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我々が投げるべき砲丸は何か
1940(昭和15)年に発表された『オリムピア』(「小林秀雄全作品」第13集)で小林秀雄は、砲丸投げの選手が砲丸を投げるように、我々は思想や知識を投げる。さらに詩人が投げるものは言葉であるという。詩人の言葉は観念から生まれるものではなく、ありのままに在るものだ。感受性をもって、言葉を選び、工夫し、詩という形で表現する。小林秀雄はそんな詩への憧憬を決して隠さない。
『私の人生観』においても小林秀雄は、やはり砲丸投げの選手を引き合いに出す。
カメラを意識して愛嬌笑いをしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わります。どの選手の顔も行動を起すや、一種異様な美しい表情を現す。(中略)この映画の初めに、私達は戦う、併し征服はしない、という文句が出てきたが、その真意を理解したのは選手達だけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に征服する、自己を。
オリンピック選手、ここでは砲丸投げの競技であるが、何のために競うのか。その答えが、とても真っすぐ語られている。己に克つためだ。努力とか根性とか勇気とか血と汗と涙とか「お国のため」だとか「楽しみたい」だとか「感動を与えたい」とか、昨今の薄っぺらい言葉は一切見当たらない。
そして小林秀雄の視線は、選手だけでなく、観客にも向けられる。
見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔を異様な対照を現す。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や昂奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。
努力とか根性とか勇気とか血と汗と涙とかで語られるのは、ケガや挫折、敗北からの復活物語。「お国のため」というのは日本を代表して出場するのだから、その地位と誇りに恥ない振る舞いと結果を残せという軍国主義のような期待。そんなプレッシャーに押しつぶされることなく、自分らしく競技をすればいい、スポーツは本来、楽しいものだからという知ったかぶりな共感。寒くもないのに「鳥肌がたった」「感動を与えてくれてありがとう」という受け身な陶酔。これらはすべて、選手ではなく、傍観者の視点である。
彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼等は言うだろう、私達は戦う、併し征服はしない、と。私は彼等に言おう、砲丸が見付からぬ限り、やがて君達は他人を征服しに出掛けるだろう、と。又、戦争が起る様な事があるなら、見物人の側から起るでしょう。
それから半世紀あまり。日本においては、かろうじて戦争が起らずに済んでいるけれども、着々とその日が近づいている印象がある。そこに感受性をもって、ありのままの言葉を選び、並べ、工夫し、訴えるのは、やはり詩人なのかもしれない。
明日戦争がはじまる
宮尾節子
まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった
インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった
虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった
じゅんび
は
ばっちりだ
戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
我々が投げるべき砲丸は、何なのだろうか。
(つづく)
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