見出し画像

己に、とらわれるな。

これもまた私の勝手な想像になるのですが、こんな風にも考えられるかと思う。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17巻p153

小林秀雄の「空」に対する考察はまだまだ続く。近代科学で用いる因果関係と、仏教思想の因果律とはもともと違っていて、たしかに人間は色(肉体)、受(感覚)、想(想念)、行(意欲)、識(判断)という五つの構成要素である五蘊ごうんによる相互依存によって成り立っている。しかし、その要素は組み合わさったり、離れたり、組み換えられたりと常に変化し続ける「無常」であり、常に存在し続けるという「常住」ではない。

人は自我の本質である「我」を意識するから、世界には真理があるのだと考えてしまう。だから人間的条件によって様々な真理が存在することになるし、自分自身の見方に囚われることが「原因」となり、その「結果」として苦しむという因果律が生じる。

因果律は真理であろう。しか真如しんにょではない。truthであろうが、realityではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない。見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17巻p154

見ることを考えることと一致させる。同化させる。つまり「直観」が大切なのだ。これは『私の人生観』を通して小林秀雄が繰り返し述べていることであり、主張の一つだと考える。

『私の人生観』は、講演の速記録に後から小林秀雄自身が加筆して決定稿とした、いわば「講演文学」である。だから「見る」と「観る」を書き分けている。一読者として、ここの「見る」は「観る」と書いたほうがいいのではないか、と感じるところもないわけではない。しかし、語る言葉としては同じ「みる」でも、小林秀雄のいう「見る」と「観る」は大きな違いがある。

そして、『私の人生観』でも、そして小林秀雄の生涯にわたる作品でも、繰り返し登場して重みのある言葉が「直観」である。この言葉も、小林秀雄が若いときから熟読玩味してきた哲学者のベルクソンの影響を大きく受けていると思うが、小林秀雄自身が明確に定義づけして使っているわけではない。ときに用法もぶれることがある。

大半の自己啓発書やビジネス書では定義づけをせず「直観」をタイトルに使ったり、「直感」と区別せずに文章で使っている。小林秀雄を論ずる保守系の自称批評家も「直観」の定義や考察をしないまま、大学の卒論レベル以下の新書を書いたりしている。

「直観」については、いずれ本稿でもきちんと考察したい。

話を戻す。

だから、現実の人間的限定の徹底した否定がそのまま、「無我」であり「不記」である豊饒ほうじょうな現実の体験となったと思われる。つまり諸行無常の体験である

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17巻p154

「無我」は自我がないことを意味するのではない。自我があることを否定している。つまり、自我を説かない。自我があったとしても、それにとらわれないことをいう。仏教の「苦しみ」の原因は、自分にとらわれること、自分への固執、執着、愛着である。つねに自分の視点で、または自分の都合で人やものを見ているからこそ、それにとらわれ、悩み、苦しむのだ。

ならば、とらわれるな。

自分にとらわれることなく、見ることを考えることと一致させる。「見る」と「考える」の同化。これは小林秀雄のいう「無私を得る道」のように思う。小林秀雄の「無私」も、いずれ考察したい言葉である。

(つづく)

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。