「時間」は発明である、という素朴な確認

テレビは年末特番だなんだと騒ぎ立て、東京の一角、某駅前のX型交差点ではカウントダウンのバイブスがぶち上がる

カウントダウンだなんだと騒ぐテレビを見ている。漠然と今年を振り返るつもりだったが、12月31日と1月1日の間に生まれる大きな分断を前にして、「時間」ってほんとは何なの?という素朴な疑問について考えてみることにした。

昔から「1年」「365日」は恣意的な区切りだということについて考えてきた。
日ごと休みなくめくられてきた12枚組の紙束は一番最後のページに差し掛かり、今日12月31日の24:00をもって役目を終え、新しい12枚組に掛け替わる。
テレビは年末特番だなんだと騒ぎ立て、東京の一角、某駅前のX型交差点ではカウントダウンのバイブスがぶち上がる。

しかしながら、1月1日と12月31日とで流れゆく日常の風景に何が変わるわけでもない。
また1つ年を取ったなんて言うが、その「年」って本来は単一の時間の流れの塊だったものを刻んだモノなわけで、生物学的な老いとは定義からして無縁なものだ。
age(年齢)やyear(年)といった恣意的な区切りは、仮の目安として経過した時を示しているだけで、本来副次的なindicator(指標)であって、個々人の私的な感覚がメインの生であるはずだろう。

初めに古代人は農耕を創造した。
In the beginning Ancients created agriculture.
古代人は言った、「時間あれ」そして時間があった。
And ancients said,Let there be time:and there was time.

「時間」の発明は食糧の安定生産という時代の要請に応えるものだった。季節の概念が農耕には不可欠だったのだ。
当時の最先端の天文学者が作り出した、太陽光の影を元にした周期律、これがいわゆる私たちが「時間」と呼んでいるものだ。
地球が太陽の周りを回る周期を元に、1年365日という暦を設定したエジプトにおいては、それ以前から12進数が生活に根付いていた。
そのため紀元前1500年までには、昼間は太陽光で作られる影をもとに、夜間は観測できる星の位置をもとに、それぞれ12分割する日時計が発明された。
早くもこの時期に1日は24の分割数に落ち着いたのである。
しかしながら、太陽が照らす影と星の動きに頼ったこの方法では、一時間の長さは、季節ごとの日照時間の変化に大きな影響を受けてしまう。
24の時間単位がぴったり均等の長さに揃うようになるのには、14世紀の機械時計の誕生を待つことになる。

そしてそうして時間はとても恣意的な概念であればこそ、時間は方向があるわけではなく、一直線でもなく、さらに言えばアインシュタインが研究したなめらかで曲がった幾何学のなかで生じるわけでもない。

そこにトランプがある。まず、赤と黒という色に着目するとしよう。これをシャッフルしたとき、2つの色は混ざってしまった、と私たちは考える。
今度は、ハートとダイヤという形に着目するとしよう。これをシャッフルしたとき、2つの形は混ざってしまった、と私たちは考える。
私たちは、トランプを「53枚のカード」と考えることもできるし、「赤26枚黒26枚(ババ1枚)」と考えることも、あるいは「ハート、ダイヤ、スペード、クラブが各々13枚ある(ババ1枚)」と考えることもできる。
つまり私たちは世界(トランプ)を、(カード、でも色、形でも区切ることが可能という意味で)かなり曖昧なくくりで見ている。

曖昧な、くくり、これを物理学的に言うとマクロな、部分集合、と呼ぶ。

私たちは形状的なものであれ、色彩的なものであれ、あるマクロな差異に着目してそこに特定の性質がある、と大ざっぱに捉える。言い換えれば、
ミクロでは粒子が変わらない形でそこにあるのに、私たちは曖昧で統計的な目をもって、マクロな部分集合で線引きして世界を区切る。

このマクロな部分集合のことを物理学的に「秩序」と呼ぶ。そしてこの部分集合が崩れると、"秩序があった"過去と、"崩れてしまった"未来という時間の流れが生まれる。
前者をエントロピーが低い状態、後者を高い状態という。

この物理学チックな話から分かるのは、過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ている私たち自身の視界が曖昧だからである、ということだ。

ここで面白いのは時間や空間はそこにあるように「見えるだけ」という理論があることだ。

量子論を取り入れたループ量子重力理論では、分割不可能な最小単位である「空間量子」が連続することで、まるで時間や空間といった一つなぎのものが存在するかのように「見えるだけ」としているのである。

空間量子が空間を埋め尽くしているのではなく、空間量子それ自体が空間を生み出しているのである。それらは時間の中に存在するのではなく、絶えず相互作用しあっていて、それこそがこの世界のあらゆる出来事を発生させている。

こうして時間はとても恣意的な概念であればこそ、時間は方向があるわけではなく、一直線でもなく、さらに言えばアインシュタインが研究したなめらかで曲がった幾何学のなかで生じるわけでもない。そして相互作用の相手との関係に影響されて姿を表す。

さて、「時間」は発明である、そんな素朴な確認をしてきた。私たちの素朴な疑問をこんなに真剣に考えている天才的な大人たちがいる。そう思うとほんとに頼もしいものだな、とそんな風に感じていたら年を越してしまった。

最後に物理学者カルロ・ロヴェッリの想像力をかき立てる表現を添えて終えたい。

わたしたちは物語なのだ。両目の後ろにある直径二〇センチメートルの入り組んだ部分に収められた物語であり、この世界の事物の混じり合い(と再度の混じり合い)によって残された痕跡が描いた線。エントロピーが増大する方向である未来に向けて出来事を予測するよう方向づけられた、この膨大で混沌とした宇宙のなかの少しばかり特殊な片隅に存在する線なのだ。
『すごい物理学講義』カルロ・ロヴェッリ 河出書房新社 2017年

あけましておめでとうございます!2019年読んで頂いた皆さまありがとうございました!2020年っていう字面の近未来感はんぱないな
ってことで2020年ですね!
僕はnoteで蓄積した下書きたちを見ながら
はやく続きを書きたくて歯がゆいとき、忘れない言葉があるのですが

時間がたっぷりあると思えば、立派な大聖堂を建てられるが、
四半期単位でものを考えれば、醜悪なショッピングモールができあがる
--バイオリニスト、スティーヴン・ナハマノヴィッチ--

まさに人生もこれだな、と思っていて、
1999年生まれでちょうど2020年に成人式を迎えるわけですが
人生100年って考えると2100年も僕は生きてるわけで、
2020年!みたいに近視眼的にみるんじゃなくて
2020年からの区切りの10年っていう大きなスパンでいくぐらいの気概ででっかい大聖堂建てたいなと思います!
2020年も蓄積した下書きの圧に負けず書いていきます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?