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誰だって最初は新入りなのに、心地いいコミュニティに新しいやつが入ってくると古参面して身構える。あれなんだろうね。

今日も世界のどこかで『何かの新入り』と『何かの古参』が対立している。たぶん。

「あいつだれ?」状態を乗り越えるのは意外と厄介であることを僕も少しは知っている。
高2の秋に転部したとき、僕は純然たる新参者だった。

コミュニティに途中参入した人間は、メンバーとエピソードの穴を埋めるのに苦労するものだ。
僕の場合、高1の初々しい時期が抜け落ちるわ、先輩が引退した時期に来るわ、それはもう穴だらけだった。
関わりの深いであろう一個上などは、転部する前に既に引退していたので未だに先輩系列の話となると沈黙するしかない。

それでも、昔話をする度に「それなに?」と尋ねることが必要な僕に、彼らはいつも快く出来事を共有してくれたように思う。
"僕がその場にいなかったから"、"経験を共有していないから"といって変にはぐらかされたことが一度もない。
1日1回は「それ知らねぇー、、」の歯がゆさを飲み込みながら
あぁ、きっとこうやって当時も僕を受け入れてくれたんだなぁ。と、まだ関係値の浅かった頃のおぼろげな記憶を手さぐりで見つける。


『自分が初期から携わっている組織が月日を重ねて、日常の一部と認めてよいほどには顔馴染みの面々が増えてきた折に、新しい加入者が現れる』

そんな日は、幸か不幸か、人生でそう少なくない数やってくる。

発足した時からいたような、古参とでも呼べるような人々にとって、中途で加入する者なんてのは、その繊細な関係性に3足跳びで土足で入り込まれるような苦々しい思いがあるのかもしれない。
他人同士が心を許す。はなまるうどん一杯で2時間が飛ぶようにすぎる。その段階までに、決して欠くことの出来なかったであろう出来事はたぶん、数え切れないし
自分史の蓄積をきちんと愛でることができないのは不健康だ。

それでも、その新参者を寛容に見つめるまなざしが、覆せない時間の格差からきっとその誰かを救ってやれる。

その救われた誰かが紛れもなく過去の僕だったかもしれない。


さて、目の前の新参者はコミュニティクラッシャーになるのではないかと、身構えるのも悪くない。
でもたぶんその人は出会う時期がずれただけだ。
そしてきっと古参メンバーの関係性が逆に普通ではなかった。同じ時期に同じステージを辿ったのだ、それはそれで別個に偶然性を愛でればいい。
あるべき古参の身の振り方は、純粋に人柄をみてやることだ。「新参者か古参か」の判断は一旦保留して。


彼らと遊ぶのがもう4回目になるあたり、大学の春休みってやつは長い。
額をうつ小雨が心地のいい帰り道があるものだ。
今日もそんな日だった。

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