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24才. 浪人を経て,一橋大社会学部卒, iOSエンジニア. ───『時間がたっぷりあ…

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24才. 浪人を経て,一橋大社会学部卒, iOSエンジニア. ───『時間がたっぷりあると思えば、立派な大聖堂を建てられるが、四半期単位でものを考えれば、醜悪なショッピングモールができあがる』───

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僕たちは、「それ」を短縮形で「ランナーズハイ」と言ってきた。

それが雑談の常ではあるのだけれど、話題にはたいがい持ち時間のようなものがある。皆が興味を持てる話題には何分、1人だけが好きな話題には何分、といった具合に。例えば僕が「ランニングが趣味です」と言うと、30秒くらいある。こよなく愛するランニングのことを文字通り一息に語る。それはそれは涙ぐましい30秒だ。 かといって話術があるわけではない。唐突にポンッとボールが転がってきて、誰かが話題を取り替えるまでの持ち時間。これを自在に使って、何十弾も打ち込める言葉の速筋のようなものを僕はた

    • 微環境とサイクリング

      土曜日の夕方とかにカフェミュージックに浸されてしまうと、お会計をしてそこから〈生活〉に引き戻されるのが口惜しい。ざらついた生活感と無縁な、郷愁と甘美に満たされたこの場所にずっと居れないものだろうか。近所の星乃珈琲店をあとにするとき、僕は胃に収めたパンケーキと珈琲の重み以上の何かを感じる。後ろ髪をひかれる、とはこのことを言うのだろう。 こうしたことは何もカフェに限らず、僕の生活空間にあまねく及んでいる。「代金を支払って、カフェミュージックに浸されながらパンケーキと珈琲を口にし

      • 一緒のタイミングで死ねたらよかったね

        大事な存在を亡くした。猫エイズだった。円熟した10歳の、ちまっとした家族だった。発症から2ヶ月、病状の進行はあまりにも急峻な下り坂だった。 彼を看取ったのは2023年の冬のことだったが、散らかった記憶を納得できるまで整理するのにかなり時間がかかってしまった。 とはいえ、どうにもカラッとした文章が書けなかった。未だに僕の中では喪に服しているような気分が続いている。あまり明るくない話にはなるので、その点ご容赦してほしい。誰しも、誰かと関係して、誰かを失くし、死の何たるかと向き

        • 朝井リョウの才能に殺される季節が来た。就活生が『何者』を読むと、血が出る。

          僕は就活を控えた大学3年生。「朝井リョウの才能に殺されそう」と、思わず呟いたのは2週間前のことだ。 新潮文庫の帯にはこうある。 299ページ12行目、物語があなたに襲いかかる――。 この帯は脳の奥のほうをぐっと掴んで離さない。こんな予告をされてしまえば、見開きのページから、からだが準備をしはじめる。どんな伏線も目いっぱいに回収できるように、念入りに読むことを決めた。 のっけから、直木賞作家の観察力は、分不相応な場所に潜んでいる大学生をぐっと捕らえて日の目にさらす。

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        僕たちは、「それ」を短縮形で「ランナーズハイ」と言ってきた。

          「あの眼」を恐れていた頃の記憶

          「ゴールが単一であるからこそ成立する、縦社会の絶対善」を心の底から嫌った。けど、「それ以外の世界に移る」なんてカードは知らなくて、選びようもなかった。 あの頃、何度となく繰り返されたこの会話。 「―― すみません、無理です。」 「え?」 「―― は、みんな同じだよね」 そう、「俺が正しい」と言わんばかりの、この目を向けられた記憶が、僕のどこかに生きている。「さて、どんな言い訳が出てくるのかな」と言いたげな、この目*。( *上画像参照 ) あの日は、ただ、頭を下げ

          「あの眼」を恐れていた頃の記憶

          身に纏う慣性の奔流が僕らを生かしている

          身に纏う慣性の奔流が僕らを生かしている。適度に勢いを保たせた、慣性の水流を漂う矢印が紛れもなく僕らで、ひとたび慣性のネジを緩めれば、僕らを僕らたらしめていたはずの〈日常〉の所作たちは静かにはがれ落ちていく。 〈健全〉な1日のタイムラインに千切られて、追いすがっていくことさえやめてしまったとき、10才の何の考え無しの僕が成し遂げ処理していた〈日常〉の所作の、その膨大さに驚きを覚える。 それら〈健全〉なニンゲンの維持補修行為を、投げ出さずに成し遂げることが、いかに雑多で膨

          身に纏う慣性の奔流が僕らを生かしている

          〈若さ〉に〈弱さ〉をラベリングして、後輩越しに抱く先輩としての尊厳が、僕たちを甘やかしてしまう。SNSを覗き込むと、心許ない僕らの顔が液晶に反射している。

          トレンドにのぼり始めた「春から○○」のタグラインに逐一「いいね」を付けて、電子計算機の前で大学の1年目を終えた彼/彼女らがきゃっきゃしている。 「不安な想いと期待感に悲喜こもごもの新入りが、可愛くてしょうがない」のだそうだ。そう呟くテキスト越しの彼/彼女らの目は、きっと輝きを放っている。 ただ僕には、彼/彼女らがみせる、その"特有の眼差し"が、ちょうど「格好の獲物を見つけたサバンナの肉食獣の"それ"」と重なって映ってしまう。 ◇ 彼/彼女らの1年目には、なにかと逆風が

          〈若さ〉に〈弱さ〉をラベリングして、後輩越しに抱く先輩としての尊厳が、僕たちを甘やかしてしまう。SNSを覗き込むと、心許ない僕らの顔が液晶に反射している。

          「信じたくないけれど、少しお利口になる度に、僕の人生は数直線上のゲームの様相を呈してきている。」

          ◇ 信じたくないけれど、少しお利口になる度に、僕の人生は数直線上のゲームの様相を呈してきている。〈普通〉の評価軸のなかで、〈正解〉を勝ち取るために、日常に〈合理的〉な予防線を張るゲームだ。 例えば最近は、うまく食べられなくなってしまった。コンビニでおにぎりを買おうとしても、具や味、一緒に食べる人について思いを巡らすことができない。できない、というか、それらを考えるより先に、『糖質何グラム』『これを食べたら自分がどれくらい太るか』といった”数”を連想してしまう。 ◇ 〈

          「信じたくないけれど、少しお利口になる度に、僕の人生は数直線上のゲームの様相を呈してきている。」

          「『完全に白』ではない」を、容易く『黒』に書き換える自粛警察を見て、リスク論とは何であったかを考えている。

          止まらないイベント中止を機にさまざまなことが思いを巡りました。行き着いたのは、リスク論とは何であったか、という話です。今日はこの話をしたいと思います。 今回の自粛を機にさまざまな人がそれぞれのカタチでリスクのことを考えたと思います。友達と遊ぶリスク、恋人と会うリスク、親戚と会うリスク、社員を出勤させるリスク、お店を開くリスク、イベントを開催するリスク、公共交通機関を使うリスク、現金を使うリスク、屋外で運動をするリスク、長時間ショッピングをするリスク・・・etc  そしてそ

          「『完全に白』ではない」を、容易く『黒』に書き換える自粛警察を見て、リスク論とは何であったかを考えている。

          オンライン授業で勉強時間の総量は間違いなく増えていて、Google Classroomの録画配信は理想的な受講体験になりつつあるんだけど、Zoom型授業が凄く疲れるのでその訳を考察してみた

          つまり有料でオッサンのインスタライブ見てた時間が短縮できて快適になったよね、という話. かっこよく言えばこんな感じになるんだろうけど↓ 時空間の魔法陣が解体され、デジタル空間に浮遊した講義装置は各々の生活に最適化された形で消費され始めている. あと、意外とみんなモチベーションは上がっていたりする.だって部活もサークルもないしね? かっこよく言えばこんな感じになるかも↓(2回目) ソーシャルディスタンスで孤独化した学生たちは、集団のなかで没個性化されていた自己意識を回

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          誰だって最初は新入りなのに、心地いいコミュニティに新しいやつが入ってくると古参面して身構える。あれなんだろうね。

          今日も世界のどこかで『何かの新入り』と『何かの古参』が対立している。たぶん。「あいつだれ?」状態を乗り越えるのは意外と厄介であることを僕も少しは知っている。 高2の秋に転部したとき、僕は純然たる新参者だった。 コミュニティに途中参入した人間は、メンバーとエピソードの穴を埋めるのに苦労するものだ。 僕の場合、高1の初々しい時期が抜け落ちるわ、先輩が引退した時期に来るわ、それはもう穴だらけだった。 関わりの深いであろう一個上などは、転部する前に既に引退していたので未だに先輩系列

          誰だって最初は新入りなのに、心地いいコミュニティに新しいやつが入ってくると古参面して身構える。あれなんだろうね。

          時間に追われて

          「忙殺」は感情の死だ。 君は今、紛れもない傍観者だ。 他人の時計を体に巻いて、その針の回転を頼りにしている。 本当はオペレーションを回す為の維持単位として 他人の物語で消耗しているのに、 これが一人前なのだ、と、いっちょまえに今を生きているつもりになっている。 そうして、秒針の摩擦熱に浮かされながら 承認欲のまどろみの中で、傍っと自我の輪郭が溶けている。 予報外れの夕立に降られて、濡れた前髪で額が冷たい。そんな帰り道、フィクションに漂わせていた意識がプツンと醒める。

          時間に追われて

          直進する模範囚

          何回でも確認したいけど、「大学生を自分史の夏休みと見て、社会人まであっという間だから充分満喫してね」という構図は、社会人を一種の死と捉えている。 「生と死を分断し、死までを熱心にカウントダウンして、生の有限性を強調する」という構図から、僕たちはどうしても逃れられない。 似たような人生訓の分流、同様のカウントダウン癖が、人生のあらゆるステージで繰り返され、時間飢饉の心性が何重にも刷り込まれている。 ステージの転換点をアナウンスし、これを急かす人間は、どうせ数年も遡ればその

          直進する模範囚

          もっとキャッチーでキュートなハイデガーが読みたい

          今さら誰に気を遣うつもりもないが、論理的に話せる人が好きだ。 これが有り難いことに、僕の独特な趣向という訳でもなく、一定の割合の人は僕と意見を一にするらしい。 書店に行けばもはやデフォルトの様にロジカルシンキング系の本が平積みされている。 そういう見慣れた光景のおかげで、特にネガティブな印象もなく自分の好みとしてこの感覚を抱いてきた。 それが最近になって、論理的な話が出来る人との居心地の良さって"自己本位"に基づいてるんだな、ということに気付いた。 論理的に話してくれれば、

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          天気予報だけ見れば、知りたいニュースは全部わかる。

          「"今日"僕が知るべき出来事を無尽蔵に提示してくる匿名の誰か」がいるのは冷静に考えて気味が悪い。顔を持たない彼らが熱心に並べてくるラインナップを、僕たちは疑いもせずに食べている。原材料は何で、どういう調味料をかけたのかも僕たちは深く考えることをしない顔を持たないニュースというものが奇妙でならない。過去の教訓めいたものの焼き直しはまだ存在意義が分かるものの、「"今日"僕が知るべき出来事を無尽蔵に提示してくる匿名の誰か」がいるのは冷静に考えて気味が悪い。 顔を持たない彼らが熱心に

          天気予報だけ見れば、知りたいニュースは全部わかる。

          「時間」は発明である、という素朴な確認

          テレビは年末特番だなんだと騒ぎ立て、東京の一角、某駅前のX型交差点ではカウントダウンのバイブスがぶち上がるカウントダウンだなんだと騒ぐテレビを見ている。漠然と今年を振り返るつもりだったが、12月31日と1月1日の間に生まれる大きな分断を前にして、「時間」ってほんとは何なの?という素朴な疑問について考えてみることにした。 昔から「1年」「365日」は恣意的な区切りだということについて考えてきた。 日ごと休みなくめくられてきた12枚組の紙束は一番最後のページに差し掛かり、今日1

          「時間」は発明である、という素朴な確認