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leylinehunter
2020年4月13日 00:18
8 いつのまにか、夏が本番を迎えていた。 雑居ビルに挟まれた中野のぼくのアパートは、エアコンの室外機と、通りをうめる車からはき出される熱で、るつぼのようにうだっていた。 仕事から戻り、冷房をフルパワーにしても、芯まで熱くなったコンクリートからは、濃い液体のような暑熱がいつまでも染みだし続ける。 その暑さのせいか、よく夢を見るようになった。 四畳半二間に小さな流しがついただけの古
2020年4月15日 22:06
9 岬をまわりこんだとたん、風の方向が定まらなくなった。 正面から吹きつける風に抵抗して体を前にあずけていると、今度は背中をどやしつけられて前のめりになる。体を右に傾けて右にまわった風に抵抗すれば、左から叩かれる。 嵐の海で翻弄される難破船のように激しく風雨にもてあそばれていた。 こうなると、真っ直ぐ走るのが至難の技で、センターラインを大きくまたいで蛇行を繰り返す。この北の果ての道
2020年4月20日 10:57
10 そのディスクは、関連装置と一緒に、あの雑然としたシンの書斎で見つけた。 いや、みつけたというよりは、もたらされたと言ったほうが正しいかもしれない。 真澄が教えてくれたキャビネットにあったディスクを調べ上げるのに、丸々二カ月かかった。ぼくは、その二ヶ月間、会社でもアパートでもほとんどの時間をシンのディスクを調べることに費やした。 だが、結局、キャビネットにはぼくの求めるものはな
2020年4月21日 12:03
11 フェリーの中ですっかり意気投合した三輪さんとぼくは、北海道に上陸すると、長万部のキャンプ場に並べてテントを張った。 駅前で三輪さんが茹でたての毛ガニを買い、それをつまみにして酒を酌み交わす。 ぼくが毛ガニの殻をむくのに手こずっていると、「内地の人は、こういうの下手なんだよな」 と、笑って言って、器用に殻を剥がすと、きれいに身を取り出して、たちまち大きなコッヘルに山盛りにした。
2020年4月22日 07:13
12「ぼくは、ここで別れることにしますよ」 翌朝、出発の準備をしているときに、ぼくは話しをきりだした。 そろそろ一人旅に戻る潮時だと思った。 これ以上彼と同道していては、自分がこの旅に出た目的が希薄になってしまう。「三輪さんも、実家に帰ると決められたわけだし……」 ぼくが言うと、彼はさびしそうな目をしてこちらを見た。そして、遠く地平線の彼方に目をやりながら言った。「きみを
2020年4月23日 14:22
13 眼前にあった光景が、一瞬にして消えた。 汗ばんだ肌を撫でる涼しい風や、緑の香りも、葉擦れの音も、鳥の囀りも……何もかも消え失せていた。 三輪さんの姿も無くなっていた。 すべてに代わって、まるでいきなり真空の中に放り込まれたように、虚しい闇が広がっていた。 ぼくは、最初、自分が脳溢血の発作にでも襲われたのかと思った。 だが、意識ははっきりしていたし、苦しさや痛みも感じら
2020年4月24日 08:42
14 三輪さんとぼくは、再びオートバイのエンジンをかけ、アクセルを開けた。 丈の低い笹に覆われた斜面をつづら折れに降りる道は、明るく見通しがきいた。 ぼくたちは、眼前に広がっていく谷間の景色に見とれたまま進んでいった。谷に降り、集落へ向かって進んでいると、この風景と深く繋がっているという感覚がますます強くなっていく。 谷を貫流する沢の澄んだ流れに乗って渡ってくる風は、体の芯まで染み
2020年4月24日 16:56
15 好天が続いた。谷を貫流する沢が涼風を運んでくるおかげで、ここは、旭川のような内陸特有の籠もった暑さとは無縁だった。 三輪さんは腰を落ち着けると、すっかりくつろぎ、毎晩近所の顔なじみを訪問しては、旧交を温めるんだといって遅くまで戻らなかった。 登季子は、呆れ顔で兄を送り出すと、その後は遅くまで、古い資料を座卓の上に山積みにして、調べものをしていた。 ぼくは、いつも夕暮れ直後には
2020年4月26日 07:04
16 白い顎髭を民族衣装の合わせのあたりまで垂らした大柄な長老が、登季子の家の仏壇に飾られていたのと同じ、白木を削って作った御幣のようなものを振りはじめた。 その乾いた音を合図にするように、周囲のざわめきが、水を打ったように静まった。「長老が手にしているのは、イナウっていうの。白木の枝を玉ねぎをむくようにして、あんなふうに花のように削り出すの。魔除けに使うのよ」 登季子がぼくの耳元で
2020年4月26日 19:07
17「昔、日高の山ふところのコタンに、精神の良い狩りの上手な青年が住んでいたの。……精神の良いというのは、アイヌ独特の言い回しで、性格や器量がいいことを言うの」 老婆が炉辺で昔話を語るように、彼女は語り出した。 それは、日高アイヌに伝わる話だという。 どんなに不猟の年でも、この若者だけは、狩りに出るとかならずたくさんの獲物を手に戻ってきた。それをコタン(集落)に戻ると惜しげもなく村人
2020年4月27日 11:48
18 夢を見た。 重い雪雲がたちこめる黒い海原。風が沸き立ち、波がうねりをあげ、波頭が白く砕ける。ひどく寒い。はるか彼方で木の葉のような舟が何艘も、波にもてあそばれている。 ぼくは、意識だけ宙を漂っているかのように、どこか上のほうから見渡している。 それは、イタオマチプの船団だった。 先頭の舟の舳先には、朱色の衣装を着た少女が立っている。彼女は、手を高く差し上げ、波間に散り散り
2020年4月28日 07:07
19 目覚め?(明るい……。朝のようだ。でも、何かおかしい) 酔いが後頭部に重く淀み、吐けば少しは楽になるかもしれない、でもなんとか我慢できるかも……と、煩悶しながら朝を迎えたような、とても嫌な気分。 首から肩にかけて石のようにしこっている。 目をあけると、ほんとうに二日酔いの朝のように吐気がこみあげる。でも、なんとか、こらえて目をあけた。 ミルクを流したような白い空間。微
2020年4月29日 12:10
20 登季子の姿がなかった。 ぼくは、彼女が、またあの丘に登ったのだと思い、テントを飛び出して、深い笹に覆われた急な斜面を登っていた。「登季子さ~ん! トキコさ~ん!!」 藪を掻き分けながら、彼女の名を必死に叫ぶが、その声は分厚い笹の壁にむなしく吸い込まれてしまう。 急がなければいけない。 彼女に何かが起こっているという胸騒ぎがした。 だが、あせればあせるほど、足がずり
2020年4月30日 22:09
21 朝食を終えると、ぼくたちは、テントを撤収して出発した。ここからは沢に沿って溯り、日高の主脈を目指すのだ。 ぼくが、潅木を踏み分けながら走った跡が残っていた。 さっき得体の知れないものの気配を感じたあたりには、何の痕跡も残っていなかった。やはり、錯覚だったのだろうか。 大部分の装備をぼくが背負った。登季子は自分の身の回りのものと食料しか背負っていないが、山歩きに慣れていないせい