井上貴司

大阪でクリエイティブコンサルタントをしています。

井上貴司

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スタートはいつも“何処の馬の骨かわからない奴”なんだ。

新しい事に向かっていく時は、常に信用も実績もない状態からスタートさせる。経歴がどうとか。実績がどうとかではなく。今の僕と接してみてどうなのかを相手に問う。気にいるか気に入らないかは相手次第で、僕が決めることではない。だから、気に入らないならそれでおしまいだ。 知り合いを頼ったりして仕事を繋げていく方法もあるが、その方法だと自分に甘えが出て、そこから先へは中々進まないし、自分の考え方で意見を言うことも出来なくなる。それよりかは、初めてだろうが長年のお付き合いしていようが、常に

    • 単にカタチにすることへのこだわりを捨てる時がきた。

      パソコンでデザインデータを作りはじめて何年になるだろう。最初は容量が少な過ぎて、文字を少し動かしただけでクラッシュしたりプリントアウトに何時間、いや何日かかるのかわからない。そんな時代を経て、今や超簡単にデータ化できる。そのかわりに、デザインを制作するソフトを使いこなすために常に勉強しないといけなかったりして、本当疲れる。加えて、ネット関連も勉強していないと、作り上げたデータを生かすことができないから厄介だ。 デザインが決まればデータ作成は2時間もあればできるが、データを色

      • 1%が届けば良し。届かなければ残り99%が無駄になる。

        今日は久しぶりに外でアイデアを出してみた。99%出来上がっているデザインだけど残りの1%が上手く出てこない。「何でだろう?」って思っていて、ちょっと環境を変えてみようと思いカフェに行って手書きラフから始めてみた。病気療養中で手書きラフが上手く描けなくてしばらく書いていなかったのだが、上手くいかない時は上手くいかないと思い込んでいるものを活用するのも良いかなと思った。 デザインでも企画でも何でもそうなんだけど、この1%が明確にイメージできていなかったら、全てが水の泡になってし

        • 自分のこだわりは捨てて、本気でそれに成り切ること。

          仕事において、数々の会社や人と仕事をやってきた中で、これだけは絶対にやってたことは『純粋に事に当たること』だ。 その大小に関わらず、その人の立場に立って考えるなんてことじゃなくて、純粋に目的を達成するために、その人の立場とか会社の現状とか利害関係とか関係なくそれに成り切ることだ。そこに自分のこだわりもない。ただただ、純粋に目的を達成するためにそれに成り切る。 そのことで道は2つにハッキリと別れる。純粋なあまり鬱陶しく思われて「お前何様だ、何わかってるふりしてんだ。」ってこ

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        スタートはいつも“何処の馬の骨かわからない奴”なんだ。

          「何で私の方が給料安いんですか?」よく言われた。

          会社で働いていた頃によく言われた言葉。「井上さんいつもタバコばっかり吸っていて、ほとんど机に向かってなくて、私の方がずっと仕事してるのに、何で私の方が給料少ないんですか?💢」 ん〜。確かにそう言われればそうだよな〜。汗💦 「何でだろうね?」 「ただひとつ言えることは、もし10人の人が同じ仕事をして10人それぞれの成果をあげるとしようか。その時、貴女の成果が120%だとしても他の9人が60%しかし成果が出せなかったとしたら、全体としての成果は70%にも達していないよね。そ

          「何で私の方が給料安いんですか?」よく言われた。

          キレイになんか撮ってやるもんか!

          料理の撮影をディレクターの立場で見ていて思ってた事は、「何でそんなに綺麗にするんだ?」ってこと。フードコーディネーターはキレイに料理を盛り付けて、テーブルコーディネーターはテーブルにアリもしない小物やクロスのシワを意図的につくったり。何か違和感がありすぎる。と思いつつも仕事の特性上演出が必要だったので、それに流されて指示を出していたのは確かに僕だった。 あれから時は流れ、フリーのデザイン会社を嫁さんと立ち上げて、自分でデジタルカメラを手にして描いていくイメージは、常に『本当

          キレイになんか撮ってやるもんか!

          簡単ではないからこそ面白い。底に隠された本質に気づく時。

          20年ほど前にある会社の会社案内を制作した。聞き取りをしてたたき台のラフをつくりある程度OK をもらって、カメラマンと撮影に行った時のこと。商品が何万点もあってそこからチョイスしてカテゴリー別に並べて撮影する。物凄い労力だしそれを綺麗に並べるのも一苦労だ。これは1日や2日では撮影できないな〜と思いつつも、「少しでも綺麗に並べよう」そう思って頑張った。夕方になって社長が撮影を見に来て一言「違うんだよな!」と言いながら僕が夕方までかかって並べた商品をぐちゃぐちゃにこわし始めた。

          簡単ではないからこそ面白い。底に隠された本質に気づく時。

          悩んだりした時に一瞬だけ無になる方法。

          生きていく中で、あまりにも理不尽だったり、自分自身が情けなくなったり、そんな繰り返しに息苦しさを感じる時に、僕が良くやる方法は、馬鹿になったつもりで、「あー、地球って公転してるんだよな〜。凄いよな〜。」って一瞬だけ想う。一瞬だけだ。 そうすると、本当に凄いよな〜って思えた次に頭で、なんで公転してるんだよ?なんで太陽の周りを回るんだ。? 何て考えて、調べていくうちに、自分の器の小ささに気づく様になる。 「何て小さななことに悩んでたのかな〜。どうって事ないや。」みたいな感じ

          悩んだりした時に一瞬だけ無になる方法。

          何気に思ってた事が現実化する、『たまたま』の不思議を無視はできない。

          今日は朝から「刺身が食べたいな〜。」ってモヤモヤっと思っていた。昼になって嫁さんとスーパーに買い物にいって今日晩は料理の撮影がしたいからといって、「お刺身撮影しようか?」って僕にいってきた❓ 「えっ?なんで。なんでわかったの?僕が食べたいもの?」 嫁さんは、僕が食べたいだろうな。なんて微塵も思ってはいない。ただ、撮影で色味が綺麗な料理が欲しいという考えで僕に提案しただけだ。お互い違ったことを思っていたけれど、その思いが一つの現実を生み出しているってこと、よくあるんですよ。

          何気に思ってた事が現実化する、『たまたま』の不思議を無視はできない。

          どこにピントを合わせているのか?

          人間、ずべてがクリアに見えていると想像することをやめてしまって、見ているものが全てだと思い込んでしまう。思い込めば思い込むほど希望や夢は捨てて、現実の安定にしがみつく。しかし、安定しているかの様な現実が壊れてしまうかもしれないと思い出すと安定が不安に変わり、何かやらないといけないと行動しようとする。 だけど、今までこれが安定だと思い込んだ現実にしがみついて想像する事を忘れている人はどうなんだろう?って思う。 アフターコロナの時代は、全ての事がひっくり返ると言われている。な

          どこにピントを合わせているのか?

          日常の距離感は無意識につくられている。

          どんなに言ったって、日常の生活の中で存在する『距離感』って変わるものではない。自分が生まれて育ってきた環境により無意識に色んなものとの距離を自然にとってきているからだ。幼少期のころに、どんな環境だったか、何で遊んだか、どんな人が近くにいたのか、その全てが一致すれば皆共通の距離感を持つのだがそんな事はありえない。だけども、これから先の『距離感』の取り方は自分次第で変えることができる。そこに気づけば? 例えば、人付き合いが苦手で、人との距離をかなりとっている人がいるとすると。世

          日常の距離感は無意識につくられている。

          人間それにハマると、そこから中々抜け出せない。

          今日は何を記事としてあげようかな?っと思って過去の写真を見ていると、撮影したものではないショップで撮ったハンバーガーの写真が出てきた。 これビジュアルにして記事書いてみようと思い、写真にのせるコピーと、本文の内容を決めた。 ハンバーガーのことについて書こうか?それとも全然違う内容を当てようか?そうをもいながら元の写真を見ていた。「んー、何だか味気ない写真だなー。使いようないなこりゃ。」そう思いつつ、少しでも光る部分やグッとくる部分を見つけようと写真を拡大したり縮小したりし

          人間それにハマると、そこから中々抜け出せない。

          どんなものでも価値はつく。

          いつものように嫁さんの料理を撮影した。今日は、豆腐ステーキだったのだが、キッチンから「あー、失敗しちゃったよ〜。」 どうする?撮影する?と言いながら、嫁さんは失敗した豆腐ステーキをお皿に盛って撮影セットの上に置く。僕も、「じゃあ、撮影しようか。」と撮影をスタートさせる。 お互い『これも売れる!』と思っているからだ。 ネットで写真を見て買ってる人は、目的がひとつでは無い事。色んな角度から写真を探している事を経験上知っているからだ。一点何十円かもしれない、何百円かもしれない

          どんなものでも価値はつく。

          自分だけが感じた。はじめての出来事にアドバイスも評価もいらないんだよ。

          自分で体験もしでないのに周りがイチイチ言ってくる事って、そのほとんどが責任の無い一般論。「そんなのダメに決まってる。」「こうすればうまくいくよ。」「ほら」 それがどうした!個人の自由だろうが。 ある目的がある場合は、目的達成のために専門家や体験者のアドバイスや意見は聞く。そう思っている。これも当然だよね。僕は、仕事においては、親兄弟、友人知人の意見は聞かないようにしている。目的が違うからだ。特に僕は情に流されやすいので、目的達成より情を優先させてしまう事があるからだ。会社

          自分だけが感じた。はじめての出来事にアドバイスも評価もいらないんだよ。

          中味を想像してもらった方が効果的かもしれない。

          オムそばを撮影した。玉子にとじられた状態だと中に何が入っているかわからない。わからないから興味がわくことだってある。卵を破って中の焼きそばを見せると、オムそばだとすぐにわかる。ストレートに認識できるのは確かだ。しかし、ストレートすぎて『間』がなくなってしまうというか、見ている人が想像したことを埋め込んでいく場所がなくなってしまい他人事のような感覚で終わってしまう。 もちろん、この表現方法は目的によって使えないケースもあるのだが、書物などの行間の取り方と同じで、エッセイのよう

          中味を想像してもらった方が効果的かもしれない。

          その瞬間を逃さないために。

          ふとした瞬間に心がときめいて…。そこから何かがはじまった。全てはその瞬間からはじまっていく。くどくどとややこしい説明はその後だ、いやいらないかも知れない。恋愛についてもそうだが、ビジネスの世界でも同じことが言える。 昔のプレゼンは、そのややこしい説明から入っていくパターンがほとんどだったように思う。どれだけ能書きをたれて真面目そうに振る舞って、好印象を残すかが大切。皆んながそこへ群がっていった。そのおかげもあって、今のプレゼンは能書きは省いて、これを手に入れるとどんな世界が

          その瞬間を逃さないために。