見出し画像

とにかく書いてみる。書いてみなければわからない。

芸術家は美しい物を作ろうとはしていない。だだ物を作っているだけだ。完成したものが、作り手を離れて置かれると、自然物と同じ平静と品位を得る。すると物のほうから人間を眺め、永続的なものを分かち合おうとする。その経験が強烈なので、芸術家はそれを求めて物をつくる。

そのように小林秀雄は詩人リルケの芸術観を語り、芸術家だけでなく、詩人や小説家、思想家も同じ考えで「物」をつくっているのだと付け加える。

さらに、リルケの前に語っていた哲学者ベルクソンのvisionについて再び話題にする。ベルクソンは、生活の必要性から離れたところで知覚を拡大することができるのが芸術家だと指摘し、同じように、哲学者も生活から注意を逸らす、放心することで、芸術家と同じ拡大された知覚を得るという。そのような、社会生活の実践的有用性から解放されて得るvisionは、リルケのいう自己を超越した有用性、つまり美しい物を作ろうとするのではなく、ただ作ろうとする衝動と同じではないかと小林秀雄は語っている(『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p185)。

このようなことから結局、小林秀雄は何が言いたいのか。

講演CD第8巻『宣長の学問』において、小林秀雄は画家の梅原龍三郎と同宿したとき、春から描いている富士山の絵が、秋に出来上がる頃には、まるで違ったものになっていたというエピソードを紹介する。梅原は、たしかに富士山を見ているが、本当に見ているのは、自分の出来上がっていく絵である。何が描けるかというのは、富士山からはやってこない。自分の描いている絵のほうから、いろんなことがやってくる。だから毎日描いているうちに絵は違ってくるというのだ。

同様に、長期にわたる執筆となった『本居宣長』について、小林秀雄は「書かないと、書かない」と逆説で述べている。本居宣長のことを書きたいとは思っていたけれど、頭のなかで何を書くかという考えがまとまってから書き始めようとすれば、一生書くことはないだろう。だからとにかく書いてみる。書いてみなければわからない。すると書いた自分の文章から何かが出てくる。それを書いているだけだという。

これらは、リルケとベルクソンの話に重なる。芸術家であれば、とにかく作ってみる。作ってみなければわからない。文学者も、とにかく書いてみる。書いてみなければわからない。

本当にそのとおりだと思う。言葉が出ない。

(つづく)

この記事が参加している募集

#この経験に学べ

54,341件

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。