見出し画像

「『完全に白』ではない」を、容易く『黒』に書き換える自粛警察を見て、リスク論とは何であったかを考えている。

止まらないイベント中止を機にさまざまなことが思いを巡りました。行き着いたのは、リスク論とは何であったか、という話です。今日はこの話をしたいと思います。

今回の自粛を機にさまざまな人がそれぞれのカタチでリスクのことを考えたと思います。友達と遊ぶリスク、恋人と会うリスク、親戚と会うリスク、社員を出勤させるリスク、お店を開くリスク、イベントを開催するリスク、公共交通機関を使うリスク、現金を使うリスク、屋外で運動をするリスク、長時間ショッピングをするリスク・・・etc 

そしてそのどれもが白とも黒ともなんだかはっきりしなくて、もやもやする決断だったと思います。リスクとは灰色の存在なのです。毎日テレビやウェブのニュースが伝えてくれる数字が教えてくれるのは、白と黒の中間のことでしかなくて、私たちにはその灰色が「白と黒のどちらかに近い」という、その濃淡のことしか分かりません。

だけれども私たちの行動として表せるのは0か1かの両極端なので、私たちは「行くのか、行かないのか」「やるのか、やらないのか」、『決める』ということをやらなくてはならないのです。だって、白か黒か数字が教えてくれるのなら、『決める』ことなんて考えなくてよいことのはずです。

もっと具体的なリスク論の話をするために、たとえば食品の安全性ということを考えましょう。現代人の情報感覚を例えるにあたって、「『安全な食品』と『安全ではない食品』という区分があるのではない」という話があります。これはどういうことでしょうか。

私たちが何かの事実を認めるとき、客観的な数字は私たちの決定に影響力を持っているようで持っていない、ということです。そこには私たちの感情的な決定が混ざってしまっているのです。つまり食品の安全性のことを考えるとき、私たちは「『安全な食品』として流通する食品が、『安全だと感じられる食品』と、『安全だと感じられない食品』に区分できると感じている」のです。

ではこれのどこに問題があるのか。まず、問題は2つあります。1つ目の問題は「リスク」という言葉の勘違いの問題です。そしてもう1つの問題は勘違いしたままだと、リスクに縛られた不自由さに慣れてしまう問題です。

1つ目は、まさに先ほどのリスクの話と同じことです。(繰り返しになってしまって恐縮ですから、わかっている方は次の段落まで読み飛ばしてください)私たちが白と黒に、安全か危険かに、はっきり二分できるかに思えている『リスク』というものは本当のところ、灰色のグラデーションなのだ、ということです。

すなわち、安全も危険も、つねに境界線は曖昧なものでしかありえないのです。つまり、ゼロかイチかであって中間のない私たちの行為に対して、科学的数字はゼロとイチではなくて、その中間的な数字でしか、判断材料として提示しえません。

2つ目の問題ですが、この「白か黒かの問題」が、終わりなき風評被害を生むのだという話です。リスクがひとたびマスメディアなどに報じられた食品を考えましょう。「その食品は『確実に白』ではない」つまり、「その食品は『絶対に安全』ではない」というのはごく当たり前のことだということは分かりますね?リスクというのはゼロにはならないという話をすでにしました。

しかし、もし私たちが、「この世の食品には『安全な食品』と『危険な食品』の2種類しかない」という勘違いをしていたらどうなるでしょう?この勘違いをしたままだと、私たちの感情の上では「その食品は『確実に白』ではない」、しかもマスメディアではリスクがあると言っていた。だから、「その食品は『黒』だ」つまり「その食品は『危険』だ」という「情報」に、いとも簡単に書き換わってしまいます。

一度こうして「啓蒙」されてしまった私たちにとっては、その食品を避け続けることなど非常に簡単です。「○○産がだめなら、△△産の食品を食べればいい」といったぐあいに、選択肢が多く豊かな社会である今日の日本社会には、替わりの食品が多くあるからです。

こうしてリスクがある(と一回でも聞いた)食品よりは、リスクがない(ように思える)食品をみんなが選ぶようになることで、風評被害は永続化していくのです。

でも、こう具体例を交えて考えてくると、私たちはもっと白と黒のあいだのことができるように、頑張ってみるべきな気がしてきます。リスクについて、政府やマスメディアなど制度的チャンネルからの十分な情報の提供はもちろん必須でしょう。それをわかった上で、対策をしてもできないこと、対策をすればできることに分けてみることができるのではないでしょうか。

会わなくてもいいオンラインは『完全な白』。そのことは分かりました。次は、会っているけれど、「『限りなく白に近い』会っていること」と、「『これはまずいよねレベルで黒に近い』会っていること」を細かく見てあげて、頑張って白に近いところはできるようにしていけたらいいな、と思います。

当然私には何の決定権もないし、これを書く程度のことしか現状することもありません。しかし読んでくださった大人の方々に少しでも届いたとしたら、それだけでも小さな流れに変わると思います。そう願っています。

リスクは白に帰することはできません。それでも私たちは「『完全に白』ではない」けど「決して『黒』ではない」ものを許容する余地を、まだ諦めるべきではないと思うのです。

私たち一人ひとりには、安全か危険かどちらかに判定できるという前提で結論だけを求めるという姿勢ではなく、基本的にリスクは灰色のグラデーションであるとの前提のもと、灰色の濃さを判断する情報を一緒に求める姿勢が必要であるはずです。

この「あいまいさへの耐性」こそが私たちがいま守るべき矜持なのだと信じています。

当事者でもない僕がこのようなことを書いてよいのだろうかと悩みました。僕はただの大学生で、高校最後の大会がなくなった三年生でもなければ、自粛期間に売り上げが激減して借金を抱えてしまったお店の店長でもありません。
それでも、当事者でなくとも、前記の事例に関係している方々や、奮闘してくださっている医療関係者の方々に敬意を表した上で、「当事者意識」をもつのは大事なのではないかと思いました。
僕がこのような話を書こうと思い立った最終的な原因は甲子園大会中止の正式決定の報でした。同世代の若い方々が、なす術もなくただ受け入れることを余儀なくされているこの数日を思うと心が痛みました。
有事のときに、弱い人たち、頑張ってきた人たち、若い人たちのために知恵を振り絞って、なんらかの助けを用意してくれるのがヒーローたる大人たちだと思っていたから、今回のことはひどく残念でした。とはいえ、色々な大人の方々が開催に向けてぎりぎりまで動いてくださっていたことには、ご苦労様でした、と感謝の意を述べたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?