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デレラの読書録:重田園江『社会契約論』市場の秩序への一撃

今回は、重田園江さんの『社会契約論』(ちくま新書)についての読書録である。

『社会契約論』
重田園江,2013年,ちくま新書

始める前に、まず、わたしの以下の文章について言い訳をしておきたい。

この感想文では、本書の要約と、わたしの感想が入り乱れてしまった、と反省している。

書き終えて読み返してみると、本書を読んでわたしが考えた部分と、本書の要約部分が、明確に分けられておらず、まるでわたしがすべてを考えたような書き方をしているようにも捉えられる。

本来は、著者はこう書いている、あるいは、わたしはこう考える、と主語を明確すべきだった。(ようは、大袈裟に言えばパクリのような文章になってしまった)

この読書録でわたしが自力で考えたことは、一部を除いてほとんど無い。(以下の記事で、少なくとも主語に「わたし」があるのもは、わたしの考えたことである)

これはわたしの個人的な読書録(メモ)でもあるので、その点はご容赦いただきたい。

社会契約論に関するさまざまな議論を、重田さんは本書で展開している。

重田さんの文章は平明達意で、とても分かりやすく、何より議論を追いかけやすい。

途中で要約が入ったり、ご自身の例を出してくれたり、リーダビリティが高く、まるで社会契約論という複雑な理論を自分で思考しているかのように感じられるほどだ。

おそらく、著者の記述があまりに読みやすくて、これを読んだわたしは文章に密着して離れられなくなったかもしれない。

まぜこぜな文章になってしまったことを、申し訳ないと思いつつ、この記事を投稿する。

繰り返すが、その点はご容赦いただきたい。


約束の思想史とその意義について

著者は、約束の思想史を振り返って、社会契約論の意義を再考する。

その意義は、想像以上にアクチュアルなものだった。

では、なぜ約束の思想史がアクチュアルなのか。

筆者は冒頭で「約束」と「市場」を対立させた図式を提示する。

この対立図式には次のような問題意識がある。

約束の思想は秩序の条件をことばにし、条項にすることで人々の目の前に提示する。それによって、現にある不平等や不正を、等等価交換や相互の満足といった「神話」で覆い隠すことを不可能にする。
(重田園江『社会契約論』,p.21,以降の引用元は言及がない限り全て本書とする)

ここで言われる「等価交換や相互の満足」が、市場の秩序である。

他方で、約束の思想は、「等価交換や相互の満足」といった市場の秩序の神話に一撃を加える。

では、なぜ市場の秩序に一撃を加えなければならないのか。

それは市場の秩序は、別の側面を見れば「不平等」であるにも関わらず、まるで完璧な「平等」あるようなふりをするからだ。

このことから、わたしは「アルバイトの例」と「ネットゲームの例」を連想した。

まずはアルバイトの例。

 目の前に「一般的な会社の会社員」と、「アルバイトで生計を立てているひと」がいるとする。二人は同時にコンビニに入って買い物をする。百円あれば誰でも百円分の買い物ができる。市場の秩序がもたらす平等は、アルバイトの年収二百万円と、一般会社員の年収五百万円の所得格差を覆い隠してしまう。
 しかもこれは、平均の時給×8時間×20日×12ヶ月で計算した年収と、平均的な会社員年収を比較したものだ。高所得者は当然、年収五百万円では収まらない。年収二千万の高額所得者と、年収二百万のアルバイトは、市場の秩序の上では平等なのだ。

(しかもこれは、市場においては正しい意味で平等なのだ。もちろんこの平等による利便性がある。)

あるいはネットゲームの例。

 ネットゲームは誰でも無課金で楽しむことができる。誰でも楽しめるという平等は、全国ランキング50位で満足している低所得者と、全国ランキング51位で満足している高所得者の、所得格差を覆い隠してしまう。楽しめているから、それぞれの所得なんてどうでもいいではないか。
 たしかにその通りだ。所得格差はあるが、二人とも楽しんで、満足している。二人は平等に楽しんでいるのだから、したがって市場の秩序は正しい。その正しさは、所得の格差を隠したままだが。

このように、誰でも買える、誰でも楽しめるという神話、それが市場の秩序を支えている。

一方で、約束の秩序は、その神話を切り崩すのだ。

市場の秩序に疑問を呈し、それを切り崩そうとする視点は、資本主義が隅々まで行き渡る現代で、とてもアクチュアルな視点であると思う。

さて、ではどのようにして市場の秩序を切り崩すのか。

約束の思想史は、ホッブズ→ヒューム→ルソー→ロールズと紡がれる。

ここからは、わたしなりに本書の議論を簡便化し、図式化する。

本書はたくさんの議論が含まれていて、各哲学者の著作を綿密に読み、その意図をとてもわかり易く解説している。

したがって、わたしの簡便化した図式を見るくらいなら本書を読んでいただくことを強くおすすめする。

さて、言い訳はここまでにして、実際の図式を見てみよう。

四人の哲学者は以下のように並んでいる。

図式
ホッブズ
(社会契約=約束によって社会が成立している。)

ヒューム
(社会契約への反論、約束によって成立した社会なんてあったっけ?)

ルソー
(ヒュームへの再反論、そもそも自由な社会を成立させるためにはどうしたら良いだろうか)

ロールズ
(ルソーの補強、実際に約束=ルールについてどうやって決めたらいいか考えよう)

ここからは、もう少し本書の言葉を足していこう。

まずホッブズは、自然状態を想定した。

自然状態とは、いわゆる社会契約以前の状態で、ざっくり言ってしまえば、みんなが自己保存のために争いあっている不安定な状態だ。

それは、万民の万民に対する闘争という有名なフレーズで表現される。

そしてホッブズは、自然状態ではいつまでも不安定なのであって、安定化のためには全員が一斉に武装解除するような社会契約が必要だ、と考えた。

つまり、社会契約=武装解除なのである。

一方でヒュームは、その反論者である。

ヒュームは、そもそも歴史的に「約束」によって相互に武装解除し誕生した社会はあるのか、と指摘した。(同書、p.100)

実際には革命やら反乱やら征服やら、力によって社会が破壊され再構築される事例は思いつくけれど、ホッブズ的な相互武装解除の事例は、パッと出てこない。

強いてあげるなら、ヒュームの生きた1700年代から時代を早送りして現代で考えれば、国家間の核軍縮的な話は相互武装解除に近いけれど、とは言え、実際に全然みんな核軍縮してない気がする。

また、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言は、武装解除とは少し違うように思う。

このように、ヒュームの、相互武装解除した事実はあるのか、という指摘は、ホッブズの約束の思想に対する反論としてとても強い。

ようは、ホッブズ的な武装解除が社会の根底にあるわけではない、と指摘したのだ。

では、ヒュームは社会の根底を何であると考えたか。

ヒュームは、約束ではなく、コンヴェンションにそれを見た。

コンヴェンションとは何だろう。ヒュームは(略)、それを「共通の利益に全員が気づくこと」と表現している。社会のすべてのメンバーは、この気づき=感覚を表現し、自分の行為を一定の規則に従わせるようになる。
同書(p.112)

たとえば、お腹が空いている集団がいて、眼の前にひとりでは抜けないほどの大きなカブがあったとき、その集団は「全員で協力すれば、全員でカブを抜いて食えるよな」と気がつくだろう、ということだ。

このように、人間は社会に合わせて生きる方が、自分の利益になると感じ取っているのだ。

このコンヴェンション=気づきが、社会を社会たらしめている、とヒュームは考えた。

現代に生きるわたしの感覚からすれば、あまりに現状肯定的すぎて、細部を無視しているように感じられるのだが、とは言え、ヒュームの言わんとすることは分かる。

「コンヴェンション」は、簡単に言えば、ようは「楽(らく)」なのはどっちだ?ということに気がつくことだ、と思う。

流れに身を任せて、全体に合わせる方が、物事が楽(らく)に進むことが多いだろうという感覚は、おそらくあなたにもあるのではないか。

連想的に言えば「最大多数の最大幸福」のような、功利主義的な考え方である。

みんなの楽が増えればいいじゃん?という感覚が、わたしたち人間にはある、ということ。

しかしながら、大多数の楽(らく)によって、将来世代の環境問題に悪影響を与えたり、少数者に苦を強いたりしていることに対して、批判が多いことも事実だ。

さて、ヒュームに話を戻す。

たしかに、コンヴェンションはあるだろう、それは現実的にも説得力がある。

実際に武装解除的な約束は果たされていないし、相互の約束よりも流れに合わせるコンヴェンションの方が経験的に理解しやすい。

ヒュームはこういう現実的な納得感を与える思想を構築する哲学者だ。

たとえば、これはわたしの連想だが、国際連合憲章などは、どちらかと言うとヒューム的なものであると感じる。

国連憲章の第一の目的は、国際の平和及び安全を維持することであり、こういう規定はみんなで守った方が楽に決まっている。

ようは、国家間で全員が同じルールでいた方が、全員に都合が良いという内容でもあるからだ。

※注釈
とは言え、戦勝国優位な体制を保持する性質(安全保障理事会のような)もあり、加入国の利益が完全にフラットなわけではないだろう。

さて、こう見てみると、やはりホッブズ的な約束は無意味なものに感じてくる。

コンヴェンションの方が強そうだ、と。

しかし、ここで著者は、改めて問うのだ。

約束は無かったのか、約束を考える意味はないのか、と。(p.133)


さて、そこで登場するのが、ルソーとロールズだ。

先に図式だけ取り出す。

ルソーは、一般意志という概念を社会契約の根幹においた。

そして、ロールズは、ベトナム戦争や公民権運動など、不安定な社会現実のなかで、どうやって安定的な社会が作られるかを模索するなかで、ルソーの一般意志を持ち出して来た。

ルソーが一般意志を提唱し、ロールズが応用したというイメージでいいだろう。

さて、ヒュームの反論は、契約には歴史的事実もないし、そもそも根底にあるのは契約じゃなくてコンヴェンションじゃね?というものだった。

一方で、ルソーとロールズにとって社会契約は「実体験や歴史的経験とは全く別のこと(p.234)」なのであって、ある意味で思考実験であり、思考方法なのだ。

どういうことか。

つまり、別に社会契約は、歴史的時事実かどうかは関係がないということだ。

※注釈
ヒュームのコンヴェンションに対する原理的な再反論は本書では詳しく議論されている。詳細は、ここでは割愛させていただく。めっちゃ面白い議論であった、一言で言えば共感性についての議論だ。

さて、ここではまず、ルソーとヒュームの大きな違いについてみていこう。

二人の違いは、社会への態度(肯定か否定か)にある。

ヒュームとルソーは実際に同時代人で交流もあったが、真逆の態度であった。

ヒュームが現状の社会に対して肯定的であるとすれば、ルソーは断固否定的であるという事だ。

さて、ルソーは現状の社会に否定的な態度であった。

ルソーは、当時の社交界やら文壇やら言論界の、ウィットな会話やら気取った遊びやら、文明の享楽した遊戯の何もかもが偽りであり欺瞞であることにゲンナリしていた。(同書、p.145-146)

ルソーはとてもロマンチックな歴史観を持っていた。

ルソーにとって文明とは、誕生し、発展して、栄華を極めて、衰退して、滅びる、というものだ。

つまり、ルソーは当時の享楽した文明時代が、衰退して滅びの道に向かっていくダメな段階であるように感じていたのだ。

ようは、ルソーは、経済的に豊かになり、社会が発展し、富める者は富んだかもしれないが、その富者が社交界で享楽的に遊んでいるような社会なんて「良い社会」であるはずがない、と思っていたのだ。

ルソーは、簡単に言ってしまえば、経済的に豊かさではなく、精神の豊かさと自由こそが望まれる社会であると信じていた。

そんなルソーは、破滅に向かっている社会の後に「来るべき社会」を夢見ていたのである。

では、その来るべき社会とはどのような社会か。

この問いについて考えたのが、かの有名な『社会契約論』である。

では、ルソーは、そこでどのような契約を結べば良いと考えたのか。

そこでルソーの一般意志という概念が関わってくる。

一般意志というのは、一般と言うくらいだから、特殊とは反対の概念である。

特殊とは、個別具体的なことで、例えば、わたしの個人の生・主義思想・性格・性別・好み・興味のことである。

ようは、特殊とは個人のことである。

一方で、一般とは、このような個別具体性の捨象にある。

ようは、一般とは個人のことではないということだ。

ちょっと不思議な概念なのだが、ルソーは、この一般意志のもとに法の制定などを行えば、自由な社会ができると考えた。

少し考えてみると、たしかに、特殊な個別具体的な人間の意志によって成立された法律なんて、なんだかそいつの都合だらけでできていそうで、不平等な感じがする。

だから特殊意志ではなく一般意志でルールを決める社会、という社会契約は、何となくわかる気がする。

けれど、一般意志とはなにか、釈然としない。

著者はそこでロールズの議論を持ってくる。

ロールズは、この一般意志の釈然としなさを、理論的に明確化し発展させようとした。

ロールズの議論を「一般意志について考えた議論」として読み直そうというのが、本書の著者の主張のひとつでもある。(同書、p.209)

さて、ロールズが生きた社会は、先ほどいったようにベトナム戦争やら公民権運動やら、不安定な社会であった(もちろん彼の生きた時代に比べて現代が安定しているかといえばそうではないが)。

そこで、ロールズは、安定化装置として社会契約の議論を持ち出し、一般意志について再考する。

問いはこうだ。

特殊で個別具体的な人間が、どうやったら一般意志などを意志できるか、ということ。

この問いにロールズは「無知のヴェール」という思考実験を持ち出す。

無知のヴェールとは、簡単に言えば、個別具体的な状況が全くわからない状態ということだ。

自分の状態が全くわからないということ。

性別も、生まれた場所も、職業も、年齢もわからない状態で、法律を決めようと思ったとき、ひとはどういう内容の法律を制定するだろうか。

きっと、できるだけ差別の少ない法律にするに違いない、とロールズは言うのだ。

ここには格差原理やら機会均等原理やらマキシミンルールやら、専門用語が出てくるのだが、それは本書を読んでもらいたい。

一つ言えることは、この「できるだけ差別のすくない法律」は、あの有名な「最大多数の最大幸福」と真逆であるということ。

当然、ロールズは、功利主義(最大多数の最大幸福)の批判者だ。

したがって、功利主義とは別の思考をしていている。

さて、ロールズは、一般意志を意志するには、無知のヴェールが必要だと考えた。

つまり、個別具体性、特殊性を忘れることが必要なのだ。

いわゆる囚人のジレンマにも似ている気がするが、囚人のジレンマは自分が囚人であるとわかっているので、少し違う。

自分は囚人かもしれないし、看守かもしれない。

だから囚人優位な法律にもできないし、看守優位な法律にもできないのだ。

その限界状態でルールを選ぶとき、われわれは一般意志を思考していることになる。

このように、ある種の思考実験によって、一般意志は取り出される。

ということは、この一般意志による社会契約論的な考え方は、もう歴史的な事実とは関係がないことが分かる。

思考実験であり、「改めて考えてみよう」という提案であり、思考方法なのであるから。

この意味で、ヒュームの「歴史的事実は無い」という批判に再反論できる。

さて、長くなったが、ようやくこの図式に戻ってこれた。

図式
ホッブズ
(社会契約=約束によって社会が成立している。)

ヒューム
(社会契約への反論、約束によって成立した社会なんてあったっけ?)

ルソー
(ヒュームへの再反論、そもそも自由な社会を成立させるためにはどうしたら良いだろうか)

ロールズ
(ルソーの補強、実際に約束=ルールについてどうやって決めたらいいか考えよう)

ロールズの言うような無知のヴェールは、とても魅力的であるが、正直とても難しい。

また、わたしの所感を言えば、ロールズのこの原理は、どうも「恵まれた人」に対して言っているようにも聞こえる。

お前たち(恵まれた人たち)は、自分が恵まれているから分からんかもしれんが、無知のヴェールのなかでは、お前たちは恵まれてないかもしれないんだぜ?という風に。

恵まれていない人からすれば、無知のヴェールなんてちゃんちゃらおかしい、と思える。

しかしながら、安定的な、公正な社会を考えるための思考方法として、社会契約論的な思考は必要だと思われる。

社会契約論的な思考は、冒頭の問題意識に戻って言えば、市場の秩序(功利主義、最大多数の最大幸福)とは別の仕方で、約束の秩序を打ち立てることができる。

ある意味では、できるだけ幸福の総量が増えるような法律を立てようと考えることは、一面的に間違いではない、しかし、それだけでは不平等が覆い隠される可能性がある。

社会契約論的思考は、市場の秩序以外の思考として、「その法律は本当に社会にとって公正なのか」という問い(市場の秩序への一撃)を発するのだ。

具体的に、これから先、わたしたちが生きるこの社会で、法律の制定や憲法の改正など、「約束=法律=契約」について考える機会があるだろう。

そのときには、わたしたち大部分は、投票という形で、意見を表明することになる。

社会契約論的な思考によれば、その投票行動のさいに、その法律の制定や憲法の改正によって、どれだけ幸福が増えるか、と思考するだけではなく、無知のヴェールのなかで考えれば、その制定や改正は本当に「公正だろうか」と思考することもできる。

どれだけ幸福が増えるかという功利主義的な思考でもなく、みんなが楽ならいいという資本主義の快楽主義的な思考でもない。

また、やや急に話を出すが、最近流行している感情の連鎖的な、ポピュリズム的な思考とも違う。

社会契約論的な思考は、それらと違う実験的な思考方法である。

やはりこの意味で、社会契約論的な思考はとても意義のある、アクチュアルな議論だ、とわたしは思った。

おわり


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