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正義と悪の二元性は存在しない

風が吹いたら遅刻して、雨が降ったらおやすみで

ハメハメハ大王の子供たちのように天気で学校へ行かない私だったので、てっきり自分は「勉強が嫌い」なのかと思っていたら、大人になってから勉強が面白くてケアマネージャーになった年、同時に京都にある佛教大学の通信課程に入学した。

40歳での卒業を目指したけれど、結果40歳で自主退学となった。
レポートや試験、また一般教養学科や、朝から夕方までびっしりの授業も学生の役員活動も経験できて楽しかった。
そのなかにガツンと印象の残る授業がある。

一年生か二年生の時の社会福祉の授業だった。

実際にあった事件である。
義理の父親だったか実父か、内容を明確に覚えていないけれど、少女の頃から性的虐待にあい、そのまま大人になっても一緒に暮らしていた女性の、父親に対する訴訟であった。

もう、成人の女性になっていたので近隣でも夫婦か内縁関係だと思われていた。

争点は、女性は軟禁状態ではなく、買い物へ出るような普通の生活環境で父親と生活を共にしてた、という事実だ。

「もう大人なのだから、その立場が嫌ならば逃げようと思えば逃げられたはず」ということから、判決でいったん負けた。
その後控訴して高裁まで(最高裁かもしれない)もつれ込むことになった。

結果、女性は勝訴した。
幼い頃から父親の言うことを聞かなければならない生活が長きにわたり、関係を強いられてきた彼女の自主性は奪われていた事が認められたのだ。

授業の講師によると、この訴訟は週刊誌などで取り上げられ、女性の外見などから「女性の側にも問題がある」というメディアの風潮があった。

女性が住む近隣で「女性は嫌そうにしている風では無かった」「女性も父親の庇護のもと生活をしている」などの証言があり、専門家でさえも判断が難しい問題だったと教えてくれた。

私は見知らぬその訴訟の女性の気持ちをなぞらずにはおれず、授業中に気持ち悪くなるほどショックを受けた。

社会的な問題を受け止める土台が、当時の私にはなかった。

人々の先入観や偏見は怖いと思ったけれど、もし、自分も近隣住人で顔見知りだったら、女性やその父親の態度などの一面を事実ととらえて、反対意見に同調したかも知れないとも思うと、気持ち悪かった。

いまならおもう。

人は誰しもが被害者になるように、加害者になる。そして批評家にもなる。社会全体の問題なのだ。

『あの人は変だから』とか『あの人だからあんな事件は起きた』という人間性の問題ではない。

自分がいま善人で居られるのは、環境のおかげだ。


地下鉄サリン事件の実行犯やテロリストにも、環境よって誰もがなりうるかもしれない。
原爆を落とすことも、アウシュビッツ収容所の監視員にも、訴訟の彼女にもなり、父親にもなり、近隣住人やメディアにもなる。


人間は混沌とした存在で、正義も悪もない。
まるでルーレットのようにぐるぐるまわり、その役割を誰かがどこかで担うのかも知れない。

南の島に住むひとは誰でもかれでもハメハメハと唄う。あうひとあうひとハメハメハ
だれでもだれでもハメハメハ

この訴訟問題の周辺が記憶間違いでしたら、ごめんなさい。

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