」
 祖父は肝炎で入院するまで店の2階で暮らしていたが、一人暮らしをさせるのは心配だと母が言いだし、退院後は桂子の家にいる。
「ここにはもどって来んのか」
「カフェはお前にまかせたさかい、憧れの隠居生活を楽しむわって」
「時計のメンテナンスにときどき来るけど。あとは、弘法市ひやかしに行ったり。句会にも入ったみたい」
「元気で何よりやな」
 泰郎が広げたばかりの新聞をたたんだり、また広げたりしながら、桂子をちろちろ見る。どうも、何か言いたげだ。口をなかば開けてはためらい、水のグラスに手をやる。そういえば、注文もまだだった。


 先週の土曜日にカフェに現れた瑠璃から、桂子は重要なミッションをさずかっていた。
「ここの隠れメニューに『時のコーヒー』ていうのがあるやろ。忘れ物に気づかせてくれるいう不思議なコーヒー。あれ、うちのお父さんに飲ませてくれへんやろか」
 瑠璃がつぶらな瞳をさらに大きく見開いていう。
「瑠璃ちゃんのお願いは叶えてあげたいけど。そればっかりはなぁ。うちの力ではどうしようもないねん」
「そこに番号のついた小抽斗があるやろ。豆は時計の番号ごとに抽斗に入ってるんやけど。時計が鳴らんと、ただのコーヒーやねん」
 カウンターの後ろにある薬箪笥の小抽斗を開けてみせる。
「時計に気に入られんと、あかんみたい」
 桂子が、ほんまにごめん、と頭をさげる。
「そっかぁ。時計に選ばれんと、あかんのかぁ」
 瑠璃がため息をつく。
「うちのお父さんじゃ、時計も気乗りせんよね」
 カウンターに座っていた瑠璃は、振り返って店内の柱時計を見渡す。
「なんか、思い出してほしいもんがあるん?」
「うん、ちょっとね。まあ、でも。すっかり忘れてるところが、お父さんらしいねんけど。しょうがないか」
 瑠璃はいつになく、少し寂しそうに笑った。


「泰郎さん、いつものでええの?」
「ああ。トーストは厚めで‥。お、これ俺の作品やな」
 口のすぼまった小ぶりの涙形のガラスの器を指さす。白っぽい気泡がリズミカルに浮かんでいて、生けている青い可憐な花がよく似合っていた。
「この花、何ていうんや」
「忘れな草」
「へえ。これが忘れな草か」
 これまで花になど興味を示したことのなかった泰郎が、淡いブルーの小さな花をしみじみと見つめている。やっぱり今朝の泰郎さんは変だ。

 花を眺めていて気づいたのだろう。欅の一枚板のカウンターの角に束ねて置いていた大判のハガキを手に取る。
「あ、それ。『時のコーヒー』を飲まはったお客さんのお父様が画家さんで。四条西洞院で個展を開いてはって。その案内状」
 あれから亜希が20部ほど届けてくれていた。
「みごとな空やな」
「でしょ。実物はもっときれいやった」
 泰郎はハガキの表と裏を交互にひらひらと返す。
「このお客さん、『時のコーヒー』を飲んだんや」
「その画家さんの娘さんがね」
「ええなぁ。俺なんか長年通ってるのに、いっぺんも飲んだことないで」
「泰郎さん、時のコーヒー、飲みたいの?」
 意外なことに泰郎から引っかかってくれて、桂子は内心どきまぎする。
「飲みたいっちゅうか」
 泰郎がためらうように上目づかいで桂子をちらっと見る。ほんの数分、いや数秒だったのかもしれない。沈黙が時を止める。カッチカッチと時を刻む柱時計の鼓動と、しゅんしゅんと湯気をあげるケトルの呼吸だけがこだましていた。静寂を破ったのは、通り庭の花水木の梢で羽を休めたひよどりの甲高い一声だった。

「桂ちゃん、瑠璃からなんか聞いてへんか」
 桂子が首をふる。
「もうすぐ花嫁になるいうのに、瑠璃のやつ、だんだん不機嫌になっていくんや。ふつうは花嫁の父が不機嫌になるもんやろ」
 泰郎が相槌を求めるように桂子を見る。
「男手ひとつやったから。しぜんと小学生のころから家事をやりだして。気ぃついたら、俺のほうが面倒みられてるみたいになってもてな。結婚が遅なったんも、俺のことが気がかりやったからや」
「せやから、結婚が決まって俺はうれしいねん」せやのになぁ、とため息をつく。
「俺がなんか忘れてるんやろな」
 泰郎にしては勘が冴えていることに、桂子は驚いた。
「泰郎さん、それ当たりやわ。こないだ瑠璃ちゃんが来て、お父さんに時のコーヒーを飲ませてほしいって頼まれたとこやの」
 泰郎が「やっぱりか」と目をみはる。
 瑠璃が泰郎に何を忘れているかを告げれば済む話なのだが。
 でも、瑠璃ちゃんはお父さんが忘れていることが悲しいんや。目の前でうなだれている泰郎を見ながら、桂子は瑠璃の寂しげな顔を思い出す。

「これはうちの仮説やねんけど」
 泰郎が顔をあげる。
「席が関係あるような気がする」
「席?」泰郎が怪訝な顔をする。
「時のコーヒーやけど、常連さんで飲まはった人っておらんような気がして。なんでやろて、考えたの」
 桂子は漏斗にネルをきせ、挽きたての豆をあけると、ケトルの湯を少し注いで粉を蒸らす。かすかにコーヒーの甘い薫りがただよう。
「常連さんは、たいがいカウンターに座りはるやろ」
「そら、じいさんや桂ちゃんと話したいからな」
「うちが店継いでから時のコーヒーを飲まはったお客さんは二人。二人とも飲んだあとで、居眠りしはってん」
「ああ、それは聞いたことあるな」
 コーヒーの粉がひと粒ひと粒目覚めて、メレンゲ菓子のようにぷくりと膨らむのを確かめると、桂子はゆっくりと円を描くように湯を注ぐ。

「カウンターの椅子にも背もたれはあるけど。でも、ここで居眠りしたら、転げ落ちてしまいそうやん」
「そやな」
 カウンターの椅子はいわゆるスツールタイプで、背もたれはそれほど高くない。
「だから、テーブル席でないとあかんのかなって」
 ネルをつたってコーヒーのしずくが落ちてゆく。深く濃い香りが空気に浸みてただよいはじめる。
「泰郎さん、ものは試しでテーブル席に座ってみるのは、どう?」
「せやな。ダメもとで試してみるか」
 泰郎が新聞をたたんで立ちあがり、背中をカウンターにあずけながら尋ねる。
「で、どのテーブルがええんや」
「テーブルはどれでも同じちゃうかな。一人めのお客さんは前庭側のテーブルで、二人めは通り庭側やったから」
「ほな、俺はまん中のテーブルにしよか」

 泰郎がぱったぱったとクロックスの音を響かせながら、新聞を手に中央のテーブルに向かう。桂子は水のグラスを取りかえ、焼きあがったトーストといしょに盆にのせカウンターを出たところで立ち止まった。店中の柱時計を左から右へと順に見渡し「お願い。だれか、瑠璃ちゃんの願いを叶えてあげて」とつぶやく。

「この椅子、ほんまに座り心地ええなぁ」
 泰郎が新聞をテーブルに置いて、ゴブラン織の生地が張られた椅子の背もたれに体をあずける。桂子が水のグラスとトーストの皿をテーブルに並べたときだった。

 くるっぽー、くるっぽー。
 前庭側の窓の上に掛けられている鳩時計から、鳩が出たり入ったりしながら少しくぐもった鳴き声をあげた。幼いころ瑠璃と桂子が飽きずにながめた時計だ。

「泰郎さん、8番の鳩時計が鳴ったよ」
 桂子は泰郎と顔を見合わせ、思わずハイタッチする。
「よっしゃ、これで俺も時のコーヒーを飲めるんか。桂ちゃんの仮説のおかげや。おおきにな」
 泰郎は、まだ、時のコーヒーを飲んでもいないのに目尻にうっすらと涙をにじませている。

「大至急、8番の時のコーヒーをご用意いたします」
 桂子は盆を脇にはさんで、おどけて敬礼のポーズをとる。踵を揃えてくるっときびすを返すと、盆を胸に抱えカウンターまでスキップのような小走りをしながら、心のなかで「瑠璃ちゃん、よかったね」「鳩時計、ありがとう」と何度もつぶやいた。


(to be continued)

(2)に続く→


「1杯め」の話は、こちらから、どうぞ。

https://note.com/dekohorse/m/ma90b61796f3b


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