ポール・ボウルズ『雨は降るがままにせよ』
ポール・ボウルズ『雨は降るがままにせよ』を読む。
アメリカ・ニューヨークで銀行の預金係を務めていた青年ダイアーが「生きている実感を味わいたい」と、いわゆる「自分探し」のために、モロッコのタンジール(タンジェ)を訪れる。職を求めて旧知の米国人ウィルコックスを頼るが、経営する旅行代理店はどうやらうまくいっていない。フランス、スペイン、イギリスという三カ国統治の思惑に加えてイスラムという異文化に戸惑ううちに、若いダイアーを誘惑するようでいて実は思慮深い侯爵夫人のデイジーに足を引っ張られたり、飲んだくれで邪悪だが世話焼きなモロッコ人のタキに助けられたりしながら、ウィルコックスの汚れ仕事に巻き込まれていく。
文学評論家でもあった作家の丸谷才一によれば、長編小説と都市の結びつきは深いという。街には多様で魅力的な作中人物を登場させやすく、人々の出会いの場もふんだんにある。迷路のような路地や、海に面した岸壁などが描かれるジブラルタル海峡に面したタンジールは、ボウルズが実際に暮らした港町。ダイアーが惚れるモロッコの少女ハディージャを囲っている米国人女性のユーニスは、彼への対抗心から、デイジーとダイアーが日曜日に訪れるベーダウイ兄弟のパーティーに乗り込む。そこにタキが現れたり、タキとハディージャが示し合わせてユーニスを強請ったり。
ひと癖もふた癖もある作中人物があちらこちらへと走り回る群像劇のような様相も見せるが、ダイアーがその汚れ仕事を請け負ったあたりから、終末にむけて破滅の道を進んでいく展開は、フィッツジェラルドの短篇小説を思わせる。また、キフやマジューンといった大麻による幻覚の場面が多く、華やかでいて、その分残酷だったり、作中人物に判断ミスを引き起こしたりするのは、ケルアック『路上』と同じく、ビート・ジェネレーションらしい。ひたすら降り続く鬱陶しい雨は、モームの『雨』を彷彿とさせる。さまざまなことを想起する読書だった。
ポール・ボウルズといえば名作『シェルタリング・スカイ』。だが、この『雨は降るがままにせよ』はどこか物足りない。それはなにかとずっと考えていたら、答えはものすごく単純だった。
砂漠が出てこないのである。
『シェルタリング・スカイ』『イングリッシュ・ペイシェント』はいずれも、原作と映画ともに私の偏愛作品なのだが、その理由のひとつは、サハラ砂漠を舞台にしていることだ。
『雨は降るがままにせよ』はボウルズの長編第2作で、やはりモロッコが舞台だということで期待していたのだが、さすが港町タンジール、そこからサハラ砂漠には向かわなかった。残念。
なぐさめに、藤田一咲の写真集『サバク』を引っぱり出して眺めていたが、やはり未練は残る。偏愛しているものの、描かれるテーマの重さに、読んだり観たりする前に思わず身構えてしまう『シェルタリング・スカイ』に一度、立ち戻ろうとおもう。
10年以上積みっぱなしだった『雨は降るがままにせよ』を、ついに読むきっかけをくれたのが、檸檬 音度さんの「檸檬読書日記」。フォローしていないけれど、実は毎週楽しみに読みにいっている。おすすめです。
<追記>
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