チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.16

16

 白い顎髭を民族衣装の合わせのあたりまで垂らした大柄な長老が、登季子の家の仏壇に飾られていたのと同じ、白木を削って作った御幣のようなものを振りはじめた。

 その乾いた音を合図にするように、周囲のざわめきが、水を打ったように静まった。

「長老が手にしているのは、イナウっていうの。白木の枝を玉ねぎをむくようにして、あんなふうに花のように削り出すの。魔除けに使うのよ」
 登季子がぼくの耳元でささやく。

「登季子さんの家の仏壇にも同じのがありましたね」
 ぼくが言うと、彼女は小さくうなずいた。

 湖畔の黒い砂の上に大木をくりぬいて造った舟が舳先を湖に向けて置かれ、その艫のほうに、祭壇がしつらえられている。

 長老は、その祭壇に向かってイナウを振りはじめた。

 舟は全長が10mはありそうだ。幅も大人ふたりが横に並んで楽に座れるほどある。内側にも外側にも一刀彫りの彫刻のような刃の跡があり、どこにも継ぎ目らしきものはない。これが、一本の木から削り出されたものであることは確かだった。このサイズの舟を削り出せる木とは、どんな大木だったのだろう。そもそもまだそんな木があったことが不思議だった。

 船べりには、横波を避けるためか、2センチくらいの厚みの板が防壁のように取り付けられている。取り付けられているといっても、釘でうちつけてあるのではなく、船べりと板に細い穴をあけ、そこに木の皮を撚って作ったロープを通して、しっかりと綴られている。

 舟の中央には、舟の長さと同じくらいの高さの帆柱があって、折り畳まれた帆がかすかに風になびいていた。

「イタオマチプっていうの。板綴り舟。私たちの祖先は、これで外洋へ繰り出したのよ」

「外洋へ?」

「そう。ある者は津軽海峡を渡って内地に行き、ある者は宗谷海峡を渡って樺太へ行き、そしてある者はさらに間宮海峡を渡って大陸へ行ったのよ」

 それは、丸木舟としては見たこともない立派なものだ。だが、それで外洋へ漕ぎだして大陸まで行ったといわれても、にわかには信じ難い。荒く冷たい北の海を渡るには、それは、いかにも頼りなげだ。

 長老は、まず祭壇に向かってイナウを振り、祝詞のような呪文を重々しく唱えた。

 そして、振り向くと今度は舟の艫のほうに近づき、そこで、同じようにイナウを振って、呪文を唱える。さらに左舷、艫をまわって右舷、そして舳先に回って同じことを繰り返した。

 舟と祭壇の周りには、長老と同じような文様の民族衣装を着た人たちが、茣蓙の上に胡座をかいて取り巻いている。中年から老年の男たちがほとんどだが、写真で見た登季子のおばあさんのように顔に不気味な入れ墨を入れた老婆も幾人か混じり、若い男女も少しいる。さらに居並ぶ何人かは明らかに外国人で、毛皮製のブーツに見慣れぬ民族衣装という姿だ。全部で三十人から四十人はいるだろう。ぼくと登季子はその輪の外側に立って儀式を見守っていた。

 長老は舟の周りを一巡すると、祭壇にイナウをささげ、今度は祭壇の中央に置かれていた茶碗ほどの大きさの漆塗りの杯と、彼が着ている衣装と同じような模様が彫り込まれた竹べらのようなものを手に取った。

 そして、ふたたび舟の周りを巡りながら、杯の中の酒をへらですくっては船体にまんべんなくふりかけていく。

 酒の清めが終わると、五歳くらいの女の子が舳先に立たされた。彼女は、真っ赤な生地に金糸で昇龍の刺繍を施した鮮やかな衣装をまとい、木のつるで編んだ籠を手にして、神妙な顔で直立している。

 舟は、その子を乗せたまま、若い男たちの手によって、ゆっくりと湖のほうへ押し出されていく。

 舳先が水面に触れると、藍色の地に女の子と同じ図柄の刺繍を銀糸で浮かび上がらせた衣装を着た男が二人、艫に近いほうに乗り込む。彼らは左右に並んで立て膝をして、手にした大きな櫂を左右に繰り出す。

 三人が定位置につくと、男たちは、そのまま舟を紺碧の水面へと押しだした。

 艫の二人の男が櫂で漕ぎ出すと、まるで水銀の表面に立つような重厚な波紋を広げながら、舟は水面を進み出した。

 舳先の少女が籠の中に手を入れ、何かをつかんで空に撒く。

 それは、色とりどりの花びらだった。

 少女が撒いた花びらは、降り注ぐ陽光にきらめきながら、大きな燐粉のように宙を舞い、鏡のような水面に散り落ちる。それはまるで、昇竜の体から剥がれ落ちる鱗のひとひらひとひらのようだ。

 籠の中の花びらを撒き終わると、艫にいた男たちは、櫂を上げ、帆柱に帆を張った。白い帆は、ピンと張り詰め、いっぱいに風をはらむ。すると、舟は意外なスピードで進みだした。

 湖を二つに裂くようなくっきりとした航跡を残して、舟はだんだん遠ざかる。そして、点のようになって、視界から消えた。

 茣蓙の上で胡座をかいた人々は、視界から舟影が消えても、誰も一言も話さず、その消えた先をずっと見守っていた。

 風の音と打ち寄せるさざなみしか聞こえない静寂の中で、登季子がふいに囁く。

「義経伝説って知ってる」

「義経は、三厩では死なず、生き延びてチンギス・ハンになったっていう話しですか」
 彼女が何を言おうとしているのかわからず、顔を見る。

「義経は、あのイタオマチプで大陸に渡ったのよ」
 登季子は、丸木舟が見えなくなったその先を見やりながら言った。

「…………」
 唐突な話しに、ぼくは何と言っていいのかわからない。

「アイヌの神様の中に昔から義経がいるのよ。義経を祭った義経寺が北海道各地にあるんだけど、それはもともとアイヌが自分たちの神様として祭っていた義経を、後から入ってきたシャモたちが自分たちの価値観に合わせて祭りなおしたものなの」

「…………」

「安倍、藤原と続いた平泉の東北王朝は知っているでしょ」

「ええ、まあ」
 ぼくの日本史の知識では、曖昧な相槌を打つしかできない。

「東北王朝が栄華を極めたのは、北海道から樺太を経由して大陸とつながった太い貿易ルートを持っていたからなのよ。十三湊と北海道の間を大船で結んで、その先はアイヌや他の北方民族たちが中継してたの。東北からは金が、大陸からは豪華な服や馬、それに進んだ中国文化が輸入されていたの。義経は、平泉に引き取られてすぐそのルートに乗って大陸へ渡ったのよ」
 彼女は、ぼくが話しを理解しているか確認するようにこちらを見た。

 ぼくは、それに応えてうなずく。

「鞍馬山にいた頃は、義経は馬には乗っていなかった。金売吉次に案内されて平泉へ向かうときも、一行は歩いて奥州への道を辿って、馬は使っていない。それが、源平の戦いで、突然馬の名手として戦場に登場するわけよね。15歳で平泉に渡ってから25歳で頼朝の軍に加わるまでの10年間は謎に包まれているの。彼はその間、大陸との間を何度も往復した。大陸で最新の騎馬戦の技術を学んだわけね。そして、頼朝に追われて三厩まで追いつめられたとき……」

「身代わりを頼んで、自分は通いなれたルートを通って、大陸まで落ちのびた……」
 ぼくが続きを引き取ってつぶやくと、彼女は大きくうなずいた。

「そのどの時点でアイヌによって神格化されたかはわからないけれど、アイヌとの直接の接触が、それもかなり濃密な接触があったことはたしかよね。ついでにいえば、フビライが二度も日本侵攻を企てたでしょ」

「元冠ですか」

「そう。あれは、おじいさん、つまりチンギス・ハンの悲願を果たすための戦いじゃなかったかと思うのよ。わざわざ海を渡って攻め込む必然性がないでしょ。彼らはもともと騎馬民族、草原の民なんだから。でも、執拗に日本を攻めよう、しかも北からではなくて、西から攻めたというのは、チンギス・ハンが義経だったことを証明していると思うのよね。東北は、義経を救ってくれた大切な第二の故郷だから」

「…………」

 そのうちに、沖へ向かった舟がこちらへ戻ってきた。

 たっぷり風をはらんだ白い帆が、紺碧の空と水とに映える。近づくにしたがって、舳先が分ける鮮やかな二筋の波の白さが目に入ってきた。

 その光景を見つめているうちに、彼女の話しが現実的に思えてきた。

「でも、義経北行伝説は、まあおまけのようなものね。日本人にとっては、北は未開の荒野というイメージがいまだに強いけれど、この北海道から樺太、シベリアの一帯は、北の様々な民族たちのプロムナードみたいなところだったのよ。あのイチオマチプは、いわばその象徴ね」

 この祭りは、かつて北の海と大地を自由に駆け巡った祖先たちを忍び、アイヌにとって新しい時代を築くために、伝統を復活する祝いなのだと、彼女は言った。

「この進水式をアイヌ語でチップサンケと呼ぶのよ」

 岸辺では引き上げられたイタオマチプを囲んで宴が張られた。

 百八十年ぶりに復元されたというこの舟のまわりで、ムックリと呼ばれるアイヌの口琴が掻き鳴らされ、哀切を帯びた歌が朗誦された。

 老人も、若者も、男も女も、誰もが感涙にうるんだ目で酒を傾けていた。
ぼくには、それがアイヌ文化の復興を祝う宴というよりは、野辺の送りをすませたばかりの弔いの人たちのように見えた。三輪さんが、暮色に染まったオホーツクの向こうに浮かぶ国後の島影を見たときの寂しそうな表情と、ここに居並ぶ彼らの表情がどことなく似ている気がした。

 登季子とぼくは、一座から少し離れて黒い砂の上に腰を降ろしていた。そして、一座からおすそ分けされた酒肴をつつきながら、夕暮れが湖面を彩っていくのを眺めていた。

「ところで、この後は、どこまで行くつもりなんです?」
 ぼくは、登季子に尋ねた。

 彼女は、その質問を待っていたとばかりに、目を輝かせて言った。

「じつはね、日高へ行きたいの。日高山地の奥のほう。あのあたりは、特別山深いから、よほど山登りの経験がないと危険なんでしょ。それで、あなたに案内役を頼みたいのよ」

「山登りの、案内役……」
 一瞬、彼女の言葉の意味をはかりかねた。

(山……)
 心の中で復唱する。

 そのとき、ふいにひらめくものがあった。
(山……そう、ぼくは山に登っていたのだ)
 突然、鮮やかな光景が脳裏に浮かびあがる。

 冬山。去年の山岳部の冬山合宿だ。

 ぼくたちは、雪深い上高地から徳沢を通り、奥又白へ入った。

 翌日、前穂高岳東壁を登攀し、その先、西穂高岳まで辿る予定の縦走に出発した。

 その日は、厳冬期の北アルプスではめったにお目にかかれない快晴だった。六人のメンバーが二人一組で三組のパーティに別れ、前穂高の東壁に取りつく。

 ぼくは、いつもコンビを組む先輩とアンザイレンしていた。

 ピッケルとアイスアックス、アイゼンの前爪を堅い蒼氷に突き立て、クモが壁を這うようにして、前穂高の東壁を登る。

 岩に張りついた氷はしっかりと密着していて、何の苦もなく、午前中に前穂高岳の頂上に達した。後は西穂高岳まで稜線伝いの楽なルートだ。

 前穂高岳の頂上からは、三百六十度の展望がきいた。

 目の前に並ぶ槍ヶ岳から穂高の連峰、その奥に居座る立山連峰、そして振り向けば屏風のように南北に連なる後立山の連嶺が、紺碧の空を背に圧倒する迫力で迫ってくる。空気がキンと張りつめ、ダイヤモンドダストが幻想のように煌いている。

「最高の山行ですね」
 登攀に使ったザイルを束ねる手を止めて、ぼくは背中を見せる先輩に言った。

「ああ、こんな天気は初めてだ。これなら、西穂までいっきに行けそうだな」
 振り向いた彼の口髭が真っ白に結氷していた。

「もう、ザイルはしまっちゃいましょうか?」

「いや、何もかも順調にいっているこういうときが危ないんだ。このままつないでいこう」

 その言葉に、ぼくは、束ねたザイルから十メートルあまりをほどき、先輩と自分との間に落とした。ここから奥穂高岳へは、吊り尾根と呼ばれる弓なりに連なる尾根が伸びている。吊り尾根には雪屁の張り出しもなく、夏の縦走よりも楽に行程を消化できそうだった。

 ぼくたちは一服したあと、また三組のトップを切って吊り尾根に歩みだした。

 雪がほどよく締まり、アイゼンが小気味よく効いた。岩の凹凸は氷に埋められ、自分の楽なスタンスで歩を進められる。

 気温は低いが、風はなく、日差しが暖かった。夏場の同じコースを行くよりよほど快適だった。

 先輩が先に立ち、ぼくは適当なザイルの張りを保って後に続く。

 吊り尾根の鞍部を越えて登りに差し掛かったとき、ぼくは、ふと先輩の背中から、先に横たわる稜線に視線を向けた。あいかわらず、紺碧の空には雲のひとかけらもなく、雄大なパノラマが広がっていた。

 安心して、足元に視線を戻そうとしたとき、何かが、意識に引っかかった。今見やった光景の中の何か不自然なものを見たような気がしたのだ。それを確かめるために、立ち止まって再び穂高連峰のほうを見やる。

 ぼくが急に立ち止まったせいで、ザイルが張りつめ、後ろに引き戻された先輩が転倒しそうになった。

「バカッ、急に止まる奴があるか!」
 憤慨した先輩が振り向きながら怒鳴る。
 だが、ぼくの目は彼の向こう側に釘付けになった。

 奥穂高岳の南にブリューゲルの描いたバベルの塔にそっくりな、ジャンダルムという岩峰ある。その肩のあたりで、カールした髪のように雪煙が舞い上がるのが見えた。

 ただならぬ予感に身構えるのと、突風がぼくたちを襲うのとほとんど同時だった。

 先輩が、紙っぺらのように宙に巻き上げられた。

 ぼくはとっさに腹ばいに雪面に身を投げだし、渾身の力をこめてクラストした雪面にピッケルのブレードを叩きこむ。

 先輩は、こちらを向いて、表情を凍りつかせたまま、風に煽られて、痩せ尾根から転落する。

 ザイルにいっきにテンションがかかり、体が引きずられる。ピッケルのブレードが、くもりガラスを引っかくような音をたてて雪面を滑る。抵抗も空しく、ぼくの体も地面から引き剥がされ、痩せ尾根から転落した。

 尾根の左右は、切り立った断崖だ。瞬時に死を覚悟した。

 滑落していく途中は、不思議に冷静だった。

 体が反転して、空が視界いっぱいに広がったとき、ふいに、妙な感慨が脳裏を過ぎった。

(空ってこんなに青かったかなあ……)
 人生の最後の場面でなんて間抜けなことを考えているんだと、自分を滑稽に感じながら、ぼくは落ちていった。

 ゆっくりとした落下の中で、最後の瞬間を覚悟したとき、突然、体が空中に止まった。そして、痛みが炸裂した。

 どれぐらい意識を失っていたのだろう。

 見回すと、断崖に腕のようにつきだした岩にザイルが引っかかって止まっていた。ぼくと先輩は、その岩を支点にむこうとこっちで、逆さ吊りになったままぶら下がっていた。

 体を動かそうとすると右手と右足に激痛が走った。

 さらに、左肩を脱臼したらしく、左腕の感覚がなかった。かろうじて動かせる左足で岩を蹴って先輩に近づく。にじり寄って、苦しい胸から声を絞り出して呼びかける。だが、応答はない。

 ぼくは、なんとかザイルを足にひっかけて、先輩を手繰り寄せた。彼は、口から泡まじりの血を吹き出していた。意識はなかった。

 そこまではっきり思い出したが、その先、急に記憶が不鮮明になった。
(あのあと……、あのあと、俺と先輩は、どうなったのだ?)

 先輩の生気を失った蒼白な顔だけが、記憶のスクリーンに大写しになる。

(そのあと、俺達はどうなったんだ……)
 思い出せない。

(もしかして、まだ、俺は岩だなに宙づりになったままなのか)
 突然、不安に襲われる。

 今、ほんとうの自分は何をしているのか思い出そうとする。だが、それがわからない。

 周囲を見回す。何かがあたりできらめいている。
(何だ?)

(ダイヤモンドダスト? それじゃ、やっぱり、ここは吊り尾根……)
 背筋を冷たい汗が伝う。ぼくは、パニックに襲われそうになる。

 そのとき、何かが、ぼくの体を大きくゆすった。

「ねえ、大丈夫。いったい、どうしたの」
 登季子が肩をゆすっていた。それで正気に戻った。

「どうしたの……、白昼夢でも見ているようだったわよ」

「白昼夢……?」

 なかなか動悸が収まらなかった。

「どうしたの、しっかりしてよ。私は、日高山地の奥へ一緒に行ってくれないかって言ったのよ」

「日高……、ああ、そうか」
 ふいに、登季子との話を思い出した。

「山登りは得意なんでしょ」

「……ああ、ええ、日高でしたよね。日高か、それも悪くないな。山も久しぶりだし」

 ぼくはすべてを思い出した。あの事故以来山から離れていたのだ。

 北海道の山に登ったことはないが、あのときのような危険はないだろう。

 ぼくは一度深呼吸して、気持ちを取り直し、登季子に聞いた。
「だけど、どうして、日高の山奥なんかに行きたいんですか?」

「淫乱の群れを探すの」

「インランの、群れ……」

「そう。淫乱の群れ」

 緋色の太陽が、湖の向こうの山の端に、たった今没した。

 一瞬、あたりが暗くなったかと思うと、次の瞬間、全天が、そしてあたり一面が茜色の光に包まれた。山が、湖が、草木が、傍らにいる登季子が、岸辺にいる人間たちが、朱色に燃え上がった。

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