大河ファンタジー小説『月獅』 3
はじめから読む。
前話<第1章:白の森(2)>から、読む。
第1幕「ルチル」
第1章:白の森(3)
「ああ、もう、やかましいね。お黙り」
アライグマだろうか。でも、ちょっと違う。異様に耳が長い。お父様の書斎にある『絶滅生物』という図鑑で見たような気がする。たしかミミナガアライグマというのではなかったか。二本の後ろ足で立って、ルチルを取り囲む毛ものたちをふさふさとした尻尾で払いながら近づいてきた。手には大きな蓮の葉をもっている。
「さ、これをお食べ」
蓮の皿には、ピンポン玉くらいの、ぷるぷるとふるえる白っぽい半透明のゼリー玉のようなものが乗っていた。
――食べても大丈夫なのか。それよりも、ここはどこなのだろう?
確かめようと、ルチルはおずおずと体を起こした。寝ていたのはベッドではなくて、幾重にも重なった草の上だった。さまざまな植物や苔が層をなし、ふかふかして花や草のいい匂いがした。体を起こした拍子に、何かがルチルの額からぽろりと落ちた。拾いあげると、銀色に輝く苔の塊だった。触ると冷んやりする。熱を出すといつもお母様は濡らした手拭いで額を冷やしてくれる。苔が貼りついていたおでこを触ると、かすかに冷たかった。
「あんたはね、お日さんにやられて倒れとったんだよ。どれ」
ミミナガアライグマはルチルの額に鋭い爪があたらぬよう、そろりと肉球部分をあてる。
「熱はさがっとるね。ほら、これをお食べ。喉が渇いとるだろ」
ルチルはそっと指でつついてみる。ぷるんとした弾力があった。そのみずみずしい触感に体が反応したのだろうか、急に喉の奥が干あがってひび割れるような苦しさをおぼえた。
――お水、水が飲みたい。
ミミナガアライグマの手から蓮の皿を奪い取ると、透き通った半球形のゼリーをつるりと飲みこんだ。口の中でじゅっと崩れ、オレンジのような甘露が口いっぱいに広がりすべりおりる。カラカラだった喉が、たちまち潤った。
「やや、王、御自らのお出ましとは」
ざわざわとした声が驚嘆すると、それまでルチルを取り巻き騒いでいた異形の毛ものたちは、風になぎ倒された草のごとくいっせいに額づき道をあける。アライグマも蓮の皿をルチルに押しつけて、その場に平伏する。
白い光が歩いてくるようだ、とルチルは思った。まぶしくて、目を眇める。高い天の頂から筋となって降ってくる銀の光。それがオーロラのような帯になってゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
降りそそぐ光の中から、堂々とした体躯の一頭の大きな白く透ける鹿が現われた。
胴体は光に透け、銀に輝いている。目の錯覚ではない。ほんとうに半透明に透け、透明フィルムのごとき皮膚の内側では銀白色の骨格にさまざまな緑の植物が芽吹き絡まり合って伸び、花を咲かせていた。その姿は、森そのものだった。
白の森の王だ。ルチルはひと目で悟った。ここは白の森なんだ。
白の森を統べる王は、美しい銀色の大きな白鹿だと伝えられている。だが、その姿をまともに見た人間はいない。
神々しい御姿。なんて美しいのだろう。こぼれんばかりのエネルギーが光となって、身体の内よりあふれ輝いていた。
額の天頂から生える二本の琥珀の角は、複雑に小枝を伸ばす樹木のごとく高くそびえ、その枝角には鈴のような葉の蔦が絡まっている。体躯はエゾシカの二倍はあろうか。がっしりと雄々しく透ける膚の内に緑の宇宙を抱いている。森を映した深く濃い翡翠の瞳が、ルチルを射る。
ルチルは半身を起こし、呆けたように瞠目していた。
はっと我に返って、緑の褥からすべりおり、ひざまずく。
「鷹が倒れているそなたを運んできた。礼を言うがいい」
王の麾下に一羽の大きな鷹が翼をたたんで控えている。
「そなた、名は何という」
「エステ村領主イヴァンが娘、ルチルと申します」
幼くとも、領主の娘として礼儀作法は厳しくしつけられていた。
「ルチルか。金紅石の名であるな、佳き名だ」
「何故、あのような場所で炎天下に倒れていたのかは問わぬ。助けを求めるそなたの祈りは朕に届いた。ゆえに森は開かれた」
「もう、加減は良いのか」
王が傍らのミミナガアライグマに問う。
「はい、熱は下がりましてございます」
ルチルに対するのとは打って変わって、恭しく答える。
別の鷹が一羽、天の一画から急降下し、王に耳打ちする。白の王はひとつ大きくうなずくと、ルチルに深く澄んだ翡翠のまなざしをすえる。
「ルチルよ、家のものたちが探しているそうだ」
きっとカシだわ。ルチルは胸のうちでつぶやく。
「ひとつ、約束いたせ」
「この森に入ったこと、そしてここで見たことを決して誰にも話さぬと」
「朕にあったことも、朕の姿も、森の毛ものたちのことも」
「嘘をつくということですか」
ルチルはおそるおそる尋ねる。
「できぬと言うなら、そなたの記憶を消さねばならぬ」
えっ、と王を見あげる。
「そなたを護るためでもある」
ルチルがきょとんとした顔をする。
「この森に入ったと知られれば、さまざまな輩が大挙してそなたのもとへ押し寄せるであろう。森の子細を尋ね、朕や森のいきものたちのことを聞きたがる。なにしろ、ここ数百年、森に足を踏み入れたものはおらぬからな。いや、正確にはおったが、皆、記憶を消して帰した。そなたに森への案内を強要し、我も我もと、森への侵入を試みるものも現れよう。かような人間たちに利用され傷つけられる、わかるな」
こくんと、ルチルは翡翠の瞳を見つめながらうなずく。
「縁があれば、再び相見えることもあろう。いや、そうならぬ方が良いのかもしれぬがな。そなたには、何かさだめがあるようだ」
王はじっとルチルの瞳を射抜くように見つめ、高くそびえる二本の角で降りそそぐ光をはらうと、大きな頭をさげ、ルチルの額に加護を授けるように口づけた。
「この鷹が、そちを北の河原まで送り届けよう。そこから川づたいに南に下るがよい。さすれば、そなたを探している者に会える」
「ルチルといったな。良い瞳をしている。息災でな」
「娘っこよ。急ぐぞ。覚悟はいいか。乗れ」
大鷹がルチルの背の三倍はあろうかという翼を広げる。
ルチルはおそるおそるその背にまたがる。
「姿勢を低くして、俺の首に手を回せ。離すなよ」
いうなり、鷹はまっすぐに天をめがけて飛び立った。ルチルは自らの体重を地上に置き去りにして、抜け殻だけが空に上がっていくような感覚にとらわれた。弾丸につかまっている。全身をこわばらせ、目をつむりぎゅっとしがみついた。
おそらくまばたきほどのできごとだったのだと思う。気づけば、ルチルは河原の葦の茂みにうずくまっていた。鷹の姿はない。ほんとうに白の森にいたのだろうか。夢を見ていた気がする。神々しい王。異形の心優しき毛ものたち。美しい森。幻を見ていたのかもしれない。それも、とてつもなく美しい幻想を。「ここで見たことは誰にも話さぬと約束いたせ」王の慈愛にみちた低い声が脳の奥でこだまする。
ルチルは立ちあがって、オビ川のほとりを歩きだす。
太陽はまだ中天でぎらついている。
だが、川を渡るかすかな風が暑さをやわらげてくれる。
カシが叫びながら駆けて来る、ルチルの帽子を振りながら。
あの日からずっと、ルチルは王との約束を守ってきた。カシはむろん、お父様とお母様にさえ話したことはない。
(to be continued)
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