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批評は、なんて孤独なのだろう

小林秀雄は「文化活動とは、確かに家が建つということだ」と述べ、批評が文化活動ならば、批評家には立派な批評を為すため素質である精神を、知識や努力によって現実の形、すなわち批評に刻むだろうという。そして批評も含め、文化活動とは勤労であり、手仕事だと語っている。

文化の生産とは、自然と精神との立会いである。手仕事をする者はいつも眼の前にある物について心を砕いている。批評という言葉さえ知らぬ職人でも、物に衝突する精神の手ごたえ、それが批評だと言えば、解り切った事だと言うでしょう。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p167

先日、とても興味を抱いていた「哲学本」について、ある書評を読んでみたところ、その「クリエイター」は、この「哲学本」の全部はまだ読んでいないが、哲学嫌いの知人が読んで「人生180度変わった」というので、あなたにも全力でおすすめします、という内容だった。

なぜ、読んでもいないのに書評が書けるのか。また書こうとするのか。なぜ、哲学嫌いの知人がその「哲学本」を読む気になったのか。なにをもって「人生180度変わった」といえるのか。不確かな「人生180度変わった」という伝聞が、本を推薦する根拠になるのか。

現代の批評病は、いろいろな症例を現しているが、根本のところは、物に対するこの心の手ごたえを失っている事から来ている様に思われます。何かを批評する積りでいるが、その何かが実は無いのである。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p167

小林秀雄が文芸時評を担っていた時代も、この「批評病」にかかっていたのだろう。もともと自身の批評を指して、「批評だって芸術なのだ。そこに美がなくてはならぬ。そろばんを弾くように書いた批評文なぞ、もう沢山だ。退屈で退屈でやり切れぬ」(『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで(座談)』「小林秀雄全作品」第15集p29)と指摘していたほどだ。さらには、その『コメディ・リテレール』の「放言」を引き出した本多秋五による批評『小林秀雄論』で自分が批評の対象となってしまった。その複雑な心境をも察することができる。

言葉なしでは、思考はできない。しかし、思考せずに言葉を発することはできる。そして、思考のない言葉ほど空虚なものはない。

この手ごたえのない言葉によって孤独になるのです。しかも孤独感などというものはてんでない。ない筈です。自分と運命の全く異なる他人という存在がいよいよはっきり見え、自己流に生きようとして、これと衝突せざるを得ないからこそ孤独感というものがあるのである。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p168

一人ひとりの人間が違った存在、個の存在であれば、主張や意見に通じ合うことがあったとしても、完全に一致するということはない。自分に正直に向き合い、相手に誠実に向き合うならば、ときに互いを責め、互いに責めを負う。すると否が応でも相手との差異というものが現れる。このときに抱くのが、孤独感である。

批評とは、孤独な営みなのかもしれない。

(つづく)

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