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オンライン授業で勉強時間の総量は間違いなく増えていて、Google Classroomの録画配信は理想的な受講体験になりつつあるんだけど、Zoom型授業が凄く疲れるのでその訳を考察してみた

つまり有料でオッサンのインスタライブ見てた時間が短縮できて快適になったよね、という話.

かっこよく言えばこんな感じになるんだろうけど↓

時空間の魔法陣が解体され、デジタル空間に浮遊した講義装置は各々の生活に最適化された形で消費され始めている.

あと、意外とみんなモチベーションは上がっていたりする.だって部活もサークルもないしね?

かっこよく言えばこんな感じになるかも↓(2回目)

ソーシャルディスタンスで孤独化した学生たちは、集団のなかで没個性化されていた自己意識を回復し、自己統制の効く受講スタイルを取り戻しつつある.

僕の所属する一橋大学では、ゴールデンウイーク明けと同時に完全オンライン授業が始まった.

大学の動きの略解としては、三月末に学年暦を再構成し、春夏学期の全授業完全オンライン化を決定、春休みの一ヵ月延長の間に移行措置を講じた.

(まぁ当初はガンガン4月6日にやる気だったけど、忘れてあげるか)

オンラインの夜明けとともに、1月初旬に春休みに突入した在校生にとっては実に117連休が明けることとなった.(もはや自分が大学生だということさえ忘れていた)

本学のオンライン授業の主軸はZoomによるライブ授業、Google Classroomによる録画授業である.

一方向かつ大規模の講義授業をGoogle Classroomに一元化して、オンデマンドで受講・課題提出を行うこととし、双方向優位かつ少人数の授業をZoom上でライブ配信することで棲み分けを行った形だ.

有料でオッサンのインスタライブを見る.
録画授業にみる受講体験の快適化

既に「動画の倍速視聴」が一定の市民権を得るようになって久しい.

これはYouTube等の動画投稿プラットフォームの興隆と、コンテンツの膨大化、並びに可処分時間の圧迫、が引き起こした、視聴者の視聴スタイルの進化といえる.

そうした時代性からみるならば、当然予想される通り、録画配信される教授の喋りを倍速で視聴する.

これが学生にとっていたって本能的な反応というものだ.(105分の授業が50分の授業になった!わーい!)

これは悪しきことだろうか.これでは学生が今まで以上に漫然としてしまう.そういった発想を一旦飲み込んで、聞いて頂きたい事がある.

全ての教授の、全ての発話やスライドを、一様の重みをつけて引き受けなければいけない、という大学講義の状況は学生にとって本当に良きことだろうか.

全大学でみても最長の部類に入る、105分の授業時間をこなしてきた本学の学生は2017年の105分制導入以来、この状況を憂慮してきた.

単に面倒だという類の問題ではない.むしろじっと座っていることは得意だ.

しかし、時間をかけてじっくり飲み込みたいところは、トントン拍子で進行されて尺が足りない.

一方で”尺が余るから”といって、控えめに言ってもどうでもいい人間の、どうでもいい雑談を金を払って聞かされている.

有料でオッサンのインスタライブを見させられているような、このやりきれなさに、耐えかねるのだ.


録画配信ほど、この関係が逆転するメディアはない.

時空間から解放された学生たちは、倍速と一時停止の選択肢ひとつで、各個人の理想的な重みの学習を実現しつつある.

冗長な話を倍速で快適化する代わりに、重厚な理論を図解したスライドや含蓄のある発言は、一時停止と巻き戻しで画面に穴が開くほど真剣に見ている.

収束の先にこの録画配信が維持されるか否かは神(教務課)のみぞ知るところだが、この快適体験を知ってしまったら、どう考えても元の感覚で授業に臨めるわけがないので神(教務課)の英断を祈るばかりだ・・・.

Zoom型ライブ授業で学生たちはなぜ疲弊するのか

Zoom型のライブ授業は、単に教室の講義装置をオンラインに移し変えたという類のものではない.

教室で授業を受けることと、Zoomで授業を受けること、この両者にある決定的な違い、そして学生たちを疲弊させるものの正体は「視線」である.

まあ簡単にいえば、誰かと目が合ってる感じがして落ち着かないなぁというやつ.

学生たちは、旧来(ほんの数ヶ月前だが)の形式、すなわち、「生徒の視線が教員に向かって一点に集中する」という講義装置の空間構造に慣れ親しんできた.

そして「学生各々の正面の姿」は教師以外の誰にも眼差されることがない点で、他者の視線から無防備であり、(よそ見をしている学生は注意を受けるといったように)授業を受けるという行為はこの事実の保証によって保たれてきた.

このある種特殊ともいえる形態のなかで授業を受けられるように、学生たちは長い間かけて訓練を受けてきたのだ、ということも教育社会学の見識から言われている.

一方で、Zoom型ライブ授業では、オンライン相互映像化によって、視線は分散され、その上で我々の身体は「正面」から眼差される.

加えてデジタル特有の身体性の欠如、すなわち、他者と同じ空間に居ないことによって、いつ、だれに眼差されているかは分からない。

つまり自分の身が不随意に、かつランダムに視線に曝される一種の脅威を引き受けているのだ.

私見としては、これはベンサム(功利主義、最大多数の最大幸福で有名)の考案した監獄パノプティコンに近い.

中央にある看守の部屋はマジックミラーで覆われていて、取り巻く囚人部屋からは見えず、囚人は看守の視線を内面化する.

不随意かつランダムに眼差されることは、このように一種の刑罰として考え出されることもあるのだ。その意味で、前段で「脅威」と表現したことも何ら大袈裟なことではないのだ.

ゆえに、Zoom型ライブ授業は、通常の授業に比して心理的負担を強いられるものである.

発言者の役割をなすときの刹那的な視線を除いて、視線に曝されることのなかった、旧来の講義装置の中での振る舞いに慣れてきた学生たちにとって、この新たな視線装置は少しばかり試練を与えていると言えるだろう.

注記:画像はtwitter上で拾ったもの

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