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言葉のないところに歴史はない

何故、歴史家というものは、私達が現に生きる生き方で古人とともに生きてみようとしないか。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p162

アランの言葉を引いて小林秀雄はみずからの歴史「観」を語ったが、ここには二重の意図があるように思う。

一つめは、小林秀雄が歴史というものを、どのようにとらえているのか、その見方そのものだ。

歴史は、上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、いにしえの手ぶり口ぶりが、見えたりきこえたりするような、想像上の経験をいうのです。

『講義 文学の雑感』「学生との対話」p27

いくつかあるドストエフスキー論であれ、『ゴッホの手紙』であれ、本居宣長論であれ、小林秀雄の方法論は一貫している。対象となる事柄を徹底的に調べ、文章を読み、その人物ならどう考えたか、どのような言葉を発したか、それが自分の内にありありと姿を現し、声が聞こえてくるまで、考える、想像する、思い出す。それを「歴史を知る」といっている。

それが、ときに周りからは理解されなくて、骨董の「師匠」である青山二郎をして「何か終いには絵は要らないというふうになっちゃうんだよ。画家のことが主要な問題になっちゃう」(『「形」を見る眼(対談)』「小林秀雄全作品」第18集)と言わしめることになる。文学であれ、音楽や絵画であれ、古典であれ、いずれも作品そのものより、人物への興味と洞察が深まる。

本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます。人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことはできないでしょう。宣長は『古事記伝』の中で、「コト」と「ココロ」と「コト」、この三つは相称あいかなうものであると書いています。(中略)歴史過程はいつでも精神の過程です。だから、言葉とつながっているのです。言葉のないところに歴史はないのです。

『講義 文学の雑感』「学生との対話」p29

歴史と人間、そして言葉。この三つは確実につながっている。切っても切れるものでもない。ならば、そのまま受け止めたほうが言い。たしかに『ゴッホの手紙』にせよ、『本居宣長』にせよ、どうしても引用が目立ち、そんなのは批評ではないという意見もある。しかし、「美には、人を沈黙させる力があるのです」(『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集)というように、その筆者みずからの言葉を引用することは、小林秀雄みずからの沈黙なのだ。

(つづく)

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