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心技体-ShinGiTai-
柔道部で過ごした青春時代
中学から初めた柔道で心技体という言葉と出会った。
【心技体】武道などで重視する、精神・技術・肉体の三つの要素。(広辞苑より)
柔道は、精神力のスポーツだった。
夏の暑い日も分厚い柔道着を着て稽古をし、冬の寒い日も裸足で稽古をしなければならない。
球技と違い、道具は使わない。
あるのは、相手の体と自分の体だけだ。
練習してきた技が動きの中で出せるか、相手も自分も投げられたくない、投げたいと思ってる真逆の力が働く世界。
自分の体をフルに使って、隙を見て相手を投げようという緊張感で普段以上に体力を使う。
お互い全力でぶつかれば、開始30秒で息切れをし、1分で呼吸することが苦しくなる。そこからは苦しい、もうやめたい、でも負けたくないという気持ちしかない。
精神力と鍛錬した技と肉体のスポーツとはよく言ったものだ。
苦しいので中学卒業したら、高校ではもうやらないぞと思っていた柔道だったが、どうやら私はM気質があるようで高校生活3年間も結局柔道に明け暮れた。
大学で出会った”身体”にまつわる学問たち
さすがに、オリンピック選手になるわけでもないのに、大学では続けないぞと思っていたら、次に私を待っていたのは人間の身体にまつわる学問だった。
早稲田しか行く気がなかったが、見事に全落ちしたため、自分が受かった3つの大学・学部で悩んでいた。
前述した通り、早稲田しか行く気がなかったため、だいぶ適当に選んだ学校で行くことに決めたのは立教大学現代心理学部映像身体学科だった。
だいぶ適当に選んだ学校、学部だったが、これがなかなかおもしろい学部で、クセの強い教授と(大学教授はみんなクセが強いかもしれないが哲学系の人が多かったのでまじでクセしかなかった)おもしろくて心が豊かで優しい友人たちに恵まれた。
勉強が苦手だったので、中学の終盤くらいから机に向かうと一瞬で寝るという悪い習慣は、高校でさらに悪化し、大学でもさらに悪化した。
開始20分もすると大体の授業でほぼ寝ていたが、たまにビクッと起きておもしろそうな話を必死にメモしていた。
そして5分後にまた寝ていた。
そのミミズがはったようなメモを頼りに、コメントペーパーを書き、書いていくうちに疑問が生まれ、先生に質問して、自然とハマっていった授業が、「生態心理学」とか「現象学」だった。
ライオンはアザラシより弱い?
自分の知的好奇心と睡眠欲がどちらもとても強い力で拮抗した末に、生徒2人先生1人の授業に参加し、寝ている状況になったこともあった。
生態心理学の先生はそれでも笑ってくれた。
成績はCだったけど。
生態心理学は人間と環境の関係の学問だった。
ライオンは強い。しかし北極ではアザラシとライオンどっちが強いか?
そんな問いを投げかけられた時、”強い”という言葉の定義が曖昧なもので、生物がいかに”環境”に大きく影響されるのかを知った。
環境はいま当たり前に存在している、この世界そのもの。だから気づかないが、いざ環境が変わって、いままでの当たり前が崩れると、その価値の重要さに気づく。
コロナになったいま、誰しもがこのことについて理解し、共感できると思う。
ただ、変化後の世界が次の当たり前になると、またみんな気づかなくなる。
生態心理学という学問は、
・当たり前が当たり前ではないこと
・では、当たり前ではなくなった時にどうやって適応すべきなのか?
そういう考え方を教えてくれた。
抽象度の高い話だと倦厭されるかもしれないけど、”生態”といういま生きている生物を出発点としたその学問は私にとってちょうどいい温度感の学問であった。
生態心理学の次にハマったのが現象学だが、現象学を文章で説明できるほど学んでいないので、省略する。
現象学に重ねてハマったのが、メルロポンティという20世紀のフランス哲学者だった。
基本的に私は神系のことを語ってる哲学者の話をされると開始1分で寝てしまうので(わりとガチ)哲学者と聞くとうへぇと思う大多数の人と同じ気持ちを持っていたが、メルロポンティとは相性がよかった。(何様だよ)
メルロポンティもなかなか難しいことを言っているので、説明できないが、ざっくりどんな人かと言うと、人間の身体についてずっと語っている人である。
そもそも私が入学した映像身体学科の基本スタンスとして、
「神の時代が終わって、科学の時代になった。”考える”機能を持つ脳ガ人間の身体よりも優れている、と語られてきたけど、ほんとにそうかな?人間の体って実は脳よりもすごいかもしれないぜ?」
というスタンスがある。4年間学んだ私の理解度はこのくらい。
で、メルロポンティは人間がどう世界のことを知覚しているのか、それを身体を主語として語っている。
実は、6年間柔道で心技体を身をもって体感してきたからこそ、ビシビシ入ってくる考え方だった。
実感に論理が伴うと自分の中に真実がはいってくる。
誰かが作った当たり前は、その誰かにとって都合よく作り替えられる。もしくは、その当たり前の上にのっている人たちも自分たちの都合がいいように解釈している。
「真実というものは存在しない。あるのは解釈だけだ。」
とニーチェが言っていたが、自分の体験が論理で強化されると、それはもう自分にとっての絶対的な真実になる気がする。
結局、他人の人生なんて生きられないから、自分の人生のことだけ考えて入ればいいのだ。自分にとっての真実を見つけたら、周りから解釈だと言われようと、世間の当たり前と違っていようと、いいではないかと思う。
世間の当たり前と違っていると生きづらさを感じる時もあるが。
でも、そのとても生きづらいという気持ちをちょっと生きづらいという気持ちに変えてくれるのもまた、学問だと思う。
大学5年間で180度変わった”勉強”への価値観
勉強が大嫌いだった私は、大学なんて勉強が好きな人が行くところなんだから行く意味がないと思っていたが、両親に大学は絶対に行ってくれと言われ、結果的に立教の現代心理学部映像身体学科(通称映身)で大学生活を過ごせたことは感謝してもしきれない。
映身で過ごした5年間で私は”勉強”に対する価値観を覆された。
高校生までは、勉強は暗記であり、テストでいい点をとらなければ意味がないものだと思っていた。それがなにかを学ぶことだと思っていた。
しかし、本当の勉強、何かを学ぶこととは、決められたものを暗記するのとは全く逆のことで、いまある常識や世の中からいかに脱して、考える力をつけることだということを知った。
これも実感に論理がともなった私の中の一つの真実である。
もし6年前、高校生に戻って受験をやり直せると言われても、早稲田には受からないだろう。やっぱり、机に向かって詰め込むタイプの勉強は私には合わないからだ。
でもいまの私は、いつか海外の大学院で、なにか勉強してみたいなんて思ったりしている。早稲田に落ちたから、それよりも難易度が高いところに受かればあの時の私も救われるという安直な気持ちが3割と、純粋に勉強に向き合いたいという気持ちが3割と世界中から集まる人と一緒に学びたい気持ちが4割だ。
日本の受験では、前者のような外発的要因で受験する人が圧倒的に多い(私もそうだった)が、実際に大学に入って、必要なのは後者のような内発的要因だろう。
6年前の私に
「数年後、私が勉強したいって思ってるよ!」って小声でひそひそ耳うちしたら
「そんなのあるわけないじゃん!勉強なんて!」って一笑されるのが目に見える。
大学で出会った友人からはまず間違いなく探究心、知的好奇心旺盛と言われるが、高校までの私は個性としてはあったものの、ここまで自他ともに自覚されるほどではなかった。
勉強をやればやるほど、自分の知らない自分に出会えるから楽しい。
勉強への嫌悪感があるあなたへ
もし、このnoteをここまで読んでくれた人で、勉強に対してポジティブなイメージをもっていない人がいたら、ぜひ一人でやってみてほしい、と思う。
私は高校生の時、クラスで優秀だと言われてテストでも上位の点数をとるような人たちを見て、「えらいな~でも私はああはなれないから」と真剣にやりもせずに、遠くから見ていた。
でも大学に入って、幸運なことに、自分の興味がわく学問に出会えたことで、知ること、分かること、そしてそのことで世の中の見方がちょっと変わる感覚がどれだけ素晴らしいものかを知った。
分からないことが分かるようになることは、きっとだれでも嬉しいはずだ。
でもそこに、人と比べられたり、周りが設定している基準値に届かなかったりすることで嫌になっていくのだと思う。
私がそうだった。
だからぜひ、一人でやってみてほしい。
自分と、その教科・学問・いま行っている勉強と向き合ってみてほしい。
煮汁のようにじわじわ、ふつふつと楽しい、嬉しい感覚が沸き起こってくるから。最初はその感情に対してびっくりするかもしれないけど、やっていけば、自転車をこいでいくようにスピードにのれる。自転車にのっているときに見える景色は歩いている景色とは全然違う。遠くまで行ける。
私もnoteを書いているひまではない。
明後日TOEICなのだ。読んでいる人に向けて書いた言葉が勝手に自分のやる気につながった。
なんてコスパのいい人生なんだ!
私もがんばるから、みんなもがんばって!
ではまた、こんど!
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